新東海道線ノート 第四集
1962年5月24日〜1964年2月10日

鉄道の部屋/こひつじの家





1962年5月24日(木)
鴨宮基地に汽車製造が製作した1001号車両が来ていた。
 
仮のレール継目(228)
(228)まだ溶接していないレールの継目は,このような方法で一時的に固定してあった。

大同敷地内の地図


1962年6月1日(金)
完成したA編成(229)
(229)鴨宮基地に,新幹線の車両(2両編成のA編成)がビニールの覆いをかけて置いてあった。右は東海道線を走る153系の下り急行「せっつ」号。 地図は6月19日


1962年6月5日(火)
橋桁の架設工事(230)  変圧器(231)
(230)酒匂堰をまたぐ鉄橋の上り線用の橋桁を架設する工事がおこなわれていた。下り線用はすでに完成している。 地図は5月24日
(231)写真(176)の台に,このような変圧器が置かれていた。 地図は6月12日
 
渡り線(232)  弁天山トンネル入口(233)
(232)弁天山トンネルに近いところに仮の渡り線が設置されていた。左は小型ディーゼル機関車。
(233)弁天山の入口付近。すでに架線も張ってった。
地図は6月12日


1962年6月12日(火)
鴨宮付近から大磯町まで約10km,10本のトンネルを通って新幹線のルート上を歩いた。帰りは作業用のモーターカーに乗せてもらった。

仮の変電所付近(234)  仮の変電所(235)
(234)モデル線区でおこなわれる試運転用の電源を供給するために,仮の変電所がこのすぐ右側に設置された。写真右側にある3本の電柱は変電所からの電気を受けるたに建てたもので,電柱には2人が登って作業をしていた。
(235)大磯町内に設置されたモデル線区用の変電所。ここから25,000V, 60Hzの電気を供給する。新幹線が全線開通したときは,この変電所は撤去されるとのこと。


トンネルと跨線橋(236)  モーターカーに乗って(237)
(236)トンネルの手前に跨線橋があった。新幹線よりも道路の方が高かったために,道路をさらに高くして跨線橋としたのだろう。
道路は第1生沢トンネルの大阪方にある.
(237)3つの短いトンネルが続くところを,乗せてもらったモーターカーから見た。この付近にある電柱は少し変わった形をしていた。シルエットになっているものは載せてあったスコップの柄など。
第2根柄見トンネル内を走行中.行く手に見えているのは第3根柄見トンネル.

弁天山トンネルから東方の地図
トンネルは左から,弁天山(1,316m),天神山(108m),開戸(115m),借宿(507m),第3根柄見(48m),第2根柄見(58m),第1根柄見(55m),小原(340m),第2生沢(95m),第1生沢(139m)


1962年6月16日(土)
 今日は新幹線車両の試運転がおこなわれると聞いていたので,6時すぎに鴨宮基地へ行ったみた.しかし様子がおかしいので関係者に尋ねたところ,送電テストをした瞬間に50サイクルを60サイクルに変換する機械が壊れてしまったとのことだった.
 当時は周波数をHzではなくサイクルで表していた.


1962年6月19日(火)
変圧器(238)  車両の床下(239)
(238)路肩の部分にトランスが設置され,架線の方へ配線されていた。ここは架線のセクション部分にあたる。左の方に見えているのは酒匂堰の鉄橋。 地図は6月5日
(239)鴨宮基地にあった新幹線の車両(B編成)の床下。

運転台(240)  客席(241)
(240)新幹線車両(A編成の1002号車)の運転台。
フィルムからスキャンした原画を見ると,速度計の目盛は260km/hまであることがわかる.
(241)新幹線車両の客室。窓の外にB編成の車両が見えている。

鴨宮基地の地図


1962年6月26日(火)
パンタグラフ(242)  架線の整備(243)
(242)新幹線車両(B編成)のパンタグラフ。従来のパンタグラフに比べるとかなり小さい。予備のパンタグラフも備えている。 地図は6月19日
(243)上り線で架線の整備作業がおこなわれていた。このとき合成架線素子を取り付けたりしていた。 地図は6月5日
合成架線素子は下り線に取り付けてあるのが見えている。バネとオイルダンパを用いた合成架線素子は,開業後に問題となって用いられなくなった。

試運転する車両(244)  公開試運転(245)
(244)公開試運転を前にしての試運転が新幹線B編成車両を使っておこなわれていた。写真の車両は下り線を下り方向にのろのろと走っていた。 地図は6月5日
B編成の塗装は量産車のものとほぼ同じであったが,前面のスカート部分は異なっていた。
(245)B編成の車両を用いて公開試運転がおこなわれた。写真は鴨宮基地を発車してまもなくのところで,運転台から体を乗り出して手を振っているのは十河国鉄総裁。新幹線の線路近くには国鉄関係者や報道陣に混じって,一般の人々も大勢集まって来ていた。 地図は6月19日
公開試運転は鴨宮基地と大磯町の仮設変電所がある付近までの間でおこなわれた。奇しくも2週間前に私が歩いた区間とほぼ同じであった。


1962年7月5日(木)
事故(246)
(246)鴨宮基地内でモーターカーが突然動きだして斜面を下って走り,新幹線のB編成車両に衝突するという事故が発生した。写真は事故で壊れた光前灯とスカート。
地図は6月19日
光前灯には20Wの蛍光管が15本使用してあることや,落ちていた破片から,光前灯の乳白色アクリル製カバーの厚さが9mmほどであること,スカート部分の塗装の厚さが1mm以上もあることがわかった。


1962年7月9日(月)
鉄道博より(247)
(247)東京晴海で開かれた鉄道開通90周年記念「鉄道科学大博覧会」の会場にあった新幹線モデル線区についてのパネル。


1962年7月19日(木)
軌道試験車(248)  軌道試験車の台車(249)
(248)鴨宮基地に「新幹線軌道試験車」が来ていた。黄色に青色の帯という塗装で,2軸台車が3つあった。
(249)新幹線軌道試験車の台車TR8001。台車は空気バネを使用してあり,それぞれ走行用の車輪の間に小さい検測用の車輪があった。
地図は6月19日

酒匂川鉄橋(250)  モデル線区の終端(251)
(250)鴨宮側から新酒匂川鉄橋の方を見たところで,下り線は広軌と狭軌の3本レールとなっていて,架線を支えているのは木製の仮電柱だった。
(251)新酒匂川鉄橋を小田原側まで渡ってレールが敷いてある先端まで行ったところ。そこから先はまだ路盤もできていなかった。

酒匂川付近の地図


1962年8月5日(日)
試作車両の中にて(252)  試作車両の運転台にて(253)
(252)鴨宮基地の試作車両の客席に座る私。
(253)試作車両の運転席に座る私。
 
父の転勤にともなって,8月12日に愛知県の稲沢市へ引っ越した.

1962年8月21日(火)
工事用の杭(254)
(254)引っ越した先も,新幹線が通る予定のところから700mほどと近かった。安楽寺の近くへ行ってみたところ,工事はまだおこなわれていなかったが,工事用の杭が打ってあった。 地図は1964年2月10日


1962年9月28日(金)
名古屋駅の大阪方(255)  名古屋駅(256)
(255)名古屋駅から少し大阪方の方では高架橋の工事がおこなわれていた。右の方に稲沢線という貨物線が通っていて,新幹線の高架橋と稲沢線との間には盛土がされていた。
盛土のところには新幹線の留置線が設けられている。
(256)名古屋駅のコンコースより少し北側の高架橋はすでに完成していて,高架下には「名古屋幹線工事局」の事務所があった。


1962年11月23日(金)
稲沢市内で工事始まる(257)  稲沢市内の工事詰所(258)
(257)稲沢市内北西部浅井町付近で,田んぼの中を通る路盤の工事が始まっていた。
8月21日の地図から大阪方へ500mほど外れたあたり
(258)写真(257)の付近にあった資材置場など工事関係の施設。


1962年11月30日(金)
中村区井深町付近の工事(259)  高架の基礎工事(260)
(259)名古屋駅から1kmほど大阪方では盛土用の擁壁が作られていた。右側の盛土の上を稲沢線と東海道線が通っている。
(260)写真(259)のすぐ近くにあった高架橋の基礎部分。1つの橋脚につきコンクリートパイルを10本打ち込んで,その上に鉄筋が組立られていた。


1962年12月12日(水)
工事詰所(261)
(261)稲沢市の北西部,天池町にある工場の入口近くに工事用の詰所と資材置場ができていた。
8月21日の地図から大阪方へ1kmほど外れたあたり


1962年12月22日(土)
高い高架橋(262)
(262)名古屋市南区南陽町付近で,一般の高架の上を通るための非常に高い高架橋が作られていた。


1963年2月8日(金)
名古屋駅の近く(263)  名古屋駅の近く(264)
(263)名古屋駅の大阪寄りの方の工事現場。高架橋の幅はかなり広い。この付近には古い民家などが建ち並んでいて,大都会の中心駅の近くとは思えない感じがする。
(263)写真(263)の右手にあたる。右側は従来の名古屋駅の高架で,架線用の電柱が見えている。


1963年2月9日(土)
名古屋駅の近く(265)
(265)名古屋駅の東京寄りの方の高架橋工事。従来からある高架の上に関西本線と思われる客車の姿があった。
関西本線は,この当時まだ電化されていなかった。


1963年8月28日(水)
米原付近(266)
(266)米原駅の東京方で国道8号線をまたぐところ。高架橋は完成していて線路も敷いてあったが,架線はまだ張られていなかった。
当時の国道8号線は米原駅付近から北陸線に沿うように北上していたので,写真の地点は米原駅から1kmほどのところにあった。国道8号線はその後「米原バイパス」となって東の方へ移動したため,新幹線がオーバークロスするところは米原駅から東京方へ2.5kmほどのところになった。


1964年2月10日(月)
稲沢市内の高架橋(267) 第3三宅川橋梁(268) 船橋高架橋の橋梁標(269)
(267)稲沢市内の国府宮から矢合の方へ向かう道路から高架橋の東京方を見たところ。高架橋は完成していて電柱を設置する工事がおこなわれていた。
(268)船橋地区にある第3三宅川コンクリート橋。電柱は橋脚に取り付けてあるので,かなり長い。
新幹線に沿って作られた工事用の道路は,稲沢市内のほとんどの区間で整備されて一般道路として使用されている。
(269)高架橋にはめこんであった橋梁標。

稲沢市船橋地区の地図

高架上(270) 高架上から見た景色(271) 稲沢変電区分所(272)
(270)船橋高架橋の上から東京方を見た。すでにバラストは敷いてあった。
(271)高架橋上から私の家がある北東方向を見た。新幹線は高架上を走ることが多いので,現在線に比べて展望がよさそうだ。
大同毛織が出資して創った会社「天池テックスト」の建物が写真の左右いっぱいに広がっているが,その後住宅団地やショッピングセンターなどに変わったため,当時の建物は残っていない。 2007年12月に撮影した写真を見るとわかるように,手前の田畑はあまり変化がなく,矢印で示した水門も残っている。
(272)盛土部分の西側に新幹線用の「稲沢変電区分所」を建設していた。
2007年現在「JR東海稲沢変電区分所」となっている。


1964年5月17日(日)
国道171号線島本町(273) 試運転中の新幹線(274) 国道171号線大山崎村(275)
(273)新幹線が阪急京都線と並走しているあたりを国道171号線の高槻市と島本町の境界から見た。手前が新幹線。
(274)6両編成の新幹線が試運転をしていた。阪急京都線と並走しているところで,手前の道路は国道171号線。
(275)大阪府から京都府へ入ったあたりで阪急京都線は左へカーブして新幹線と別れる。

国道171号線をまたぐ新幹線(276)  名神高速道路をまたぐ新幹線(277)
(276)京都府大山崎村で国道171号線をまたぐ新幹線。新幹線と171号線は鋭角で交差するため,このように変わった形の橋になっている。
(277)京都府向日町で名神高速道路と国道171号線をまたぐ新幹線。高架の高速道路のさらに上をまたぐために高い高架線となっている。この付近では171号線は高速道路の両側を上下に分かれて通っている。


1964年7月22日(水)
工事中の新大阪駅(278) 鳥飼基地(279) 鳥飼基地(280)
(278)工事中の新大阪駅プラットホーム。
(279)新幹線の車両が並んだ鳥飼基地。
(280)新幹線車両の先頭部分。鳥飼基地にて。


1964年8月17日(月)
家から見た新幹線(281)
(281)自宅から見た新幹線の試運転電車。 地図は2月10日
当時の自宅は平屋建だったが,1980年ごろから次々に高層住宅が建設されたため,現在の家の二階からでも新幹線の姿を見ることはできなくなってしまった。


1964年10月1日(木)
新幹線東京−新大阪間が開業した。所要時間は超特急「ひかり」が4時間,特急「こだま」が5時間で最高速度は210km/h。車両は12両編成で全車指定席。


1974年10月19日(土)
鴨宮に「新幹線発祥の地」の記念碑が建てられた。