旧尾西市一宮市)1

美濃路探訪

最終更新:2023-07-25
スタート:2021-11-30


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美濃路 ←このような表記をすると説明が表示されます。が付いている語句については「美濃路探訪」「ここだけ事典」に詳しく書いてあります。

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 ここでは木曽川を渡って愛知県に入ったところから,およそ木曽川に沿って南下する美濃路を歩きます。地図の①〜⑨
 この間は昔から家並が続いていたためか,都市化の影響をあまり受けていません。ところどころに街道の面影が残っています。

地図:起の渡船場跡から変則的な交差点までの美濃路
地図:起の渡船場跡から変則的な交差点までの美濃路



垂井に向かって戻る


ここは木曽川を渡って愛知県側に着いたところです。
 堤防には,水位が非常に高くなったときに扉を閉める陸閘があって,開いた口から美濃路が見えます。陸閘は長さ5m,幅3m,高さ2.5mほどで,その上を堤防道路が通っています。


地図上のA点から↘ 2021-11


 陸閘の上から見た木曽川です。かつてこのあたりに木曽川を渡るための船着き場があり,といわれていました。


地図上のB点から↖ 2021-09


 振り返って,美濃路の方を見ました。道の左側は金刀比羅で,境内に巨大な石灯籠が建っています。


地図上のB点から↘ 2021-09


金刀比羅です。美濃路に面した境内に,石碑説明板などがあります。


 2021-09


 2021-11
 神社に向かって左側のです。起渡船場跡と彫った石碑を中央に,左側に石板,右側に標柱があります。


 2021-11
 石板には次のような文字が彫ってあります。
 説明
 このあたりは むかし東海道美
濃路廻りにあたり 徳川時代には
木曽川の重要な渡船場で 上 中
下の三ヵ所があつた
 上は定渡船場で 起字堤町から
対岸の羽島市新井に達し 中は大
明神社前なので宮河戸の名があり
下は将軍家または朝鮮信使が通行
のとき船橋をかけたので 船橋河
戸と呼ばれたものの遺跡である

 注意
一、指定地を破壊しないこと
一、樹木の栽植ならびに伐採をしないこと
一、その他みだりに現状を変更しないこと
愛知県
 昭和四十二二十八日 尾西市
起渡船場跡保存会

 標柱には次のような文字が彫ってあります。
愛知県指定史跡
起渡船場跡
正面
昭和四十二年八月二十八日指定
右側
            愛知県
昭和四十二年十二月建之 尾西市
            起渡船場跡保存会
裏面

 神社に向かって右側です。見上げるばかりに大きい常夜灯があり,美濃路に面したところに比較的新しい説明板が設置されています。常夜灯の正面には大きく常夜燈台座の裏面には明治三十三年十一月再建と彫ってあります。側面や裏面には寄贈者と思われる名前がたくさんありますが,省略します。


 2021-09
 説明板には次のような内容が書いてあります。
愛知県指定文化財
史跡起渡船場跡〜定渡船場跡〜
一宮市起字堤町
昭和四十二年八月二十八日指定
 美濃路のには、上流から上・中・下の三ヶ所の渡し場があり、宮河船橋河と呼ばれていた。常時多くの人々に使用されていたのは定渡船場である。
 江戸時代初期から、渡船場には定渡船二隻・置船一隻・御召渡船一隻の合計四隻が尾張藩御船手役所から預けられ、他に鵜飼船や馬船も置かれ、人々の往来を支えた。旅人だけでなく、西国の大名の参勤交代や京都の公家の往来にも使用された。渡船場の実質的な管理は起宿の船庄屋が行い、船頭二十人がいた。
 昭和三十一年(一九五六)に現在の美濃大橋が完成するまで、この渡船場は岐阜県と愛知県を結ぶ重要な交通手段であった。
一宮市教育委員会


 説明板に,現役当時の渡船場の写真が載っています。




 人柱観音です。金刀比羅の境内を進んで階段を上ったところにあります。人柱観音縁起という石板には,木曽川築堤工事に携わっていた与三兵衛が,慶長16年1612年)夏の出水時に濁流に身を投じて人柱となって流れを静め,そのおかげで堤防が完成した。の言い伝えなどが彫ってあります。


人柱観音は地図にあり 2021-09




 金刀比羅の前に戻って,ゆるい上り坂を進むと,すぐ先に点滅式信号機を備えた交差点があります。美濃路はそこで右に折れます。
 左に見える古民家は,このあとすぐ取り上げる湊屋です。湊屋の前の道はその先が見えませんが,標高12mほどの交差点から6mも急降下しているためです。湊屋のすぐ後方に見える民家は三階建,さらに後方の民家は二階建です。


地図上のC点から↘ 2021-09


 振り返って垂井の方を見たところです。道路は陸閘の手前で左に折れて堤防の上に向かいます。堤防から下ってきた自動車が突然現れることがあるので,ぼぉーとしていると危ないです。
 陸閘には,起第一陸閘 昭和二十九年三月竣功と書いてある青銅製の扁額があります。


地図上のC点から↖ 2021-11




交差点の北東角に建っている古民家は,国登録有形文化財建造物に登録されている右衛門です。古民家は,市民団体湊屋管理する湊屋という茶店となっていて,入口の横に文化財のプレート説明板があります。9月に訪れたときは建物西側がブルーシートで被われていましたが,11月に訪れたときには美しい簓子下見の壁が再現されていました。


 2021-11


 2021-09
 文化財のプレートには次のような内容が書いてあります。


登録有形文化財
第23−0327〜0328号
この建造物は貴重な国民的財産です。
文化庁

 説明板には次のような内容が書いてあります。
 国登録有形文化財建造物
 旧湊屋店舗兼主屋・土蔵
 湊屋は代々文右衛門を襲名し、起渡船場を管理する船庄屋林家の下で、船方肝煎役を務め、船の手配等、渡船場の実務を担っていた。また、文右衛門は越前丸岡の商人から綛糸販売を委託され、丸岡の 綛糸をこの地域の織屋に売り、生産された縞木綿を買い取り、伊勢の商人等に販売する仲買商人であった。
 店舗兼主屋は二階建で、一階に出格子を付け、二階正面を低くし、軒を深く構えている。起宿に残された屋敷の間取図によれば間口十四間(約二十五メートル)奥行二十八間(約五〇メートル)と記されており、当時の起宿の町の中ではかなり広い規模の屋敷であったことがわかる。屋敷の建築年は明らかではないが、江戸時代末期の屋敷構成を踏襲して、明治時代前期に建てられたとされている。
 北側に建つ土蔵は西倉、中倉、東倉からなり、道筋から二階建の西倉、東倉がならび、両者の連結部に屋根を架け、平屋建の中倉としている。西倉は幕末期の土蔵を昭和二〇〜三〇年代に移築したものであり、その時に中倉を設けたとされる。東倉は使用された部材等から昭和前期の建造と推定されている。
 明治二十四年(一八九一)に岐阜県旧根尾村(現本巣市)附近を震源とする濃尾地震の発生により、この地域の建物の多くは倒壊したものの、店舗兼主屋は濃尾地震に耐えた数少ない建物である。宿場町の名残を今に伝える貴重な建築物であり、平成二十二年に国登録有形文化財建造物に登録された。
 一宮市教育委員会

 入って左側の屋内は,こんな感じです。


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 湊屋の前から交差点の方を見たところです。交差点の北西角に公衆トイレと観光用の無料駐車場があります。


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 交差点から,熱田の方へ向かう美濃路を見たところです。美濃路木曽川に沿った河岸段丘の上にあって,坂道にはなっていません。


地図上のD点から↙ 2021-09


 交差点から少し進んで振り返って見ました。垂井に向かう美濃路は,交差点で左に折れます。


地図上のE点から↗ 2021-09




 外側が簓子下見で被われた大きい古民家がありました。


地図上のF点から↓ 2021-09


 の向かい側にも古民家がありました。


地図上のF点から↙ 2021-11




現在の美濃路は,アンダーパス県道18号線大垣一宮線下をくぐります。県道が少し高架になっているために美濃路が下る量は1.2mと少なめですが,車道の幅は3.5mと狭く,交互通行を余儀なくされます。道の両側にある歩道は下ってはいませんが,幅はわずか85cmしかありません。


地図上のG点から↙ 2021-09




右手に高い木がえ,石灯籠標柱とともにフェンスで囲ってあります。イブキ伊吹柏槙は本州などに自生するヒノキ科の常緑樹で,園芸種のカイズカイブキがよく知られています。樹高10mにもなれば巨木といった感じになりますが,このイブキは私の簡単な測量で15mほどもありました。
 標柱に書いてある市」旧尾西市のことですが,現在は一宮市に引き継がれています。


地図上のA点から← 2021-09



 標柱には次のような文字が彫ってあります。正面は美濃路の方を向いています。
天然記念物 加納邸のいぶき
正面
市文化財指定 昭和四十一
右側



 美濃路に面した大明神社です。見取絵図には金山彦大神宮と書いてあります。


地図上のB点から↓ 2021-09


 大明神社に入った左側に説明板がが2つ並んでいます。


 2021-09
 左側は美濃路との関係が深い起渡船場宮河戸跡についての説明板です。次のような内容が書いてあります。右側は無形民俗起六斎ばやしついての説明板です。内容については省略しました。
愛知県指定文化財
史跡 起渡船場跡〜宮河戸跡〜
一宮市起字堤町
昭和四十二年八月二十八日指定
 起渡船場には上・中・下の三ヶ所の渡し場があった。大明神社の西にある木曽川を「宮河」、俗に「清河」と称した。もとは御手洗場でもあったが、船荷の揚げ下ろしがされていた。
 対岸の渡船場は、美濃国中島郡村(現岐阜県羽島市正木町新井)の燈明河戸と呼ばれていた。
 宮河戸は、大藩の木曽川渡船など、金刀比羅社のある(「の渡し」)だけでは渡船が困難な時に使用された。たとえば、文久元年(一八六一)の皇女和宮の下向は当初、美濃路の通行が計画されており、その時この宮河戸の使用も計画された。
一宮市教育委員会

 左側の説明板には,尾張名所図会に掲載されている,起の渡船場を描いた起川という絵が添えてあります。起川木曽川のことです。


 大明神社鳥居をくぐった先の境内に,樹高20mほどの天然記念物の大いちょうえています。樹齢は4百年ほどと推定され,愛知県の文化財に指定されています。


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 大いちょうの前に建っている標柱には次のような文字が彫ってあります。
天 然
記念物
起の大いちょう
大明神社

 標柱のすぐ左にある大明神社由緒板には,次のような内容が書いてあります。
 この神社は旧中山道垂井宿から東海道熱田宿に至る「美濃路」の尾張の最初の宿場であった「起宿」にある。
 社伝によると創建は明らかではないが、室町時代初期の尾張國守護・斯波義重(しばよししげ)が社殿を造営され、四代尾張藩主・徳川吉通(とくがわよしみち)が社殿を寄進したとされる。

大明神社の前に宮河戸跡標柱が建っています。
 後方の木は起の大いちょうす。


 2021-09
 標柱には次のような文字が彫ってあります。

            愛知県
昭和四十二年十二月建之 尾西市
            起渡船場跡保存会
左側
愛知県指定史跡
宮河戸跡
正面
ここは起渡船場三カ所のうち宮河戸と呼ばれ
かつては大明神社の御手洗に用いられ、水筋変 
更または通行混雑のとき渡船に使用された
右側



 本誓山門です。美濃路から東の方に向かうやや急な下り坂の途中にあります。美濃路からは,山門本堂の屋根が見えます。本誓寺見取絵図にもある古い寺です。


地図上のC点から↖ 2021-11




 古民家がありました。このにも,先ほど見たと同じように,簓子下見の壁があります。


地図上のD点から↓ 2021-09


 美濃路は,に続く古民家の前から下り坂になります。この先の変則的な交差点をすぎると,これまで12mあった標高は4mほども下がります。階段の高さからも,美濃路が急降下していることがわかります。階段の後方に,低くなって続いている美濃路が見えます。


 2021-09


高札場があったあたり地図上のF点)ら変則的な交差点の反対側を見たところです。見取絵図によると,写真中央から左手あたりに問屋場がありました。
 写真奥に向かっている道路は街道とよばれている旧起町のメインストリートです。ここから100mほど先に起駅があって,新一宮駅現在の名鉄一宮駅路面電車が走っていましたが,昭和28年1953年)6月に廃止されました。
 起街道歩道橋を左に下りたところに,トイレがあります。


地図上のF点から→ 2021-09


変則的な交差点の南西角です。見取絵図によると,写真中央あたりに高札場がありました。


地図上のE点から← 2021-09




船橋跡石碑説明板があります。変則的な交差点から木曽川に向かって行くとすぐのところです。見取絵図には,船橋河戸 此所御上洛朝鮮人来聘之節船橋掛場と書いてあります。左に立っている木は,大木ではありませんがイブキです。
 県道136号線一宮清須線は,ここにある字路を起点に変則的な交差点で美濃路と合流します。このあとも美濃路県道136号線は,たびたび一致します。


地図上のG点から↗ 2021-09



 2021-09
 石碑には次のような文字が彫ってあります。
 愛知県指定史跡
船𫞎跡
正面
 ここは起渡船場三カ所のうち船 
橋河戸と呼ばれ 徳川将軍家また
は朝鮮信使が通行のとき 船橋を
かけて川を渡つたところで 附近
にその材料を納める船橋蔵三棟と
船橋高札とがあつた
 昭和四十二年十一月建之
          愛知県
          尾西市
     起渡船場跡保存会
裏面

 説明板には次のような内容が書いてあります。
愛知県指定文化財
 史跡 起渡船場跡〜船橋跡〜
 一宮市起字堤町
 昭和四十二年八月二十八日指定
 船橋とは、船を並べて繋ぎ止め、その上に板などを渡した橋である。
 美濃路では、木曽川・境川・長良川・揖斐川の渡船場に、朝鮮通信使、将軍といった特別な通行のためにのみ船橋が架けられた。
 木曽川の起の船橋に架けられた船橋は、全長八百五十メートル前後、船数は二百七十艘を越える日本最大の船橋で、当時は「起川船橋」と呼ばれた。
 宝暦十四年(一七六四)の朝鮮通信使の来朝を最後に、架けられることはなくなったものの、『尾張名所図会』は、起川船橋を「海道第一の壮観」と称し、また、朝鮮通信使の一行も、船橋の壮大さを記録している。
 一宮市教育委員会

 説明板には,一宮市尾西歴史民俗資料館で展示保管されている起川船橋略図絵添えてありますが,説明板の表面全体に細かいひび割れが生じ傷んでいたので,ここでは資料館で撮影した図絵を紹介します。


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熱田に向かって進む