新東海道線ノート 第一集
1959年4月20日〜1961年5月4日
鉄道の部屋/こひつじの家
1959年4月20日(月)
◆新幹線の起工式が新丹那トンネルの熱海側入口でおこなわれた。
1959年10月
(1)
(2)
(3)
(1)〜(3) 大同毛織小田原工場の敷地内に工事用の杭が打ってあるのを見つけた。
大同毛織は1989年に社名がダイドーリミテッドとなり,小田原工場があったところは2007年3月現在,ダイナシティーなどがあるショッピングタウンとなっている.
1959年10月8日(木)
◆新丹那トンネルの着工式がおこなわれた。
1959年11月14日(土)
◆駅名と停車駅がほぼ決定した。
特急:東京・名古屋・大阪
急行:東京・横浜・小田原・熱海・静岡・浜松・豊橋・名古屋・米原・京都・大阪
特急と急行はその後「ひかり」と「こだま」とよばれるようになった.このときは京都が特急停車駅になっていなかった.
1959年11月16日(月)
◆名古屋と米原の間,岐阜県羽島市にも駅ができることになった。
1959年12月6日(日)
大同毛織小田原工場付近で,ボーリング地質調査をしていた。
1960年1月22日(金)
◆酒匂川の鉄橋工事が始まった。
1960年6月4日(土)
大同毛織の敷地内に工事用スペースを有刺鉄線で囲む作業が始まった。
1960年6月12日(日)
(4)
(5)
(4) 大同毛織の敷地内で作業場の建設がおこなわれていた。
(5) 有刺鉄線による工事用の囲いと,後方に見える大同毛織のクラブハウス。
1960年6月16日(木)
(6)
(6) 建設用の鉄骨が置いてあった。後方に作業用の建物が見える。
地図は6月12日
1960年6月25日(土)
大同毛織の敷地内にブルトーザーが来て,トラックが通るための道を作っていた。
1960年6月29日(水)
下府中小学校の横に作っていた飯場がだいぶできてきた。
1960年6月30日(木)
酒匂川の河川敷にトロッコ用の線路がたくさん運びこまれていた。
1960年7月12日(火)
大同毛織の敷地内に普通の1.5〜2倍位の高い電柱がたくさん設置された。
1960年7月14日(木)
小田原駅の大阪方にある青橋付近から小田原高校へ向かう坂道の途中と,大同毛織の敷地内でボーリング調査がおこなわれていた。
青橋付近の地図は上が南東方向になっている.
1960年7月31日(日)
(7) 大同毛織の敷地内に掘った穴から土砂を出していた。
(8) 堀った穴にヒューム管を入れていた。
(9) 鉄道建設用地の曽我山方面を見た。
1960年8月13日(土)
2台のコンクリートミキサーが,鉄骨で作った台の上に載せられていた。 参照(10),(13)
1960年8月16日(火)
(10) 鉄骨で作った台の上に載せられた2台のコンクリートミキサー。
(11) 三階建の女子寄宿舎屋上から工事がおこなわれている南東の方を見た。
(12) 同じく南を見た。右手に見える建物は大同毛織の男子寄宿舎や社宅など。
地図は7月31日
1960年8月23日(火)
1960年9月9日(金)
(15)
(15) | 建設中のコンクリート製造施設。砂利をタンクに入れるためのベルトコンベアが設置された。 地図は8月23日 |
1960年9月10日(土)
(16)
(17)
(18)
(19)
(16),(17) コンクリート製造施設を東側から見た。
(18) クレーン車と車庫。遠方の建物は女子寄宿舎。
(19) ベルトコンベアの下部。
この場所は大同毛織のグランドだったので,鉄棒などが残っていた.
1960年9月26日(月)
1960年10月9日(日)
(22)
(23)
(24)
(25)
(22) コンクリート製造施設の全景。
(23) ミキサー棟のコンクリート取り出し口。
(24) コンクリートを作るための地下水を汲み上げるポンプ場の内部。
(25) ミキサー棟。
ミキサー棟というのは私が勝手に付けた名前.
地図は9月26日
1960年10月27日(木)
中国四国地方へ修学旅行に行くとき,午前2時ごろ名古屋駅で停車したのでホームに降りて見たところ,現在線の西側で工事をしていた。
「現在線」は新幹線開業後は「在来線」とよばれるようになった.
1960年11月1日
(26)
(27)
修学旅行の帰りに車窓から新丹那トンネルの工事現場が見えた。
(26)は函南側で工事担当は鹿島建設,(27)は熱海側で工事担当は間組。看板に「弾丸鉄道」と書いてあるのがおもしろい。
1960年11月20日(日)
(28) ミキサー棟からミキサー車へ生コンクリートを移していた。
(29) 土盤試験をするための穴を掘っていた。
(30) 掘った穴にレールをたくさん入れて,土盤の沈下状態を調べていた。
1960年12月10日(土)
(31) | コンクリート製造施設内の砂利をベルトコンベアに載せる部分。 |
(32) | 農道と立体交差をするために設けられる架道橋を建設していた。架道橋の前に立っているのは私の弟。 |
(33) | 生コンクリートを高所へ運ぶための機械が置いてあった。立っているのは私。 |
(34)
(35)
(34) | 小さな川をまたぐ橋の,橋台部分の基礎工事。 |
(35) | 農道との立体交差部分にほぼ完成した橋台。正面遠くに建設中のトンネルが見える。 |
(36)
(37)
(36) | 曽我山を貫く弁天山トンネルの工事現場。砂利を運び上げるためのベルトコンベアがあった。 |
(37) | トンネル工事現場の遠景。 |
1961年1月21日(土)
(38)
(39)
(38) 巡礼街道の近くでおこなわれていた,菊川に架ける橋の橋台部分の基礎工事。
(39) 農道との立体交差工事。
「小学校」は当時の下府中小学校.小学校の南を東西に通る道路は巡礼街道とよばれている.
1961年1月22日(日)
(40)
(41)
(40) 高架橋の基礎工事。
(41) 土砂をすくい出すための動力シャベル。
1961年2月4日(土)
(42)
(43)
(42) | 新酒匂川鉄橋の最も小田原寄りにある橋脚の工事。遠方に見える建物はハリスガム小田原工場。 |
(43) | 小田原側から見た新酒匂川鉄橋の工事。右側は東海道本線の酒匂川鉄橋。
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(44)
(45)
(44) | 小田原側から5番目の橋脚の基礎部分と,その向こうの6番目の橋脚の工事。 |
(45) | 最も鴨宮側の完成した橋脚。橋脚の前に立っているのは小田原高校から鴨宮までいっしょに歩いて下校してくれた友人の鈴木孝治くん。ノートに貼り付けた写真の焼付も彼がやってくれた。 |
酒匂川に架かる新幹線の鉄橋の正式名がわからないので,ここでは「新酒匂川鉄橋」とよぶ.
1961年2月10日(金)
(48)
(48) | ディーゼルハンマーでコンクリートパイルを打ち込んでいた。左の方に見える鉄製のやぐらもパイルを打ち込む機械。 地図は2月4日 |
ディーゼルハンマーでコンクリートパイルを打ち込んでいる模式図
1961年2月12日(日)
(49)
(50)
(49) 高架橋用橋脚の鉄筋。後方の建物は大同毛織の医務室。
(50) 高架橋用橋脚の基礎部分。
1961年2月19日(日)
(51) | 大同毛織の敷地内にいたブルトーザー。後方の建物は女子寄宿舎。 地図は2月12日 |
(52) | 橋脚の鉄筋。(49)や(53)などに比べると規模が大きい。 |
(53) | 高架橋の基礎部分とコンクリート枠。 |
1961年3月1日(水)
(54)
(55)
(54) 大同毛織の敷地内には橋脚用の鉄筋が林立していた。
(55) 稼働中のコンクリート製造施設。
地図は2月19日
1961年3月5日(日)
(56)
(56) 自宅二階の窓から撮影した工事現場の夜景。
1961年3月9日(木)
(57)
(58)
(57) 農道との立体交差のために作られた架道橋が完成していた。
参照(32)
(58) 御殿場線の土手からトンネルの方を見た。
(59) | 架道橋の道路部分。 |
(60) | トンネルから出た土砂(ずり)はトロッコで運ばれてこの場所に捨てられ,パワーシャベルでトラックに積まれた。 |
(61) | トンネル工事用のコンクリートを製造する施設の中にあった,砂利を運搬するためのベルトコンベア。 |
このトンネルの名前は「弁天山トンネル」で,延長1,316m。トンネルの東口は橘町。工事担当は前田建設。
(62)
(63)
(62) トンネルの入口付近。トンネル内には複線のトロッコ線路が敷いてあった。
(63) トロッコを牽引する蓄電池動力車。
1961年3月30日(木)
(66)
(67)
(66) 大同毛織敷地内に建ち並ぶ橋脚群。
(67) 高架橋に足場が組まれ,橋桁部分のコンクリート打ちがおこなわれていた。
(68)
(69)
(68) 下府中小学校の北側に,たくさんのコンクリートパイルが積んであった。
(69) コンクリートパイルを打ち込む機械。
地図は4月3日
1961年4月3日(月)
1961年4月16日(日)
1961年5月4日(木)
(73)
(73) | 大同毛織敷地内の高架橋工事。橋桁部分のコンクリートが固まって,足場を取り外していた。 参照(72),地図は4月16日 |