美濃路ここだけ事典

美濃路探訪

最終更新:2023-10-19
スタート:2023-09-06


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 美濃路探訪用の事典です。



ここだけ事典

 赤字のことば美濃路探訪専用です。

間宿間の宿
 宿場から次の宿場までが遠いとき,その途中に大名行列のような大人数の一行でも休息することができる施設が置かれることがあって,その地は間宿とよばれました。その施設は本陣と同様な造り,すなわち門を構えたりすることが許されていましたが,間宿での宿泊は許されず,旅籠を設けることも禁止されていました。


暗渠
 川や用水などにをした構造物です。多くの場合,暗渠の上は道路や公園などとして利用されています。



 主要街道に,江戸の日本橋を起点として1里(約4km)ごとに設けたです。街道の両側に対をなすように,底辺の長さ5間(約9m),高さ1丈(約3m)ほどに土盛りして作られ,頂上には主にが植えられました。一里塚は,距離の目安になったことはもちろん,旅人がちょっと一休みするところにもなりました。


追分
 街道の途中から,別の街道が分岐しているところです。


大木戸
 城下町街道に設けられた規模の大きい木戸です。城下の治安維持のため,夜間は閉鎖されました。見取絵図には大木戸が描かれていて,大木戸と添えてあります。大木戸大城戸とも書かれました。


大須
 木曽川長良川との間(現在の岐阜県羽島市桑原町大須)に昔からある地名です。大須にあった真福寺(大須観音)が徳川家康の命によって名古屋に移され,やがて大須観音を中心に大須とよばれる門前町が発達しました。今では名古屋大須が有名です。


親柱
 欄干玉垣などの先端に設けた,ひとまわり大きい柱のことです。橋の親柱には,多くの場合,橋の名前/川の名前/完成した年月などが書いてあります。


尾張名所図会(尾張名所圖會)
 江戸時代の末期から明治にかけて,尾張藩士岡田枇杷島橋橋守であった野口道直の著述と,画家小田切春江画家森高雅挿絵によって尾張の名所を紹介した全13巻の書籍です。漢字のですが,漢和辞典字源には,の説明のひとつに,ゑ いろどる,繪に通ずと書いてあります。読みは“え”で意味は“彩色する”,絵と同じような意味をもっているというようなことでしょうか。

 ところでは似た字のように感じますが,新字体は,かなり違った字のように感じてしまいます。私だけかもしれませんが。

尾張名陽図会(尾張名陽圖會)は,文政(1818〜1831年)ごろ,高力種信(猿猴庵)によって書かれた,尾張国を絵と文で紹介した本です。柿本人丸尾張をんだ和歌で始まって,尾張国の由来名古屋地名考と続きます。


街道
 自動車が登場する前の時代につくられた,と街をむすぶ道のことです。街道とよばれた街と大きな神社をむすぶ道などもありますが,利用者が少なく規模が小さい道は街道とはよばれなかったようです。


街道面影
 道に沿って建ち並ぶ古い家屋/道に面して存在する古風な門や塀/道の両側に続く松並木などがあって,当時の街道がしのばれる状態のことです。


街道町
 街道に沿って形成された町です。歴史的な観点で分類した町のうちのひとつですが,分類のしかたによっては宿場町の中に含めてしまうこともあるので,宿場町ほどは知られてないようです。


架道橋
 道路を鉄道橋の正式名です。


川高札
 渡船場に設けた高札場荷物をつけたまま馬を船にのせてはならないなど,乗船についての決まりごとが書いてありました。


閑所
 家屋がぎっしりと建ち並んだ街道から裏手へ抜けるために用意された,人が通ることができる道です。


岐阜街道
 井之口の一里塚の手前,四ッ家とよばれていたところで美濃路から分かれ,一宮宿笠松宿中山道の加納宿を通って岐阜に至った尾張藩が管理していた街道です。徳川幕府管轄した街道に準じて,一里塚松並木も備えられました。長良川れたで作った鮎鮓徳川将軍に献上する鮎鮓献上道中が毎年通ったことから,鮎鮓街道ともいわれました。


擬宝珠
 親柱などの上に取り付けられる,写真のような飾りです。


清須越
 徳川家康が,慶長15年(1610年)から始めて,清須にあった尾張国を,から町屋にいたる建造物などを住人ごと,水害などの災害に見舞われることが少ないなど,自然環境がよい名古屋へ移したことです。


桁下高
 川や池などの水面から,橋桁の下面までの高さです。


現在の美濃路
 当時の美濃路が現在も使用されている道路のことです。少しばかり位置が変わったり拡幅されたりしていても,明治地図にある美濃街道と同じ道筋であると考えられる道路を含みます。


高札場
 幕府などが出した法令を書いた高札とよばれた木の板を掲げるための設備で,屋根が付いていました。設置場所は厳格に決められていて,宿場には必ず,そして交通の要所などにも設けられました。


合祀
 おおまかにいうと神社合併です。明治から大正にかけて,国の神社合祀政策によって,多くの神社合祀させられました。


高度成長期
 ここでは,日本の経済が急速に成長した,昭和30年(1955年)〜昭和48年(1973年)ごろです。


古民家
 日本古来の建築様式で,おおよそ第二次世界大戦よりも前に建てた民家のことです。


佐屋路
 東海道七里の渡しを回避するためにつくられた,徳川幕府管轄主要街道です。熱田の北方で美濃路から分かれて佐屋(現在の愛知県愛西市佐屋町)に達し,佐屋からは三里の渡し桑名に向かいました。


簓子下見
 重ねながら横板を張った上から,の歯のような刻みを入れた簓子という縦棒を1尺(約30cm)ほどの間隔で打ちつけた板張です。格式の高い古民家や上品な板塀などによく使われています。


山門
 正門のことです。三門と書くこともあります。


寺標社標
 道に面した入口に建っている,神社の名前が彫ってある標柱です。


宿場
 公的な,人物/荷物/通信物の輸送に欠かせない問屋場などの施設を置いた,幕府または管轄する,主要街道の拠点です。ほとんどの宿場には,大名などの公的人物が宿泊したり休息したりする本陣などの施設もありました。


宿場町
 宿場を中心に形成された町です。城下町門前町などとともに,歴史的な観点で分類した町のうちのひとつです。


主要街道
 徳川幕府管轄した東海道美濃路などの街道や,尾張藩が管轄した 岐阜街道などの街道のことです。


新字体
 簡略化された漢字です。戦後使用すべき漢字として定められた当用漢字で採用されました。たとえば本字國/體/萬は,新字体では国/体/万」です。


石碑
 その地にちなんだ歴史的に価値があるものを後世に残すため,文字を刻んで建立した石のことです。記念碑歌碑頌徳碑慰霊碑などがあります。標柱に比べるとデザインに凝っています。


戦後期
 ここでは,第二次世界大戦後の約10年,昭和20年(1945年)〜昭和30年(1955年)ごろです。


立場
 宿場宿場の間に作られた,茶店などがある休憩所のことです。休息するときに人足を立て掛けたことから,そうよばれるようになったそうです。


玉垣
 神社に設けられた垣根のことです。石造りの場合,親柱子柱を並べて建てておいて,それらの上に細長い石を置いてつなげていました。最近は柱に丸い穴をあけて,ステンレスパイプを通してつなげることが多いようです。


津島街道
 新川橋美濃路から分かれて,甚目寺木田勝幡を経由して津島神社に至る街道です。


津島神社
 愛知県津島市にある,津島神社天王社総本社です。古い社名は津島牛頭天王社でしたが,明治時代津島神社に改められました。江戸時代は大勢の参拝者が全国各地から訪れました。見取絵図には津嶋牛頭天王または津嶋天王と添えてあります。


問屋場
 人足飛脚などの手配を引き受けた,宿場に置かれていた重要な施設です。


当時の美濃路当時の街道
 現役だった当時の美濃路街道です。美濃路の場合は見取絵図を基準にしました。


道標
 追分などに設置された,方向や距離などが彫られた目印です。みちしるべともいわれました。いろいろな形がありますが,多くは標柱です。


道路元標
 大正8年(1919年)に制定された旧道路法に基づいて,各市町村の道路基準地に設置された標柱です。


渡船場
 渡し船に乗り降りするところです。


名古屋名所団扇(名古屋名所團扇繪)
 江戸時代の末期に,画家森高雅名古屋とその近隣の名所を団扇に描いて尾張藩主に献上した絵です。


人足
 重い荷物をいで運ぶことを仕事としていた人です。


塗籠造
 防火を考慮して外壁を厚く塗った建築様式です。防水と美観を考慮して表面に漆喰を塗ってあります。


旅籠
 旅人が宿泊し食事をすることができるように整えられた施設です。本陣とは違い,武士も含めて,一般の人が利用できました。門を構えることは許されていなかったので,大きめの民家といった感じの外観でした。基本的に宿場にありましたが,例外もありました。


標柱
 目印として立てる柱です。木柱もありますが,多くは石柱です。実用的な目印すから,石碑に比べるとデザインは単純です。



 高札場が設けてあるところは札の辻とよばれていました。今でも各地に,地名として残っています。


普通の道
 国道県道ではない道のことです。多くは市道または町道です。


本字
 新字体として簡略化される前の本来の漢字です。新字体に対して旧字体ともいわれます。


本陣
 宿場に置かれていて,大名などの公的人物が宿泊した施設です。立派な門を構えて塀をめぐらせた,大きな屋敷といった構造でした。本陣という名は,合戦の場に設けられた本陣からきています。


美濃路見取絵図(美濃路見取繪圖)/見取絵図
 徳川幕府が,管轄する街道の実体を把握するために,寛政時代(1789年〜)から享和時代(1801年〜)にかけて調査し,文化年代(1804〜1818年)に完成させた絵図のうちの一つです。東京国立博物館に保管されています。ここでは,略して見取絵図とだけ書くことにします。


美濃路しるべ
 美濃路を散策する人のために設置した,美濃路ここは美濃路熱田美濃路垂井などと書いてある小さい案内板を,ここでは美濃路しるべとよぶことにします。


昔から
 見取絵図にあって,現在もあるという状態を,ここでは昔からと書くことにします。たとえばこの集落は昔からあります。というように使います。


虫籠窓
 縦に細長い柱を並べた構造の窓で,塗籠造の二階部分によく見られます。虫籠に似ていることから,このようによばれるようになりました。


明治地図
 ここでは,明治24年(1891年)測図地図(国土地理院所蔵)のことです。


名二環
 中日本高速道路が管理する名古屋第二環状自動車道のことです。略して名二環とよばれています。


屋根神屋根神様
 二階建家屋の一階部分の屋根上,すなわち一階のの上に置かれたです。を置くための土地がなかったためのアイディアだそうで,幕末のころから名古屋を中心に愛知県岐阜県でつくられました。


由緒板
 神社に設置されている,由緒が書いてある掲示板です。多くは和風の屋根が備えてあります。


欄干
 橋のに設けたのことです。正式には高欄といいますが,一般には欄干とよばれています。  


脇本陣
 宿泊者や休憩者が多く,本陣だけでは扱いきれないときに使用された施設です。施設の造りなどは,本陣に準じていました。