明治時代,磯兼家の墓地とするために磯兼雄平などが住んでいた屋敷の裏山250坪(約800m2)を切り開きました。そして近くの古い墓地にあった10基ほどの墓を移し,その後は亡くなった人の墓を,1基また1基と建てていきました。
墓地が作られた当時は何家族かの磯兼が付近に住んでいたようですが,やがて1人また1人と郷里を出て行くいくようになって,第二次大戦後,ついに竹原に住む磯兼がひとりもいないという状況になってしまいました。そうなると墓の世話が問題になってくるところですが,幸いなことに,墓地のすぐ近くに住んでいた磯兼家と親しい方が引き受けてくださいました。
それから半世紀あまりの時が流れ,墓に参る姿はほとんど絶え,世話を引き受けてくださった方も,ついに亡くなりました。そのことを知った被葬者墓に葬られている人の子孫たちの間には,「墓をどうしよう」という話が持ち上がってきました。そうした矢先の平成30年(2018年)7月,西日本を襲った豪雨によって墓地が被災しました。
「このままでは墓地は荒廃し,墓地の近くに住んでいる方々に迷惑をかける。」
そう考えた〔被葬者の子孫〕の有志は,他の〔被葬者の子孫〕の同意を得て,翌年の夏,その近くにある共同墓地に1基の墓を建てて改葬しました。
墓地が存在していたとき
墓は,民家の後方に迫っている山林の中にありました。
坂道を上って行くと,墓が見えてきました。
墓地は山の南斜面に沿って三段になっていました。
一段目の東方は,比較的広いスペースがとってありました。
二段目の中ほどから東を見たところです。二段目と三段目は,墓の前がやや狭い感じでした。
豪雨によって被災した墓地
坂を登り詰めたあたりで,たくさんの倒木に行く手を阻まれ,墓地に入ることさえできませんでした。
改葬とその後
令和元年(2019年)8月,山林にあった墓地からおよそ1km東方の共同墓地に建てた新しい墓碑の前で,建碑・納骨の法要がおこなわれました。
山林にあった墓地跡には,コンクリートの擁壁や石段などが残っています。
有縁者専用のページ
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〔竹原の墓〕→〔在屋の墓〕と進んで下さい。
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