磯兼雄平

磯兼さんの部屋 - 竹原の磯兼


最終更新:2021-02-03 スタート:2019-09-08


はじめに

色温度このようなパターンをすると小窓が出現します。小窓の中には,何か入っています。


で出現したものは,で閉じます。


見本の画像をすると大きくなり,再びすると元に戻ります。


基本的に,敬称は省かせていただきました。


 磯兼雄平は,竹原市の前身にあたる賀茂郡竹原町初代の町長に就任し,4期16年にわたって務めました。竹原市役所と在屋神社に,雄平の功績をえた 頌徳が残っています。雄平は,私の曾祖父にあたります。
 本人の肖像写真及び朗翁頌徳碑除幕式当時の写真は,祖父磯兼退三雄平の長男)ら受け継いで私が所蔵しているものを使用しました。

もくじ


略歴
写真
雄平君頌徳碑
朗翁頌徳碑

略歴
 弘化2年1845年)9月26日
  広島県賀茂郡東野村現在は竹原市)磯兼忠次郎の長男として誕生

 明治16年1883年)5月27日
  広島県豊田郡能良村現在は東広島市)善寺多田印順の三女タツと結婚

 明治22年1889年)3月8日
  町村制度施行に伴って誕生した賀茂郡竹原町の初代町長に就任

 明治37年1904年)6月28日
  藍綬褒章を受賞

 明治38年1905年)3
  4期16年間務めた町長を辞任

 昭和13年1938年)9月4日
  竹原町東野村で死去


写真

 町長を辞めてから3年あまり後の明治41年1908年)9月,63歳のときの写真です。

 大正14年1925年)ろ,80歳ぐらいのときの写真です。

 昭和13年1938年)4月17日,地方自治制度制定50周年を記念して,初代から5代目までの竹原町長が,初代町長宅に勢揃いしたときの写真です。雄平はこの年の9月,93歳を目前に亡くなりました。
前列左から2代村上英,初代磯兼雄平,3代松阪昭二
後列左から5代進藤林造,4代森川八郎



雄平君頌徳碑

 頌徳は,竹原市役所の庁舎南側にある駐車場に隣接して設置されています。頌徳碑の後方は飲食店や民家などです。
 この頌徳碑は,明治43年1910年)1月に礒宮八幡神社礒宮八幡神社は,竹原市役所の西方700mほどのところにあります。境内に建てられ,その後市役所に移されました。
 撮影:2019年3月

文字を書き写してみました。
磯兼
雄平
君頌
德碑
磯兼雄平君資性温厚夙從村政有聲望町村制施
行以來四膺竹原町長選善圓地方自治没深河川
埋填濱海共施教育防止疫厲改修道路奨勵製塩
皆克竭力又増殖本町基本財産矯正風俗鞅掌多
年勞功顕著者也明治三十七年六月二十八日官
乃賜君勅定藍綬褒章旌表其善行於是町民僉頌
君德建碑以傳諸不朽
 明治四十三年一月  竹原町長村上英謹識


朗翁頌徳碑

 朗翁頌徳碑は,東野村現在は竹原市東野町)有志が雄平の功績をえて,在屋神社の境内に建てた石碑です。親戚から入手した資料には,
「町長引退後は東野村の開発に専念し,貢献偉大なるを以て,昭和十一年,村人有志相謀りて有谷大明神現在の在屋神社です。ありやの漢字表記は,有谷・在谷・在屋の3種類があるようです。境内に頌徳碑を建立せらる」
と書いてあります。
 撮影:2019年10月


朗翁頌徳碑の除幕式
 碑の前にいる紋付姿は雄平だと思います。
 晩年の雄平は朗翁とよばれていたそうです。
 撮影:昭和12年1937年)1月17日

朗翁頌徳碑に刻まれている文字

在屋神社付近の地図
 朗翁頌徳碑は,竹原市役所から4kmほど北方,赤丸印を付けたところにあります。