旧尾西市一宮市)1

美濃路探訪


最終更新:2022-03-05 スタート:2021-11-30


はじめに

美濃路このような箇所をすると説明などが表示されます。が付いている語句は美濃路探訪」ついてここだけ事典」詳しい説明が書いてあります。


で出現したものは,で閉じます。


見本の画像をすると大きくなり,再びすると元に戻ります。


 起の渡船場跡から坂を下る途中にある交差点までの,旧尾西市内美濃路を取り上げます。①〜⑨
 当時起川とよばれていた木曽川にあった,通常使用された定渡船場/主に荷物の運搬に使用された宮河将軍など特別の通行時に船橋を掛けた船橋河戸が,今は史跡となっています。昔から家並が続いていたこの間の美濃路は,あまり都市化の影響を受けることがなかったようで,ところどころに街道の面影が残っています。濃尾地震にも耐えた古民家湊屋は入ることができます。

地図:起の渡船場跡から坂を下る途中にある交差点までの美濃路
地図:起の渡船場跡から坂を下る途中にある交差点までの美濃路





木曽川を渡って愛知県側に着いたところです。
 堤防には,水位が非常に高くなったときに扉を閉める陸閘とよばれる施設が設けてあって,開いた口から美濃路が見えます。陸閘は長さ5.0m,幅3.0m,高さ2.5mほどで,その上を堤防上の道路が通っています。陸閘の反対側,すなわち美濃路側には,起第一陸閘 昭和二十九年三月竣工と書いてある青銅製の扁額が取り付けてあります。

 地図 A ↘ 2021-11

 陸閘の上から,木曽川の方を見たところです。手前の草が生えている平地は美濃路と同じほどの高さです。その向こうの一段と低くなっている川原には,かつてといわれていた,木曽川を渡るための船が出入する船着き場がありました。

 地図 B ↖ 2021-09

 陸閘の上から,現在の美濃路を見下ろしたところです。左に見える金刀比羅境内に,巨大な石灯籠が建っています。

 地図 B ↘ 2021-09

陸閘をくぐった先の左手に金刀比羅社があります。美濃路に面した境内に,石碑説明板などが置かれた一郭があります。

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 向かって左側の一郭には,起渡船場跡と彫られた石碑を中央に,左側に石板,右側に標柱があります。

 2021-11
 石板には次のような文字が彫られています。
  このあたりは むかし東海道美
 濃路廻りにあたり 徳川時代には
 木曽川の重要な渡船場で 上 中
 下の三ヵ所があつた
  上は定渡船場で 起字堤町から
 対岸の羽島市新井に達し 中は大
 明神社前なので宮河戸の名があり
 下は将軍家または朝鮮信使が通行
 のとき船橋をかけたので 船橋河
 戸と呼ばれたものの遺跡である

      注意
 一、指定地を破壊しないこと
 一、樹木の栽植ならびに伐採をしないこと
 一、その他みだりに現状を変更しないこと
               愛知県
  昭和四十二年八月二十八日 尾西市
               起渡船場跡保存会 

 標柱の正面,向かって右側,裏面には次のような文字が彫られています。
 愛知県指定史跡
 起渡船場跡
 
 昭和四十二年八月二十八日指定
 
             愛知県
 昭和四十二年十二月建之 尾西市
             起渡船場跡保存会 

 向かって右側の一郭には見上げるばかりに大きい常夜灯があって,美濃路に面したところに比較的新しい説明板が設置されています。常夜灯は,正面に大きく常夜燈台座の裏面には明治三十三年十一月再建と彫られています。本体の側面や裏面には寄贈者と思われる名前がたくさん彫ってありますが,省略します。

 2021-09

 説明板には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
愛知県指定文化財
 史跡起渡船場跡〜定渡船場跡〜
          一宮市起字堤町
   昭和四十二年八月二十八日指定
 美濃路のには、上流から上・中・下の三ヶ所の渡し場があり、宮河船橋河と呼ばれていた。常時多くの人々に使用されていたのは定渡船場である。
 江戸時代初期から、渡船場には定渡船二隻・置船一隻・御召渡船一隻の合計四隻が尾張藩御船手役所から預けられ、他に鵜飼船や馬船も置かれ、人々の往来を支えた。旅人だけでなく、西国の大名の参勤交代や京都の公家の往来にも使用された。渡船場の実質的な管理は起宿の船庄屋が行い、船頭二十人がいた。
 昭和三十一年(一九五六)に現在の美濃大橋が完成するまで、この渡船場は岐阜県と愛知県を結ぶ重要な交通手段であった。
         一宮市教育委員会


 説明板に添えてある,現役だった当時の渡船場です



 金刀比羅社の境内を通って奥にある階段を上ったところに人柱観音があります。石板人柱観音縁起は,木曽川築堤工事に携わっていた与三兵衛が,慶長16年1612年)夏の出水時に濁流に身を投じて人柱となって流れを静め,そのおかげで堤防が完成した。の言い伝えなどが彫られています。

 2021-09



 渡船場の跡から熱田の方に向かうと,すぐ先に点滅式信号機を備えた交差点があります。美濃路はそこで右に折れます。
 左に見える古民家は,このあとすぐ取り上げる湊屋です。湊屋の前の道はその先が見えませんが,標高12mの交差点から標高6mへと急降下しているためです。湊屋のすぐ後方に見える民家は三階建,さらに後方の民家は二階建です。

 地図 C ↘ 2021-09

 振り返って垂井の方を見たところです。道路は陸閘の手前で左に折れて堤防の上に向かいます。
 堤防から下ってきた自動車が突然現れることがあるので,とくに撮影時には気を付ける必要があります。

 地図 C ↖ 2021-11



交差点の北東角に建っている古民家は,国登録有形文化財建造物に登録されている右衛門です。主屋は,市民団体湊屋管理する湊屋という茶店になっています。入口の横に文化財のプレート説明板があります。9月に訪れたときは建物西側がブルーシートで被われて補修作業がおこなわれていましたが,美しい簓子下見の壁が再現されていました。

 2021-11

 2021-09

 文化財のプレートには次のように書いてあります。


登録有形文化財
第23−0327〜0328号
この建造物は貴重な国民的財産です。
文化庁

 説明板には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
 国登録有形文化財建造物
  旧湊屋店舗兼主屋・土蔵
 湊屋は代々文右衛門を襲名し、起渡船場を管理する船庄屋林家の下で、船方肝煎役を務め、船の手配等、渡船場の実務を担っていた。また、文右衛門は越前丸岡の商人から綛糸販売を委託され、丸岡の 綛糸をこの地域の織屋に売り、生産された縞木綿を買い取り、伊勢の商人等に販売する仲買商人であった。
 店舗兼主屋は二階建で、一階に出格子を付け、二階正面を低くし、軒を深く構えている。起宿に残された屋敷の間取図によれば間口十四間(約二十五メートル)奥行二十八間(約五〇メートル)と記されており、当時の起宿の町の中ではかなり広い規模の屋敷であったことがわかる。屋敷の建築年は明らかではないが、江戸時代末期の屋敷構成を踏襲して、明治時代前期に建てられたとされている。
 北側に建つ土蔵は西倉、中倉、東倉からなり、道筋から二階建の西倉、東倉がならび、両者の連結部に屋根を架け、平屋建の中倉としている。西倉は幕末期の土蔵を昭和二〇〜三〇年代に移築したものであり、その時に中倉を設けたとされる。東倉は使用された部材等から昭和前期の建造と推定されている。
 明治二十四年(一八九一)に岐阜県旧根尾村(現本巣市)附近を震源とする濃尾地震の発生により、この地域の建物の多くは倒壊したものの、店舗兼主屋は濃尾地震に耐えた数少ない建物である。宿場町の名残を今に伝える貴重な建築物であり、平成二十二年に国登録有形文化財建造物に登録された。
         一宮市教育委員会

 入口から入って左側の屋内です。

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 湊屋の前から交差点の方を見たところです。交差点の北西に公衆トイレと観光用の無料駐車場があります。

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 交差点から熱田の方へ向かう美濃路は,坂道にはなっていません。

 地図 D ↙ 2021-09

 垂井に向かう美濃路は,交差点で左に折れます。

 地図 E ↗ 2021-09



 外側が簓子下見で被われた大きい古民家があります。

 地図 F ↓ 2021-09

 の向かい側にも古民家があります。

 地図 F ↙ 2021-11



現在の美濃路は,アンダーパス県道18号線大垣一宮線下をくぐります。県道が少し高架になっているために車道が下る量は1.2mと少なめですが,幅が3.5mしかないので,たいていの自動車は交互通行になります。車道の両側に設けてある歩道は下っていませんが,幅はわずか85cmです。

 地図 G ↙ 2021-09



木曽川に近いところに,イブキの大木石灯籠標柱をフェンスで囲った一郭があります。
 イブキ伊吹柏槙は本州などに自生するヒノキ科の常緑樹で,園芸種のカイズカイブキがよく知られています。樹高10mにもなれば巨木といった感じになりますが,このイブキは私の簡単な測量で15mほどはあります。 標柱にある市」旧尾西市ですが,現在は一宮市指定文化財として引き継がれています。

 地図 A ← 2021-09


 標柱美濃路に面した正面と,向かって右側には次のような文字が彫られています。
 天然記念物 加納邸のいぶき
 
 市文化財指定 昭和四十一年一月一日 



 大明神社見取絵図には金山彦大神宮と添えてある,美濃路に面した神社です。

 地図 B ↓ 2021-09

 大明神社に入ってすぐの左側に説明板がが2つ並んでいます。

 2021-09

 向かって左側は美濃路に関係がある起渡船場「宮河戸跡」についてで,縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。なお右側は無形民俗起六斎ばやしついてですので,省略しました。
愛知県指定文化財
 史跡 起渡船場跡〜宮河戸跡〜
          一宮市起字堤町
   昭和四十二年八月二十八日指定
 起渡船場には上・中・下の三ヶ所の渡し場があった。大明神社の西にある木曽川を「宮河」、俗に「清河」と称した。もとは御手洗場でもあったが、船荷の揚げ下ろしがされていた。
 対岸の渡船場は、美濃国中島郡村(現岐阜県羽島市正木町新井)の燈明河戸と呼ばれていた。
 宮河戸は、大藩の木曽川渡船など、金刀比羅社のある(「の渡し」)だけでは渡船が困難な時に使用された。たとえば、文久元年(一八六一)の皇女和宮の下向は当初、美濃路の通行が計画されており、その時この宮河戸の使用も計画された。
         一宮市教育委員会

 説明板には,起の渡船場を描いた尾張名所図会起川いう絵が添えてあります。起川木曽川のことです。


 大明神社鳥居をくぐった先の境内に,樹高20mほどの天然記念物の大いちょうえています。樹齢は4百年ほどと推定され,愛知県の文化財に指定されています。

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 大いちょうの近くにある大明神社由緒板には,次のようなことなどが書いてあります。縦書きです。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
 この神社は旧中山道垂井宿から東海道熱田宿に至る「美濃路」の尾張の最初の宿場であった「起宿」にある。
 社伝によると創建は明らかではないが、室町時代初期の尾張國守護・斯波義重(しばよししげ)が社殿を造営され、四代尾張藩主・徳川吉通(とくがわよしみち)が社殿を寄進したとされる。

大明神社の前に宮河戸跡標柱が建っています。
 後方の木は起の大いちょうす。

 2021-09

 標柱の向かって左側,正面,右側には次のような文字が彫られています。

             愛知県
 昭和四十二年十二月建之 尾西市
             起渡船場跡保存会
 
 愛知県指定史跡
 宮河戸跡
 
 ここは起渡船場三カ所のうち宮河戸と呼ばれ
 かつては大明神社の御手洗に用いられ、水筋変 
 更または通行混雑のとき渡船に使用された



 美濃路から坂を下る途中にある本誓山門付近です。美濃路からは,山門本堂の屋根などが見えています。
 本誓寺見取絵図にもある古い寺です。

 地図 C ↖ 2021-11



 このにも,先ほどあったと同じように,簓子下見の壁が見られます。
 美濃路は,に続く古民家の前から下り坂になり,12mあった標高が,変形交差点をすぎた50mほど先では8mに下がります。

 地図 D ↓ 2021-09

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高札場があったあたり鉛筆マーク F変形交差点の反対側を見たところです。見取絵図によると,写真中央から左手あたりに問屋場がありました。
 写真奥に向かっている道路は街道よばれている旧起町のメインストリートです。ここから100mほど先にあった起駅から新一宮駅現在の名鉄一宮駅で,路面電車が走っていましたが,昭和28年1953年)6月に廃止されました。
 起街道歩道橋を左に下りたところに,トイレがあります。

 地図 F → 2021-09

見取絵図によると,変形交差点の角,写真中央あたりに高札場がありました。

 地図 E ← 2021-09



変形交差点から木曽川に向かった右手に船橋跡石碑説明板が置かれた一郭があります。
 見取絵図には,船橋河戸 此所御上洛朝鮮人来聘之節船橋掛場と添えてあります。
 一郭の左に立っている木は,大木ではありませんがイブキです。
 この一郭がある前のT字路を起点に,県道136号線一宮清須線変形交差点を経て美濃路と合流し,清須の方に向かいます。

 地図 G ↗ 2021-09

 2021-09

 石碑の正面と裏面には次のような文字が彫られています。
  愛知県指定史跡
 船𫞎跡
 
 
  ここは起渡船場三カ所のうち船 
 橋河戸と呼ばれ 徳川将軍家また
 は朝鮮信使が通行のとき 船橋を
 かけて川を渡つたところで 附近
 にその材料を納める船橋蔵三棟と
 船橋高札とがあつた
  昭和四十二年十一月建之
             愛知県
             尾西市
        起渡船場跡保存会

 説明板には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
愛知県指定文化財
 史跡 起渡船場跡〜船橋跡〜
          一宮市起字堤町
   昭和四十二年八月二十八日指定
 船橋とは、船を並べて繋ぎ止め、その上に板などを渡した橋である。
 美濃路では、木曽川・境川・長良川・揖斐川の渡船場に、朝鮮通信使、将軍といった特別な通行のためにのみ船橋が架けられた。
 木曽川の起の船橋に架けられた船橋は、全長八百五十メートル前後、船数は二百七十艘を越える日本最大の船橋で、当時は「起川船橋」と呼ばれた。
 宝暦十四年(一七六四)の朝鮮通信使の来朝を最後に、架けられることはなくなったものの、『尾張名所図会』は、起川船橋を「海道第一の壮観」と称し、また、朝鮮通信使の一行も、船橋の壮大さを記録している。
         一宮市教育委員会

 説明板には,一宮市尾西歴史民俗資料館で展示保管されている起川船橋略図絵添えてありますが,説明板の表面全体に細かいひび割れが生じ傷んでいるので,資料館で撮影した資料を掲載します。

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