坂を下る途中にある交差点から歩道橋をくぐるところまでの旧尾西市内 の美濃路 ①〜⑤ と,披 本陣跡⑥ を取り上げます。
この間は起宿 の本陣★ や問屋場★ などが置かれていたところで,ところどころに街道の面影★ が残っています。脇本陣★ の跡とその隣接地につくられた「 一宮市尾西歴史民俗資料館 」には ,美濃路に関する最大級の常設展示場 があります。
⑥ 美濃路 から少し離れたところにありますが,先に披 本陣跡 を取り上げます。
坂を下る途中にある交差点①から起街道 を東に向かい,2つ目の歩道橋 を越えて50mほど進んで路地のような道に入ります。「鵜飼吉左衛門父子発祥地 」の 石碑 をすぎると,もうすぐです。美濃路 からの道程 は750mほどあります。
披本陣 は,何らかの理由で本陣★ や脇本陣★ の使用が困難になったときの代替施設 のことで,固有名詞ではありません。ここでは吉田家 の屋敷 が使用されました。濃尾地震 のときに倒壊を免れ,その後改修されたこの門 だけが公開されています。
地図 A ← 2021-11
門 に向かって左側にはたくさんの説明板 があります。
2021-11
右上の
説明板 には縦書きで次のように書いてあります。
旧披 本陣阯
文政八年( 紀二四八五)吉 田
氏ノ創立スル所起宿休
泊ノ諸侯ガ異變ニ会フヤ
其退避所トシテ設置セラ
レタルモノ。明治三年廃止。
昭和十八年 起町
「 紀 」と いうのは,明治5年( 1872年)に 制定された,神武天皇 の即位を元年とする「 皇 紀 」と よばれた紀年法のことです。
右下の
説明板 には次のように書いてあります。
上段 縦書きです。
旧披 本陣阯
文政八年( 1825)吉 田
氏の創立する所。起宿休
泊の諸侯が異変に会うや、
その退避所として設置せら
れたるもの。明治三年廃止。
昭和十八年 起町
下段 横書きです。文の折り返しは,現物のとおりではありません。よみがなは私が勝手につけたものです。
「ひらき(く)」は、武士の忌み言葉で、退陣する、逃げるのこと。(いわゆる、おひらきにしますの「ひらく」) 他所では、御開所本陣と書くこともある。
本陣・ 脇 本陣に凶事 があったり、休泊中に異変(火災など)があったときなどに、緊急避難するための施設と考えてよい。俄 かの要求で寺院などが臨時に当てられたケース(近くでは大垣宿の全昌寺 など)があるが、いずれも街道に面した場所が選ばれる場合が多く、ここのように個人の家で、また美濃路からかなり離れた場所にあったのは、全国的に見ても珍しい。木曽川堤沿いに本陣・ 脇 本陣があることを考えるとよい。
当家の歳代記によると、例えば
文政8年( 1825) 紀州候 (大 納 言 )
天保6年( 1835) 紀州候
天保7年( 1836) 紀州家福姫君
弘化2年( 1845) 紀州候(本陣出火類焼のため)
が宿泊したと、記録に残っている。
中上の
説明板 には縦書きで次のように書いてあります。
藤本鉄石隠棲ノ阯
嘉永元年( 紀二五〇八)ヨ リ文久
三年( 二五二三)ノ 間、後ノ天誅組
総裁藤本鉄石 當處吉田
世良宅ニ隠棲シ文墨ヲ樂シ
ム。松本奎堂、小野湖山、
梁川星巖、浮田一蕙斎、森春濤
藤井竹外等志士文人雲集
シテ鉄石ヲ訪ヒ天下ヲ語レリ。
昭和十八年 起町
中下の
説明板 には次のように書いてあります。
上段 縦書きです。よみがなは私が勝手につけたものです。
藤本鉄石 隠棲 の阯
嘉永元年( 1848)よ り文久
三年( 1863)の 間、後の天誅組
総裁 藤本 鉄石 当所 吉田 世良
宅に隠棲し文墨を楽しむ。
松本 奎堂、小野 湖山、
梁川 星巌、浮田 一蕙斎、森 春濤、
藤井 竹外等 志士 文人雲集 して
鉄石を訪 い天下を語れり。
昭和十八年 起町
下段 横書きです。文の折り返しは,現物のとおりではありません。よみがなは私が勝手につけたものです。
天誅組(てんちゅうぐみ)は、幕末に公 卿 中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷 派の武装集団。文久3年 大和国で挙兵するが、幕府軍の追討を受けて壊滅した。
藤本 鉄石 ふじもと てっせき 1816( 文化13)年 〜1863( 文久3)年
幕末の武士・書画家。岡山藩を脱藩し、諸国を遊歴して書画や軍学を学ぶ。京都で絵師として名をなし、尊攘 派浪人と交わり志士 活動を行った。1863年天誅組を結成し、吉村虎太郎( 土佐脱藩)、 松本奎堂とともに天誅組三総裁の一人となる。変のとき戦死。
松本 奎堂 まつもと けいどう 1832( 天保2)年 〜1863( 文久3)年
三河国刈谷藩士の子に生まれ、昌平坂 学問所で学ぶが、強い尊王 の志を持ち脱藩。安政の大獄 の歳 、要注意人物に挙げられていたが、生き延び、次第に勤皇 志士の中で重きをなすようになっていった。三総裁の一人。敗戦し戦死した。
小野 湖山 おの こざん 1814( 文化11)年 〜1910( 明治43)年
幕末から明治時代の漢詩人。明治の三詩人の1人。近江国の生まれ。梁川星巌に入門を許され、江戸に向かう。のち、三河吉田藩儒者となり藩政に関与した。
梁川 星巌 やながわ せいがん 1789( 寛政元)年 〜1858( 安政5)年
江戸時代後期の漢詩人。美濃国安八郡曽根村( 現在大垣市曽根町、記念館がある)の 郷 士 の子に生まれる。1808( 文化5)年 江戸に出、のち玉 池 吟社 を結成した。安政の大獄( 1858( 安政5)年 )の 捕 縛 対象者となったが、その直前( 3日前といわれる)に コレラに罹 り急死した。
宇喜多 一蕙(浮田 一蕙斎) うきた いっけい 1795( 寛政7)年 〜1859( 安政6)年
幕末に活躍した大和絵の絵師。戦国大名・宇喜多秀家の七世の孫という。京都出身。復古大和絵派の巨匠として評価を得た。和歌・書道にも通じ、尊皇攘夷の思想に傾斜した。安政の大獄により捕えられる。
森 春濤 もり しゅんとう 1819( 文政2)年 〜1889( 明治22)年
江戸幕末期より明治初期にかけての漢詩人。尾張一宮の医者の子として生まれる。京都に行き、梁川星巌の門下となる。晩年は東京で茉 莉 吟社 を結成した。
藤井 竹外 ふじい ちくがい 1807( 文化4)年 〜1866( 慶應2)年
幕末の漢詩人。摂 津 高槻 藩の武士の家に生まれる。七言絶 句 を得意とすることから「絶句竹外」と称される。「芳 野 懐 古 」は、芳野三絶の一つ。晩年は京都に隠居した。
吉田 世良 よしだ せろう 1806( 文化3)年 〜1883( 明治16)年
当家第9代。諱 は高遠。庄屋、披 本陣を勤める。苗 字 帯刀 、お目見え、宗門自分一札 など。久しく鵜多須 代官所に勤務した。
詩 歌 に長じ文人墨客 との交友多く、後年 北西の地に隠居所(衆星館と称した)を構え、風雅の生活を営んだ。(月窓 と号した)
当家初代(貞親 )は、永禄年間三州 吉良 吉田村より尾 州 高 御 堂 村に来て、兄 高信(比叡山攻めで討死 )の家に食客 し、のち小 信 中島村に移った。織田信長公に仕えた。
左の
説明板 には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
一宮市指定文化財
史跡 起宿披本陣跡
一宮市小信中島字郷中三一七〇−一
昭和四十九年一月十五日指定
参勤交代で美濃路起宿を通行する大名の宿泊場所は本陣である。しかし、起宿の本陣に異変が発生した時に、その退避所として吉田家に設けられたのが、この披 本陣である。吉田家は、旧中島郡小信中島村の庄屋・年寄・留木裁許人を務めていた。
御三家の一つである紀州藩が起宿に止宿する際は、吉田家が披本陣に指定されることが恒例であった。その始まりは文化八年(一八一一)と思われる。なかでも弘化二年(一八四五)には、紀州藩主徳川斉順 の下向の残務処理を行っていた紀州藩主が、起宿に止宿していた時、起宿の大火に遭い、本陣も類焼した。その間、吉田家が御用宿としての役割を担った。このため、紀州藩より「出精相働候由二て金千疋」を賜っている。
その他、天保七年(一八三六)尾張藩主徳川斉温 の正室福君 の下向、慶應元年(一八六五)十四代将軍徳川家茂 の長州への御進発 といった大通行において、吉田家が披本陣に指定されている。
なお、明治二十四年(一八九一)濃尾大震災において、この地域は壊滅的被害を被ったが、吉田家の門は壊れることなく残った。
一宮市教育委員会
門 に向かって右側には2本の標柱★ と説明板 があります。
2021-11
「 披本陣跡 」
の 標柱 の向かって左側,正面,右側には次のような文字が彫られています。
「 披本陣のいぶき 」
の 標柱 の向かって左側,正面,右側には次のような文字が彫られています。
◎「 披本陣のいぶき 」は 庭の中にあるため,近づいて見ることはできません。
披本陣跡 の北に隣接する頓聴寺 は,見取絵図★ にもある古い寺です。
地図 B ↖ 2011-11
美濃路 に戻って100mほど進んだところです。道の両側に古民家★ があります。
地図 A ↘ 2021-09
② 美濃路 に面した空地に「 起宿本陣及び問屋場跡 」/ 「 国学者 加藤磯足邸跡 」の 標柱★ と説明板 がひとまとめに立っています。
地図 B → 2021-09
2021-09
「 起宿本陣及び問屋場跡 」
の 標柱 の向かって左側,正面,右側には次のような文字が彫られています。
説明板 には縦書きで次のように書いてあります。傷みが激しく,ところどころに読めない字があったので,
緑字 は推測です。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
一宮市指定文化財
史跡 起宿本陣及び問屋場跡
一宮市起字下町一九九−一二
昭和四十九年一月十五日指定
本陣とは、大名 、公 家といった高貴な人々の休泊施設である。
五街道やその付 属街道の 宿場に置かれ、美濃路の起宿には一軒置 かれていた。起宿 の本 陣職は加藤家が代々「右 衛 門 七 」を名乗り 、幕末まで 世襲した。天明五年(一七八五)の書上げによれば、「間口二十四間半・奥行五十四間・家造建坪二百六坪、外に 高塀五十八間・門三箇所」とある。本陣は起宿の運営の中心 機能として の役割を持っていた。
江戸時代を通じて、宿泊した藩としては紀州徳川家、広島藩浅野家、徳島 藩蜂須賀家、熊本藩細川家といった大藩も多い。江戸時代中期からは朝鮮通信使の昼食の場ともなった。問屋場は人馬や荷物の継立てなどを行う場所で、これも加藤家が兼務していた。その後、永田家も問屋場として増設されている。
また、江戸時代中期の十一代当主の加藤磯足 は本陣職を務める傍らで、木曽川堤の自普請や村政にも力を尽くし、国学者本居宣長の高弟として学問にも熱心で、尾張を代表する文化人でもあった。
一宮市教育委員会
③ 美濃路 に面したところに「 一宮市尾西歴史民俗資料館 」が あります。
右側の古民家★ は別館 となっている旧林家 住宅 ,左側の建物は本館 です。会館時間は09:00〜17:00,日曜日・ 祝 日・ 休 日の翌日の平日は休館日,入場は無料です。
地図 C ↖ 2021-09
旧林家住宅 は,かつて起宿 の脇本陣★ があったところに建っています。脇本陣 として使用されていた建物は明治24年( 1891年)の 濃尾地震 で倒壊しましたが,大正2年( 1913年), 所有者であった林家 は跡地に店舗を備えた住宅を建て,ここで生活をはじめました。時を経て昭和57年( 1982年), 旧尾西市 が買い取って,翌年「 起宿記念館 」と して公開しましたが,隣接地に「 尾西市歴史民俗資料館 」が 開館した昭和61年( 1986年)か らはその別館 という扱いになり,さらに一宮市 との合併により,平成17年( 2005年)7 月からは「 一宮市尾西歴史民俗資料館別館 」と よばれるようになりました。
土壁 を模した塀に説明板 が取り付けてあります。
2021-11
説明板 には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
一宮市指定文化財
史跡 起宿脇本陣跡
一宮市起字下町二百十一
一宮市
昭和四十九年一月十五日指定
脇本陣は、街道の宿駅に設けられた本陣の補助的な宿舎で、副本陣にあたる。江戸時代、東海道宮( 熱田)宿 と中山道垂井宿を結ぶ美濃路七宿のひとつである起宿には、本陣と脇本陣が各一軒、問屋場が二軒あった。
寛永十八年( 一六四一)起 宿を利用する人馬が込み合ってきたので、脇本陣がこの地に新たに設置された。
起宿脇本陣は、初め佐太郎一族( 姓不明)が 四代目まで継承したが、経営困難のため、享保五年( 一七二〇)林 浅右衛門が譲り受けて以来、明治三年( 一八七〇)の 脇本陣の廃止まで林氏が歴代継承した。
天保十四年( 一八四三)の 『 美濃路宿村大概帳』に は、建坪が約百三十六坪( 約四百五十平方メートル)と 記録されている。また,幕末から明治に作成された間取図によると、主屋は往還に面して建てられ、中央に廊下を設けて、家族と宿泊者を分離できるようになっており、二階には天井が張られていない畳敷きの三室があった。また、主屋の北側には往還に面して門が備えられ、式台、玄関、広間、二の間、上段の間などがあった。この脇本陣の建物は明治二十四年( 一八九一)の 濃尾地震で倒壊し、現在は大正時代に建てられた旧林家住宅が、一宮市歴史民俗資料館別館として利用されている。
一宮市教育委員会
旧林家住宅 は,美濃路 に面したところにも玄関 がありますが,見学者 は「 本館 との間の通路」に 面したこちらの玄関 から入ります。この建物の外壁も簓子下見★ です。
玄関の向かって左側に,説明板 と文化財のプレート が上下2枚あります。
2021-09
2021-11
説明板 には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
美濃路起宿脇本陣跡旧林家住宅
明治二十四年( 一八九一)の 濃尾地震で、この場所にあった美濃路脇本陣林家の建物は倒壊しました。その後、大正二年に建て直されたのがこの住宅で、江戸時代の伝統的な町家建築の様式をよく伝えています。江戸寄りの方に玄関入り口の潜り戸のついた大戸、正面一階の窓に取り付けられた連子格子、土間境に建つ大黒柱、根太天井、立ちの低い二階など、幕末の起宿に見られた町家の造りと洗練された意匠を偲ぶことができます。
また、外回りをすべてガラス戸で囲むなど、新しい建材も匠みに取り入れた当時の時代性が伝わってきます。
棟梁 桜木絹三郎
施主 林 英太郎
一宮市尾西歴史民俗資料館
上の文化財のプレート には次のように書いてあります。
登録有形文化財
第23−0058号
この建造物は貴重な国民的財産です。
文化庁
下の文化財のプレート には次のように書いてあります。
登録記念物
旧林氏庭園
令和元年10月16日登録
この記念物は貴重な文化財です。
文化庁
建物に入ると玄関 に続く「 次 の間 」に ,「 起宿記念館 」を 紹介する衝立 が置いてあります。
2021-09
衝立 には縦書きで次のように書いてあります。
美濃路は、東海道と中山道 とを
結ぶ脇往還 である。
慶長五年( 一六〇〇)関 ヶ原の合戦
に福島正則 が清洲からこの道を通り
岐阜城を攻め、徳川家康は関ヶ原の
合戦の帰路この道を通ったことから
「御 𠮷例 、御悦 び街道」とも呼ばれた。
起宿 は、美濃路七宿 の一つで幕府道中
奉行の支配下にあり木曽川を渡す渡船
場を持つ重要な宿場であった。
この起宿記念館は脇本陣跡である。
衝立 は,「 この起宿記念館は」と 書いてあることや,印刷ではなく筆で書いてあることから,昭和58年( 1983年)5 月に旧林家住宅 が公開されたときから置いてあると思われます。
昭和初期 に作られた旧林家の日本庭園 を,裏座敷 から見たところです。
2021-09
旧林家住宅 を出て「 本館 との間の通路」を 少し進んだところに「 活動室 」の 入口があります。活動室 は風呂場や井戸などがあったところを改装した施設で,無料の休憩室 として開放されています。
入口の前に本館 への案内板 が立っています。
2021-11
「 本館 との間の通路」を さらに進むと,右手に日本庭園 の入口があります。
2021-09
本館 の入口付近です。
2021-11
本館 に入ると,ほぼ正面に常設展示室 「 美濃路と起宿 」の 入口が見えます。突き当たりにはトイレ があります。
窓口 で「 歴史街道 美濃路を歩く 〜街道全図、宿場地図〜 」(折 りたたんで長形3号の封筒に入れてあり,広げると84×60cmほどになります。税込200円)な どが販売されています。
2021-11
常設展示室 「 美濃路と起宿 」は ,美濃路 の歴史や文化などを詳しく紹介しています。
2021-09
④ 外壁に建物の形がくっきりと残っている古民家★ があります。
この先の交差点で旧起 村 が終わって,旧冨 田 村 に入ります。
地図 A ↘ 2021-11
⑤ 信号機のない交差点に歩道橋 が架けてあります。この先で道幅が広くなって道が2つに分かれますが,美濃路 はほぼまっすぐ進んで左にゆるくカーブしている方です。
見取絵図★ では,このあたりで起宿 から続いていた家並 が終わって,この先は松並木 になります。
地図 B ↓ 2021-09
歩道橋 の下から西に向かう道の先に地 蔵 寺 があります。地蔵寺 は見取絵図 に地蔵堂 と添えてある古い寺です。
地図 C ← 2021-11
西に向かう道は地蔵寺 で行き止まりになっています。ところが見取絵図 を見ると,鉛筆マーク E で示した,現在は電柱が立っているあたりに道標★ があります。すぐ先で行き止まりになっている道に対して道標 があるのは道理に合わないので,明治地図★ も合わせて調べたところ,この道は地蔵寺 の前を通って木曽川 の堤防上の道に出て,津島 の方へ続いていたことがわかりました。
ここにあった道標 は,どこかで保管されている可能性があります。
地図
歩道橋 の下から垂井 の方を見たところです。
地図 D ↑ 2021-09