美濃路探訪記とは

美濃路探訪記


最終更新:2021-09-27 スタート:2021-06-17


はじめに

美濃路このような箇所をすると説明などが表示されます。が付いている語句はここだけ事典に詳しい説明が書いてあります。


で出現したものは,で閉じます。


 美濃路を取り上げたきっかけは,近所を通っていた美濃路の消失を知ったことです。それまでも美濃路に残っていた古民家がなくなって整地されていたりすることを見るたびに,なんともいえない寂しさを感じていましたので,どのように変化してきたのか」自分の目で確かめながら,自由研究のかたちで少しまとめてみることにしました。


取り上げるもの

現在の美濃路に見られる当時の美濃路
 当時の美濃路にあって,今も残っている一里塚道標などを取り上げます。


当時の美濃路にあった一里塚本陣問屋場などの跡
 現在の美濃路石碑などのモニュメントがある場合はもちろん,何の痕跡もなくても取り上げます。


現在の美濃路にある史跡
 美濃路案内板などが設置されていたり,美濃路から見えたりする史跡を,当時の美濃路にはなかったものも含めて,取り上げます


失われた美濃路
 区画整理都市化治水工事などによって当時の美濃路現在の美濃路として残っていないところは,失われた経緯などを踏まえて,取り上げます。


神社仏閣
 美濃路に面していて見取絵図にあるものや,美濃路に深く関わったと思われるもを取り上げます。


注目したところ
 街道の雰囲気を残している古民家美濃路の様子ががらりと変わるところ/美濃路を散策するときに目印になると思われるところ,などを取り上げます。


取り組む姿勢

詳細に記述する
 ただ単に道標が交差点にあります。するのではなく,たとえば十字路の南東角に道標があって,北の面にはいち之宮,西の面には京都江戸が並べて彫られています。いように,詳しく説明します。


場所を明確に示す
 美濃路の状態を正しく把握するため,また散策に役立つように,詳しい地図を添えて,できるだけ正しい位置を示します。


石碑や説明板などの記述を載せる
 写真だけでは読みにくいことがありますので,できるだけ読み取って書くことにします。多くは縦書きで記述されていますが,縦書きは特にスマホでは読みにくいので,横書きにします。漢数字を算用数字で書いたときは,そのつどことわるつもりです。


の記述
 時代を把握しやすいように,ほぼすべてのところで明治28年1895年)いうように,和暦西暦)いうかたちで記述します。


ルビ
 名称は,文字だけではなく,読み方も大切だと思います。そこでできるだけ正しいと思われる読みを調べて,ルビを振るようにします。


事典を備える
 美濃路探訪記中にときどき登場する,たとえば追分道標絵図などのことばを調べることができるように,このページの中にここだけ事典設けました。ここだけ事典にあることばは,当時の美濃路は,このあたりに高札場がありました。いうように小さいを添えるとともに,することによって簡単な説明が表示されるようにしました。


一里塚などの名前
 見取絵図には,全ての宿場,主な河川/橋/道/神社仏閣などには,大垣宿五条橋というように名前が添えてありますが,一里塚立場などについては一里塚立場などとと添えてあるだけです。石碑などには史蹟 冨田一里塚というように固有名詞の扱いで彫られていることがありますが,ここでは冨田村にあった一里塚いう意味で冨田の一里塚いうように記述します。


漢字について
 基本的に新字体を用いますが,石碑などに使用されている漢字は,できるだけそのままの字体で記述します。本字が使用されている固有名詞については,最初だけ総見院總見院いうように新字体本字いうかたちで記述し,以降は新字体を使用します。


トイレ
 美濃路から歩いて数分で行ける公衆トイレ公衆便所見つけたときは,トイレがあることを書くとともに,その位置を地図上に小さい赤丸で示しておきます。


記述のかたち

列記の記号
 垂井宿大垣宿墨俣宿というように,列記するときはスラッシュで区切ります。


資料等の記述
 石碑説明板参考資料などに書いてある内容は,道標には,つしま右へ三里と書いてあります。いうように,黄色の背景を細枠で囲った中に記述します。


過去の状況
 もう見られなくなった過去の状況を記述するときは,10年ほど前までは,この角に大きな松の木がそびえていました。というように,ピンクの背景色を付けます。


考えたこと
 私が考えたことを記述するときは,書いてある文字から判断すると,この道標は道の反対側にあったと思われます。というように,水色の背景色を付けます。



地図について

街道の色
 美濃路は紫色,東海道中山道は青,その他の道は緑色の線で示します。がなくなったり障害物があったりして通れないところは破線にします。


記入する美濃路
 地図には,できるかぎり当時の美濃路を記入します。当時の美濃路は, 見取絵図明治地図戦後期に撮影された航空写真を参考に再現します。


各写真用の地図
 ほぼ全ての写真の下に,地図 A」るいは地図 A 視」いうような記号を付けます。地図すると地図が表示されるので,同じ英字がある鉛筆の先を見れば位置がわかります。視」添えてある場合は,写真を撮った位置,すなわち視点を示します。地図 A 赤丸ポスト」いうように,特定の対象物の位置を添える場合もあります。


縮尺が2種類
 各ページの先頭付近にある地図ですが,当時の美濃路は延々と松並木が続いているだけで,取り上げる対象が少ない」どという場合は,縮尺が大きく範囲が広い地図を使用することがあります。標準の地図の場合は,地図の左下にある距離が100m」なっていますが,縮尺が大きい地図の場合は200m」なっています。


ここだけ事典

 美濃路探訪記登場するいくつかの用語や言いまわしについて,簡単に解説します。赤字のことば美濃路探訪記用です。

間宿間の宿
 宿場から次の宿場までが遠いとき,その途中に大名行列のような大人数の一行」も休息することができる施設が置かれることがあって,その地は間宿とよばれました。その施設は本陣と同様な造り,すなわち門を構えたりすることが許されていましたが,間宿での宿泊は許されず,旅籠を設けることも禁止されていました。


暗渠
 川や用水などにをした構造物です。多くの場合,暗渠の上は道路や公園などとして利用されています。



 主要街道に,江戸の日本橋を起点として1里約4km)とに設けた塚です。塚は街道の両側に対をなすように,底辺の長さ5間約9m)高さ1丈約3m)どにりして作られ,頂上には主にが植えられました。一里塚は,距離の目安になったことはもちろん,旅人がちょっと一休みするところにもなりました。


追分
 街道の途中から,別の街道が分岐しているところです。


木戸
 城下街道設けられた城下の出入口のことです。見取絵図には木戸が描かれています。大城戸とも書かれました。



 木曽川長良川との間現在の岐阜県羽島市桑原町大須昔からある地名です。大須にあった真福大須観音徳川家康の命によって名古屋に移され,やがて大須観音を中心に大須とよばれる門前町が発達しました。今では名古屋大須が有名です。


親柱
 欄干玉垣などの先端に設けた,ひとまわり大きい柱のことです。橋の親柱は,橋の名前や完成した年月などを記録してあることが多いです。


張名所図会尾張名所圖會
 江戸時代の末期から明治にかけて,尾張藩士岡田枇杷島橋橋守であった野口道直の著述と,画家小田切春江画家森高雅挿絵によって尾張の名所を紹介した全13巻の書籍です。漢字のすが,漢和辞典は,ゑ いろどる,繪に通ず,すなわち,は,と同じ意味をもっている。書いてあります。似ている感じがしますが,新字体は,見た目が違いすぎるように思われます。


街道
 自動車が登場する前の時代につくられた,と街をむすぶ道のことです。街道とよばれた街と大きな神社をむすぶ道」どもありますが,利用者が少ない規模が小さい道は街道とはよばれなかったようです。


街道面影
 道に沿って建ち並ぶ古い家屋/道に面して存在する古風な門や塀/道の両側に続く松並木などがあって,当時の街道がしのばれる状態のことです。


街道町
 街道に沿って形成された町です。歴史的な観点で分類した町のうちのひとつですが,分類のしかたによっては宿場町の中に含めてしまうこともあるので,宿場町ほどは知られてないようです。


道橋
 道路を鉄道橋の正式名です。


閑所
 家屋がぎっしりと建ち並んだ街道から裏手へ抜けるために用意された,人が通ることができる道です。


岐阜街道
 の一里塚の手前,四ッ家とよばれていたところで美濃路から分かれ,一宮宿笠松宿中山道の加納宿を通って岐阜に至った張藩が管理する,一里塚松並木も備えた街道です。れたで作った鮎鮓徳川将軍に献上する鮎鮓献上道中が毎年通ったことから,鮎鮓街道ともいわれました。


桁下高
 川や池などの水面から,橋桁の下面までの高さです。


現在の美濃路
 当時の美濃路が現在も使用されている道路のことです。少しばかり位置が変わったり拡幅されたりしていても,明治地図にある美濃街道と同じ道筋であると考えられる道路を含みます。


高札
 幕府などが出した法令を書いた高札とよばれた木の板」掲げるための設備で,屋根が付いていました。設置場所は厳格に決められていて,宿場には必ず,そして交通の要所などにも設けられました。



 おおまかにいうと神社合併です。明治から大正にかけて,国の神社合祀政策によって,多くの神社合祀させられました。


高度成長期
 ここでは,日本の経済が急速に成長した,昭和30年1955年)昭和48年1973年)ろのことです。


民家
 日本古来の建築様式で,おおよそ第二次世界大戦よりも前に建てた民家のことです。


佐屋路
 東海道七里の渡しを回避するためにつくられた,徳川幕府管轄主要街道です。熱田の北方で美濃路から分かれて佐屋現在の愛知県愛西市佐屋町達し,佐屋からは三里の渡し桑名に向かいました。


山門
 の正門のことです。三門と書くこともあります。


社標
 道に面した入口に建っている,神社の名前が彫ってある標柱です。


宿
 公的な,人物/荷物/通信物の輸送に欠かせない問屋場などの施設を置いた,幕府または管轄する,主要街道の拠点です。ほとんどの宿場には,大名などの公的人物が宿泊したり休息したりする本陣などの施設もありました。


宿
 宿場を中心に形成された町です。城下門前などとともに,歴史的な観点で分類した町のうちのひとつです。


主要街道
 徳川幕府管轄した東海道美濃路など,張藩が管轄した岐阜街道などの街道です。



 簡略化された漢字です。戦後使用すべき漢字」して定められた当用漢字で採用されました。たとえば本字國/體/萬」は,新字体では国/体/万」す。



 その地にちなんだ歴史的に価値があるものを後世に残すため,文字を刻んで建立した石のことです。記念碑歌碑頌徳碑などがあります。標柱に比べるとデザインに凝っています。


戦後期
 ここでは,第二次世界大戦後の約10年,昭和20年1945年)昭和29年1954年)ろのことです。


立場
 宿場宿場の間に作られた,茶店などがある休憩所のことです。休息するときに人足を立て掛けたことから,そうよばれるようになったそうです。


玉垣
 神社に設けられた垣根のことです。石造りの場合,親柱子柱を並べて建てておいて,それらの上に細長い石を置いてつなげていました。最近は柱に丸い穴をあけて,ステンレスパイプを通してつなげることが多いようです。


津島街道
 新川橋美濃路から分かれて,木田勝幡を経由して津島神社に至る街道です。


津島神社
 愛知県津島市にある,津島神社天王社総本社です。古い社名は津島天王社でしたが,明治時代津島神社に改められました。江戸時代は大勢の参拝者が全国各地から訪れました。見取絵図には津嶋牛頭天王または津嶋天王と書いてあります。



 人足などの手配を引き受けた,宿場に置かれていた施設です。


当時の美濃路当時の街道
 現役だった当時の美濃路街道です。美濃路の場合は見取絵図を基準にしました。


道標
 追分などに設置された,方向や距離などが彫られた目印です。みちしるべ」もいわれました。いろいろな形がありますが,多くは標柱でした。


道路元標
 大正8年1919年)制定された旧道路法に基づいて,各市町村の道路基準地に設置された標柱です。


名古屋名所団扇名古屋名所團扇繪
 江戸時代の末期に,画家森高雅名古屋とその近隣の名所を団扇に描いて尾張藩主に献上した絵です。


人足
 重い荷物をいで運ぶことを仕事としていた人です。


旅籠
 旅人が宿泊し食事をすることができるように整えられた施設です。本陣とは違い,武士も含めて,一般の人が利用できました。門を構えることは許されていなかったので,大きめの民家といった感じの外観でした。基本的に宿場にありましたが,例外もありました。


標柱
 目印として立てる柱です。木柱もありますが,多くは石柱です。実用的なものですから,石碑に比べるとデザインは単純です。



 高札場が設けてあるところは札の辻よばれていました。今でも各地に,地名として残っています。


普通の道
 国道県道ではない道のことです。多くは市道または町道です。



 新字体として簡略化される前の本来の漢字です。新字体に対して旧字体ともいわれます。


本陣
 宿場に置かれていて,大名などの公的人物が宿泊した施設です。立派な門を構えて塀をめぐらせた,大きな屋敷といった構造でした。本陣という名は,合戦の場に設けられた本陣からきています。


美濃路絵図美濃路見取繪圖見取絵図
 徳川幕府が,管轄する街道の実体を把握するために,寛政(1789〜)時代から享和(1801〜)時代にかけて調査し,文化(1804〜1818)年代に完成させた絵図のうちの一つです。東京国立博物館に保管されています。ここでは,略して見取絵図だけ書くことにします。


美濃路のみちしるべ
 美濃路を散策する人のために設置した,美濃路ここは美濃路熱田美濃路垂井などと書いてある小さい案内板を,ここでは美濃路のみちしるべよぶことにします。


昔から
 見取絵図にあって,現在もある」いう状態を,ここでは昔から書くことにします。たとえばこの集落は昔からあります。いうように使います。


明治地図
 ここでは,明治24年1891年)図地図国土地理院所蔵)ことです。



 中日本高速道路が管理する名古屋第二環状自動車道のことです。略して名二環よばれています。


屋根屋根神様
 二階建家屋の一階部分の屋根上,すなわち一階のの上に置かれたす。を置くための土地がなかったためのアイディアだそうで,幕末のころから名古屋を中心に愛知県岐阜県でつくられました。


由緒板
 神社に設置されている,由緒が書いてある掲示板です。多くは和風の屋根が備えてあります。


欄干
 橋のに設けたのことです。正式には高欄といいますが,一般には欄干が使われています。  


脇本陣
 宿泊者や休憩者が多く,本陣だけでは扱いきれないときに使用された施設です。施設の造りなどは,本陣に準じていました。


参考文献

解説編付 美濃路絵図
 児玉幸多監修 東京美術 1977-06-05


美濃路 −熱田宿から垂井宿まで−
 日下英之著 愛知県郷土資料刊行会 1985-08-18


尾張名所図会 絵解き散歩
 前田栄作著/水野鉱造写真 風媒社 2013-10-25


写真アルバム 稲沢・清須の昭和
 竹田繁良編 樹林社 2014-02-21


古地図で楽しむ尾張
 溝口常俊編著 風媒社 2017-01-20


美濃路をゆく
 日下英之監修 風媒社 2018-05-30


ウォークマップ ホントに歩く東海道 別冊 美濃路 
 風人社編集部著 風人社 2018-09-13


佐屋路をゆく
 石田泰弘著 風媒社 2019-05-30



あとがき

 最初は熱田から出発することにしてページをつくり始めましたが,地図の北が上」逆らうかたちになって見にくくなることがわかりました。そこで北に位置する垂井から出発することにしました。
 2020年12月に撮影を開始しましたが,陽が照っていると特に太陽を背にした建物や日が当たった石碑などが思ったように写らないことが多かった」で,できるだけ曇っている日をって出かけるようにしました。しかし理想的な曇の日にはなかなかめぐりあえず,途中で陽が照ってきたのはまだよい方で,雨が降りだしたために途中で引き返したことがたびたびありました。
 主に,フルサイズ一眼Panasonic Lumix S5:20〜60mm」撮影しました。
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