清須市

美濃路探訪




はじめに

美濃路←このような箇所をすると説明などが表示されます。★が付いている語句は「美濃路探訪」についての「ここだけ事典」に詳しい説明が書いてあります。


で出現したものは,で閉じます。


 清須市内の美濃路を取り上げます。①〜⑧〔6.2km〕
 清須は,名古屋にその座を明け渡すまでは尾張を治める中心地でした。そのような理由もあってか,美濃路に沿った町が,名古屋から続いているかのように,形成されていました。短い松並木はところどころに存在しましたが,「延々と続く松並木」はなかったようです。
 ここで取り上げる間には,八神街道の追分/清須宿/五条橋/須ヶ口の一里塚/津島街道の追分/尾張藩刑場/馬島道の追分/岩倉道の追分などがありました。
 清須市内の美濃路は,昔から★家並が続いていたこともあって,都市化の影響を受けることが比較的少なかったように思われます。街道の面影★を残しているところが,そこここにあります。史跡も多く,たいていは石碑★や説明板などが設置されています。



 「きよす」の表記は,清須と清洲がありますが,ここでは基本的に清須を用います。見取絵図★にも清須宿と書いてあります。(このページの最後に,「清須か清洲か」というコラムがあります。)
 通過市区町:愛知県清須市

地図:清須市内の美濃路
地図:清須市内の美濃路

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清須か清洲か

 清須という地名は14世紀中ごろの室町時代に現れ,清洲は15世紀終わりごろの戦国時代に現れたといわれています。江戸時代の前半は,先に登場した清須が優性でしたが,後半になると清洲の使用がしだいに多くなり,幕末のころにはほぼ清洲になっていました。明治13年(1880年)に西春日井郡清洲村が誕生し,さらに明治22年(1889年)の市町村制施行時に清洲町と登録されたことにより,清洲が定着しました。清須は,人々の記憶から消えていったと思われます。
 時代は溯って,江戸時代が始まったばかりのころ,清須城を中心に人口6〜7万人と推定される大きい城下町が形成されていました。名鉄の「丸の内」駅や,清須城下の南口があったといわれる「須ヶ口」駅の位置からも,その大きさが偲ばれます。ところが将軍徳川家康の命によって,清須は町ごと名古屋へ移されることになり,慶長15年(1610年)から,世に「清須越し」といわれる大移動が決行され,名古屋へ移された町人が清須へ戻らないように,清須は城も町も徹底的に破壊されて野原と化してしまいました。しかしその後間もなくの元和2年(1616年),美濃路に清須宿が置かれたことによって,少し息を吹き返しました。
 平成17年(2005年)7月,西春日井郡の清洲町/新川町/西枇杷島町が合併して清須市が誕生しました。このことは「栄光の清須が復活した。」といってもよさそうです。
 漢字の「須」は,「洲」と同様に「砂が盛り上がってできた島」というような意味をもっています。清須のほかにも,大須★や横須賀など,中州や砂州に関係があると思われる地名に使われています。