垂井に向かって戻る
① ここは木曽川 を渡って愛知県 側に着いたところです。
堤防には,水位が非常に高くなったときに扉を閉める陸閘 があって,開いた口から美濃路 が見えます。陸閘 は長さ5m,幅3m,高さ2.5mほどで,その上を堤防道路が通っています。
地図上のA点から↘ 2021-11
陸閘 の上から見た木曽川 です。かつてこのあたりに木曽川 を渡るための船着き場 があり,定 渡 船 場 といわれていました。
地図上のB点から↖ 2021-09
振り返って,美濃路 の方を見ました。道の左側は金刀比羅 社 で,境内に巨大な石灯籠 が建っています。
地図上のB点から↘ 2021-09
② 金刀比羅 社 です。美濃路 に面した境内に,渡 船 場 跡 の石碑★ や説明板 などがあります。
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神社 に向かって左側のです。起渡船場跡 と彫った石碑 を中央に,左側に石板 ,右側に標柱★ があります。
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石板 には次のような文字が彫ってあります。
説明
このあたりは むかし東海道美
濃路廻りにあたり 徳川時代には
木曽川の重要な渡船場で 上 中
下の三ヵ所があつた
上は定渡船場で 起字堤町から
対岸の羽島市新井に達し 中は大
明神社前なので宮河戸の名があり
下は将軍家または朝鮮信使が通行
のとき船橋をかけたので 船橋河
戸と呼ばれたものの遺跡である
注意
一、指定地を破壊しないこと
一、樹木の栽植ならびに伐採をしないこと
一、その他みだりに現状を変更しないこと
愛知県
昭和四十二 年八 月二十八 日 尾西市
起渡船場跡保存会
標柱 には次のような文字が彫ってあります。
愛知県
昭和四十二年十二月建之 尾西市
起渡船場跡保存会
裏面
神社 に向かって右側です。見上げるばかりに大きい常夜灯 があり,美濃路 に面したところに比較的新しい説明板 が設置されています。常夜灯 の正面には大きく常夜燈 ,台座 の裏面には明治三十三年十一月再建 と彫ってあります。側面や裏面には寄贈者と思われる名前がたくさんありますが,省略します。
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説明板 には次のような内容が書いてあります。
愛知県指定文化財
史跡起渡船場跡〜定渡船場跡〜
一宮市起字堤町
昭和四十二年八月二十八日指定
美濃路の起 渡 船 場 には、上流から上・中・下の三ヶ所の渡し場があり、定 渡 船 場 、宮河 戸 、船橋河 戸 と呼ばれていた。常時多くの人々に使用されていたのは定渡船場である。
江戸時代初期から、渡船場には定渡船二隻・置船一隻・御召渡船一隻の合計四隻が尾張藩御船手役所から預けられ、他に鵜飼船や馬船も置かれ、人々の往来を支えた。旅人だけでなく、西国の大名の参勤交代や京都の公家の往来にも使用された。渡船場の実質的な管理は起宿の船庄屋が行い、船頭二十人がいた。
昭和三十一年(一九五六)に現在の美濃大橋が完成するまで、この渡船場は岐阜県と愛知県を結ぶ重要な交通手段であった。
一宮市教育委員会
説明板に,現役当時の渡船場 の写真が載っています。
人柱観音 です。金刀比羅 社 の境内を進んで階段を上ったところにあります。人柱観音縁起 という石板 には,「 木曽川築堤工事 に携わっていた与三兵衛 が,慶長16年( 1612年)夏の出水時に 濁流に身を投じて人柱 となって流れを静め,そのおかげで堤防 が完成した。」 と の言い伝えなどが彫ってあります。
人柱観音は地図にあり 2021-09
金刀比羅 社 の前に戻って,ゆるい上り坂を進むと,すぐ先に点滅式信号機を備えた交差点があります。美濃路 はそこで右に折れます。
左に見える古民家★ は,このあとすぐ取り上げる湊屋 です。湊屋 の前の道はその先が見えませんが,標高12mほどの交差点から6mも急降下しているためです。湊屋 のすぐ後方に見える民家は三階建 ,さらに後方の民家は二階建 です。
地図上のC点から↘ 2021-09
振り返って垂井 の方を見たところです。道路は陸閘 の手前で左に折れて堤防 の上に向かいます。堤防 から下ってきた自動車が突然現れることがあるので,ぼぉーとしていると危ないです。
陸閘 には,起第一陸閘 昭和二十九年三月竣功 と書いてある青銅製の扁額 があります。
地図上のC点から↖ 2021-11
③ 交差点の北東角に建っている古民家 は,国登録有形文化財建造物 に登録されている「 旧湊 屋 文 右衛門 邸 」の 主 屋 です。古民家 は,市民団体「 湊屋倶 楽 部 」が 管理する湊屋 という茶店 となっていて,入口の横に文化財のプレート と説明板 があります。9月に訪れたときは建物西側がブルーシートで被われていましたが,11月に訪れたときには美しい簓子下見★ の壁が再現されていました。
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文化財のプレート には次のような内容が書いてあります。
登録有形文化財
第23−0327〜0328号
この建造物は貴重な国民的財産です。
文化庁
説明板 には次のような内容が書いてあります。
国登録有形文化財建造物
旧湊屋店舗兼主屋・土蔵
湊屋は代々文右衛門を襲名し、起渡船場を管理する船庄屋林家の下で、船方肝煎 役を務め、船の手配等、渡船場の実務を担っていた。また、文右衛門は越前丸岡の商人から綛糸 販売を委託され、丸岡の
綛糸をこの地域の織屋に売り、生産された縞木綿を買い取り、伊勢の商人等に販売する仲買商人であった。
店舗兼主屋は二階建で、一階に出格子を付け、二階正面を低くし、軒を深く構えている。起宿に残された屋敷の間取図によれば間口十四間(約二十五メートル)、 奥行二十八間(約五〇メートル)と記されており、当時の起宿の町の中ではかなり広い規模の屋敷であったことがわかる。屋敷の建築年は明らかではないが、江戸時代末期の屋敷構成を踏襲して、明治時代前期に建てられたとされている。
北側に建つ土蔵は西倉、中倉、東倉からなり、道筋から二階建の西倉、東倉がならび、両者の連結部に屋根を架け、平屋建の中倉としている。西倉は幕末期の土蔵を昭和二〇〜三〇年代に移築したものであり、その時に中倉を設けたとされる。東倉は使用された部材等から昭和前期の建造と推定されている。
明治二十四年(一八九一)に岐阜県旧根尾村(現本巣市)附近を震源とする濃尾地震の発生により、この地域の建物の多くは倒壊したものの、店舗兼主屋は濃尾地震に耐えた数少ない建物である。宿場町の名残を今に伝える貴重な建築物であり、平成二十二年に国登録有形文化財建造物に登録された。
一宮市教育委員会
入って左側の屋内は,こんな感じです。
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湊屋 の前から交差点の方を見たところです。交差点の北西角に公衆トイレ と観光用の無料駐車場があります。
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交差点から,熱田 の方へ向かう美濃路 を見たところです。美濃路 は木曽川 に沿った河岸段丘 の上にあって,坂道にはなっていません。
地図上のD点から↙ 2021-09
交差点から少し進んで振り返って見ました。垂井 に向かう美濃路 は,交差点で左に折れます。
地図上のE点から↗ 2021-09
外側が簓子下見★ で被われた大きい蔵 と古民家★ がありました。
地図上のF点から↓ 2021-09
蔵 の向かい側にも古民家 がありました。
地図上のF点から↙ 2021-11
④ 現在の美濃路★ は,アンダーパス で県道18号線 ( 大垣一宮線 )の 下をくぐります。県道 が少し高架になっているために美濃路 が下る量は1.2mと少なめですが,車道の幅は3.5mと狭く,交互通行 を余儀なくされます。道の両側にある歩道は下ってはいませんが,幅はわずか85cmしかありません。
地図上のG点から↙ 2021-09
⑤ 右手に高い木が聳 え,石灯籠 と標柱★ とともにフェンスで囲ってあります。イブキ ( 伊吹柏槙 ) は本州などに自生するヒノキ科の常緑樹で,園芸種のカイズカイブキ がよく知られています。樹高10mにもなれば巨木といった感じになりますが,このイブキ は私の簡単な測量で15mほどもありました。
標柱 に書いてある「 市」は 旧尾西市 のことですが,現在は一宮市 に引き継がれています。
地図上のA点から← 2021-09
標柱 には次のような文字が彫ってあります。正面は美濃路 の方を向いています。
美濃路 に面した大明神社 です。見取絵図★ には金山彦大神宮 と書いてあります。
地図上のB点から↓ 2021-09
大明神社 に入った左側に説明板が が2つ並んでいます。
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左側は美濃路 との関係が深い起渡船場 「宮河戸跡 」 についての説明板 です。次のような内容が書いてあります。右側は「 無形民俗 起六斎ばやし 」に ついての説明板です。内容については省略しました。
愛知県指定文化財
史跡 起渡船場跡〜宮河戸跡〜
一宮市起字堤町
昭和四十二年八月二十八日指定
起渡船場には上・中・下の三ヶ所の渡し場があった。大明神社の西にある木曽川を「宮河 戸 」、俗に「八 百 清河 戸 」と称した。もとは御手洗場でもあったが、船荷の揚げ下ろしがされていた。
対岸の渡船場は、美濃国中島郡新 井 村(現岐阜県羽島市正木町新井)の燈明河戸 と呼ばれていた。
宮河戸は、大藩の木曽川渡船など、金刀比羅社のある定 渡 船 場 (「上 の渡し」)だけでは渡船が困難な時に使用された。たとえば、文久元年(一八六一)の皇女和宮 の下向は当初、美濃路の通行が計画されており、その時この宮河戸の使用も計画された。
一宮市教育委員会
左側の説明板 には,尾張名所図会★ に掲載されている,起の渡船場 を描いた「 起川 」 という絵が添えてあります。起川 は木曽川 のことです。
大明神社 の鳥居 をくぐった先の境内に,樹高20mほどの天然記念物 「 起 の大いちょう 」 が聳 えています。樹齢は4百年ほどと推定され,愛知県の文化財 に指定されています。
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大いちょう の前に建っている標柱★ には次のような文字が彫ってあります。
標柱 のすぐ左にある大明神社 の由緒板★ には,次のような内容が書いてあります。
この神社は旧中山道垂井宿から東海道熱田宿に至る「美濃路」の尾張の最初の宿場であった「起宿」にある。
社伝によると創建は明らかではないが、室町時代初期の尾張國守護・斯波義重(しばよししげ)が社殿を造営され、四代尾張藩主・徳川吉通(とくがわよしみち)が社殿を寄進したとされる。
⑥ 大明神社 の前に「 宮河戸跡 」の 標柱★ が建っています。
後方の木は「 起の大いちょう 」で す。
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標柱 には次のような文字が彫ってあります。
愛知県
昭和四十二年十二月建之 尾西市
起渡船場跡保存会
左側
ここは起渡船場三カ所のうち宮河戸と呼ばれ
かつては大明神社の御手洗に用いられ、水筋変
更または通行混雑のとき渡船に使用された
右側
本誓 寺 の山門 です。美濃路 から東の方に向かうやや急な下り坂の途中にあります。美濃路 からは,山門 や本堂 の屋根が見えます。本誓寺 は見取絵図★ にもある古い寺です。
地図上のC点から↖ 2021-11
蔵 と古民家★ がありました。この蔵 にも,先ほど見た蔵 と同じように,簓子下見★ の壁があります。
地図上のD点から↓ 2021-09
美濃路 は,蔵 に続く古民家 の前から下り坂になります。この先の変則的な交差点をすぎると,これまで12mあった標高は4mほども下がります。階段の高さからも,美濃路 が急降下していることがわかります。階段の後方に,低くなって続いている美濃路 が見えます。
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⑦ 高札場★ があったあたり( 地図上のF点)か ら変則的な交差点の反対側を見たところです。見取絵図★ によると,写真中央から左手あたりに問屋場★ がありました。
写真奥に向かっている道路は起 街道 とよばれている旧起町 のメインストリートです。ここから100mほど先に起駅 があって,新一宮駅 ( 現在の名鉄一宮駅 )ま で路面電車 が走っていましたが,昭和28年( 1953年)6 月に廃止されました。
起街道 を跨 ぐ歩道橋 を左に下りたところに,トイレ があります。
地図上のF点から→ 2021-09
⑧ 変則的な交差点の南西角です。見取絵図★ によると,写真中央あたりに高札場★ がありました。
地図上のE点から← 2021-09
⑨ 船橋跡 の
石碑★ と
説明板 があります。変則的な交差点から
木曽川 に向かって行くとすぐのところです。
見取絵図★ には,
船橋河戸 此所 御上洛並 朝鮮人来聘之節 船橋掛場 と書いてあります。左に立っている木は,大木ではありませんが
イブキ です。
県道136号線 ( 一宮清須線 )
は,ここにある
T 字路を起点に変則的な交差点で
美濃路 と合流します。このあとも
美濃路 と
県道136号線 は,たびたび一致します。
地図上のG点から↗ 2021-09
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石碑 には次のような文字が彫ってあります。
ここは起渡船場三カ所のうち船
橋河戸と呼ばれ 徳川将軍家また
は朝鮮信使が通行のとき 船橋を
かけて川を渡つたところで 附近
にその材料を納める船橋蔵三棟と
船橋高札とがあつた
昭和四十二年十一月建之
愛知県
尾西市
起渡船場跡保存会
裏面
説明板 には次のような内容が書いてあります。
愛知県指定文化財
史跡 起渡船場跡〜船橋跡〜
一宮市起字堤町
昭和四十二年八月二十八日指定
船橋とは、船を並べて繋ぎ止め、その上に板などを渡した橋である。
美濃路では、木曽川・境川・長良川・揖斐川の渡船場に、朝鮮通信使、将軍といった特別な通行のためにのみ船橋が架けられた。
木曽川の起の船橋河 戸 に架けられた船橋は、全長八百五十メートル前後、船数は二百七十艘を越える日本最大の船橋で、当時は「起川船橋 」と呼ばれた。
宝暦十四年(一七六四)の朝鮮通信使の来朝を最後に、架けられることはなくなったものの、『尾張名所図会』は、起川船橋を「海道第一の壮観」と称し、また、朝鮮通信使の一行も、船橋の壮大さを記録している。
一宮市教育委員会
説明板 には,
一宮市尾西歴史民俗資料館 で展示保管されている
「 起川船橋略図絵 」
が 添えてありますが,
説明板 の表面全体に細かいひび割れが生じ傷んでいたので,ここでは
資料館 で撮影した図絵を紹介します。
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