母の死と恵み

こひつじの家

最終更新:2026-05-24
スタート:2026-05-24

天への道を歩み始めた母は,一時この世に呼び戻されて,御国の美しさを語ってくれました。


の宣告
 私は母が好きでした。母は不平をあまり言わず,いつもにこにこしていました。それに私たちには本当によくしてくれました。何でも話せて,また話のわかる母でした。父は定年で会社を退職してから,精神的にも肉体的にも疲れててしまったため,母は働きに出かけ,家の中の切り盛りもすべてっていました。

  私が結婚して実家を出て3ヶ月後の1978年2月4日,職場へ掛かかってきた母の電話は,私に激しいショックを与えました。
体の調子が悪いからクリニックでてもらったのだけど,だれか家族の者といっしょに来るように言われたの。よかったら今から来てもらえないかしら。
 医者がエックス線写真を示しながら私にげた病名は胃癌でした。たぶん手遅れだとも言われました。

手術とその後
 私は母にキリストの話をしました。
このままでは永遠の滅びしかありません。イエス・キリストを受け入れてください。
しかし母は,
信じたいけど,どうしても信じられない。
と言うのでした。
 まもなく母は,名古屋大学付属病院で手術を受けました。十二指腸脾臓膵臓などを摘出して,食道と小腸ないでしまうという大手術でした。それでも手術は無事に終わり,退院しました。

  術後の回復は意外に順調で,数ヶ月後に職場へも復帰しました。しかし職場で転んで足を骨折し,再び3か月ほど入院しました。ところが退院してからは体力の衰弱が激しく,そのうえ腹部を痛みがうようになってきました。

母の救い
 そのような状況にあったとき,私は知り合って間もないアメリカ人伝道師を実家にって母に会ってもらいました。母はめられるままにイエスを救いとして受け入れ,病気のやしのためにも祈ってもらいました。そうしたら,母は聞いたことがない言葉で歌い始めました。半時間ほどもて歌っていたでしょうか。私は驚きました。そして印象的でした。聖書には みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。 という異言のことが書いてありますが,母はもちろん異言など知らないはずでした。

  母は,信じたのだから苦痛はなくなるに違いないと思ったそうです。しかし,それからも痛みは増すばかりでした。死を覚悟して,
早く天へ行きたい。
と,しきりに言うようになりました。やがて,ほとんど何も食べられないようになったとき,一宮の山下病院に入院させました。主治医は私に絶望を宣言しました。

  そういう状態が続いて2か月ほどしたとき,母の弟が病室の母を見舞いに来て,新興宗教め始めました。しかし母はきっぱりと,私はキリストを信じたから,それで十分です。 と言ったそうです。そのときから急に痛みはなくなり,食欲も出てきたというから不思議です。間もなく,喫茶店へ行きましょう。 と言って,見舞いに来た私を誘って病院をけ出すのが楽しみになるくらいに元気になりました。私は主治医から,もしかしたらるかもしれない。 と言われ,望みが見えてきたことを喜びました。

死後を見た母
 ところが,それから1ヶ月もたない1980年8月30日,容体急変しました。職場で危篤の知らせを聞いて,病院へかけつけた時には母は昏睡状態で,特別室にいました。それでも私は意外に冷静でした。だれもいなくなったとき,私は母に手を置いて イエス・キリストの名によって目を覚ますように。 とやや大きな声で言いました。そうしたら,すぐに母は目を開き,笑顔で言うのでした。
今とってもすばらしいところへ行ってましたよ。本当にきれいなところよ。
 私はに感謝しました。そしてナースコールを押しました。医者や看護婦が来たので,私は病室を出ました。しばらくして病室に入ったら母はまた目を閉じていました。きっと普通に眠っているのだろうと思ったのですが,いつまでたっても目を覚ましません。看護婦が来て,母のを平手でたたき,大きな声で呼びかけてもだめでした。看護婦が出ていったあと,私は再び イエス・キリストの名によって目を覚ませ。 と言いました。母は再び目を開きました。それから,
私のことは心配いりません。天国へ行くのですから。それより,お父さんのことをお願いします。本当に皆さんにお世話になったのに,私は迷惑をかけてきました。ごめんなさい。
と,何人かの名をあげてっていました。しばらくの沈黙の後,
もう呼ばないでね。天国へ行かしてください。
と言ったのが,母の最後の言葉になりました。

  どうしたことでしょう。私は母の死がちっとも悲しくなかったのです。天で会えるときが楽しみでした。わずか半年あまりっていたが死んだときは,思い出すたびに泣けてきたのですが。




神の恵み
 神は,宇宙を創造して,そこに地球を用意されました。神の友として生きるもの,すなわち人をるためでした。神は,親が子を愛する以上に,人を愛しました。ところが人は自分の知恵や力を信頼して,親である神を離れてしまいました。神は全能ですから,強制的に 神をう心 を人に置くこともできたでしょう。しかし神はそれをされませんでした。そのことを私は次のように考えました。

  私に恋人がいるとしましょう。もし私に超能力があって,その力によって恋人の心を私に向けさせることができたなら,恋人は私をい,私のことが大好きでしょう。ても,きっと砂をんだような味けなさだけが私の中に残ると思います。そうではなくて,恋人が私の思いや愛を知って私を選び,好きになってくれたのなら,私のうちに喜びがあふれるにちがいありません。神も同じだと思います。神は,
わたしがどんなに人間を愛しているかを,すべての人に知ってもらいたい。そしてわたしのもとに帰って来てほしい。
と待っておられます。

  神は,実に,そのひとり子をお与えになったほどに,を愛された。それは御子を信じる者が,ひとりとしてびることなく,永遠のいのちを持つためである。神が御子わされたのは,をさばくためではなく,御子によってが救われるためである。ヨハネの福音書 3:16-17(新改訳聖書)

  神は心をこめてられた人間を愛するゆえに,すべての人が救われる道 をそなえてくださいました。それは神の御子イエス・キリストです。キリストは全人類のそむきのって死なれ,神の御力によって三日目によみがえりました。
このイエスを受け入れ,永遠の豊かないのちを得なさい。
と神は言っておられます。

  難行苦行をしたり,いおこないをしたりしてらをめる必要はありません。ありのまのすがたで,イエスをキリスト,すなわち救い主として信じ,受け入れてください。そうすれば,あなたの人生は希望と勝利と恵みに満ちたものになるにちがいありません。

1989年2月8日
新改訳聖書1970年版を使用
一部編集:2026.5.24