名古屋市西区区 1

美濃路探訪


最終更新:2022-03-05 スタート:2021-07-03


はじめに

美濃路このような箇所をすると説明などが表示されます。が付いている語句は美濃路探訪」ついてここだけ事典」詳しい説明が書いてあります。


で出現したものは,で閉じます。


見本の画像をすると大きくなり,再びすると元に戻ります。


 庄内川を渡ったところから,小学校北差点までの美濃路を取り上げます。①〜⑦
 この間には,常夜灯模型などが置かれた一郭屋根神様が乗っている古民家尾州殿茶屋押切立場などがあります。

地図:旧枇杷島橋の北から榎小学校北交差点までの美濃路
地図:旧枇杷島橋の北から榎小学校北」差点までの美濃路





現在の枇杷を渡ったところです。正面に市町村標識名古屋市あり,県道67号線名古屋祖父江幅が,ここまでの2車線から4車線へと広くなります。

 地図 A ↓ 2021-05

 このあたりは大がかりな水害対策工事がおこなわれていて,川幅も広げられるため,橋を渡ってすぐ左折する道路は廃止されて通行止となっています。新しい堤防の上,写真のほぼ正面に黒龍神社が見えます。

 地図 A ↘ 2021-05



黒龍神社は,中島とよばれていた庄内川の中州」あった,中島黒体龍王神社中島黒體龍王神社す。中島の撤去にともなって昭和28年1953年)庄内川の堤防上に移転し,さらに堤防等が改修されることになって令和元年2019年)現在地に再移転しました。
 神社の右にある道は,県道67号線から分かれて現在の美濃路に向かう道路,神社の左にある道は,堤防上にある散策路?です。舗装されていますが,名鉄の線路に突き当たったところで行き止まりで,ここに戻る以外に出口はないようです。
地図にある黒龍神社は移転前です。現在は鉛筆マーク C で示したところにあります。

 地図 B → 2021-05

 黒龍神社の入口に由緒板が建っています。

 2021-05

 由緒板の向かって左側に,枇杷島の歴史を語る会設置した,庄内川枇杷島水斗杭水見杭説明板が取り付けられています。説明板には,大雨が降って川の水かさが増えてきたときは水斗杭とよばれた水位計で川の水位を見張り,万が一基準を越えたときは堤防を切って,枇杷島橋の流失を防いだ。となどが書いてあります。

 2021-05



当時の美濃路庄内川の堤防上でほぼ直角に向きを変えていたあたりから,現在の美濃路を見下ろしたところです。次に取り上げる常夜灯模型などが置かれた一郭眼下に見えます。

 地図 D ↘ 2021-05



垂井へ向かう当時の美濃路は,ここから少し進んで堤防を上り,枇杷庄内川を越えていました。今はここに,美濃路と彫られた標柱常夜灯模型枇杷島橋美濃路などの説明板が置かれた一郭がつくられています。

 地図 E ↑ 2021-05

 2021-05

 枇杷についての説明板です。美濃路でつながる西区説明板は,この先ときどき見かけます。

 2021-05

 青銅板に地図や文字を刻んだ説明板が,コンクリート製の枠におさめれています。刻みに焼き付けてあった塗料が消えかけているためか,少し読みにくいですが,縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
美濃路
 美濃路は、江戸時代に東海道と中山道を結ぶ脇街道として発達したものである。その経路は宮の宿で東海道と分かれて名古屋・清須・稲葉・萩原・起の各宿を経て美濃国に入り、墨俣・大垣を経由して、垂井宿で中山道に合流した。その里程は一四里二四町一五間(約五七キロメートル)といわれ、五街道とともに道中奉行管轄の主要な街道であり、大名行列、朝鮮通信使、琉球王使などのほか、多くの庶民も往来し、にぎわいのある街道であった。

(美濃路の地図)

枇杷島橋
 枇杷島橋は、美濃路と庄内川の交差するこのあたりに架けられたが、その年は慶長十三年(一六〇八)とするものと元和八年(一六二二)とするものの二説がある。
 この橋について、『尾張名所図会』は、「国中第一の大橋にして、東西に二橋を架せり。大橋長さ七十二間、小橋二十七間、杭・桁・梁・高欄其他に至るまで、更に他の雑木を交へず、みな桧材を用ひて、結構の善美、人の目を驚せり。又両橋の間に中島とて、南北六町ばかり川中へ墾出す。」と記している。
師長伝説
 治承三年(一一七九)時の太政大臣藤原師長は、平清盛のため尾張国井戸田に流された。師長は、村長横江氏の娘を寵愛したが、後に赦されて都に帰るとき、形見に守本尊の薬師如来と白菊の琵琶を残した。しかし、娘は別れを悲しみ、ついに世をはななみ、「四つの緒の 調べも絶えて 三瀬川沈み果てぬと 君につたへよ」と琵琶の甲に書きつけ、入水した。その跡を琵琶池といい、処の者が亡骸と琵琶とを埋め、それより琵琶島と名づくという伝承がある。
   平成七年三月   名古屋市


 堤防改修工事によって,ここ10年ほどの間に,このあたりの様子はかなり変わりました。上段の写真Google StreetView 2012年」現在の写真を見比べると,右端に同じ住宅が写っていることから考えると,堤防や堤防下の道路が右南東)移動したことがわかります。下段の写真Google StreetView 2015年」見ると,常夜灯模型などが置かれた一郭今と同じものもありますが,変わったたものもあります。美濃路まちづくり推進協議会が設置したと思われる,説明板写真左端付近)ありました。


置かれている常夜灯模型ついての説明が見当たりません。以前あった説明板には書いてあったかもしれません。



 堤防の前から熱田の方を見たところです。美濃路はこの先,中区国道19号線に合流するまでは普通の道で,ここから2kmあまりは,このような幅でほぼ直進しています。

 地図 E ↘ 2021-05



 名鉄市道江川枇杷島線架道橋くぐります。

 地図 F ↘ 2021-12



 庄内川の堤防を下りたところから,現在の美濃路には,このような街路灯が設置されていて,その支柱には美濃路の道しるべのステッカーが貼り付けてあります。この街路灯は,美濃路でつながる西区説明板と共に,平成30年度2018年度)文化芸術振興費補助金を受けたなごや歴史文化活用協議会西区役所設置しました。

 地図 G → 2021-12



 清音見取絵図にもある古い寺です。

 地図 H ↗ 2021-05

 正面に御嶽開山覚明行者剃髪道場旧跡覺明行者剃髪道場舊跡)と彫られた標柱が建っています。覚明は,江戸時代御嶽山開山した行者です。右手に清音寺についての説明板があって,縦書きで次のように書いてあります。
 清 音 寺
 曹洞宗。治承三年一一七九)
太政大臣藤原師長は、平清盛のた
め尾張国井戸田に流された。師長
は、村長横江氏の娘を寵愛したが、
後に赦されて都に帰るとき、形見
に守本尊の薬師如来と白菊の琵琶
を残した。しかし、娘は別れを悲
しみ、ここで身を投じたという。
 その後この地を琵琶島と名付け、
娘の菩提を弔うためこの寺を建立
した。寺号の清音寺は娘の法号清
音院からとられている。
      名古屋市教育委員会



 古民家を使って営業していると思われる泰平旅館の手前に,西源への参道があって寺標が建っています。西源寺見取絵図にもある古い寺です。

 地図 I ↓ 2021-05



 美濃路から八幡社へ続く参道があって,奥に鳥居などが見えます。
 見取絵図では3つの神社が並んでいて,八幡宮/神明/天王と添えてあります。

 地図 J ↑ 2021-05



古民家の屋根に,屋根神様がのっています。その下に説明板があります。

 地図 K ↗ 2021-05

 説明板には縦書きで次のように書いてあります。すでに取り上げた,清須市にあるお休み処茶庵説明板と,同じ内容です。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
   屋根神様
 屋根神様にはたいてい三つの神社のお札を祭っている。大部分は津島神社・秋葉神社・熱田神宮の三社で、熱田神宮が地元の氏神に替わることもある。
 それぞれ疫病除け、火難除け、武運長久祈願といった意味が込められている。
 屋根神様は、名古屋を中心に尾張に広まった信仰だが、戦後は次第に取り壊され、今では数えるほどしか残っていない。美濃路など古い街道筋で当時の面影を偲ぶことができる。
   美濃路まちづくり推進協議会



兵衛とよばれていた庄内用水を,惣兵衛橋で渡ります。
 見取絵図には,惣兵衞川石橋と添えてあります。その当時の美濃路は,惣兵衞川までは枇杷,川を渡った後は押切を通っていました。

 地図 A → 2021-05


 惣兵衛そうべえ」読むのが一般的ですが,惣兵衛橋親柱にはそうべいはし」彫られています。衛」え」いう読みはあるけど,い」いう読みはないことと,そうべい」そうべえ」方が言いやすいので,不思議です。煎餅を,ってせんべえ」言うように,逆ならありそうですが。

 惣兵衛橋の上から,上流側を見たところです。暗渠の上に小公園が造られ,ベンチが置かれています。

 地図 B ↗ 2021-05

 惣兵衞橋を渡ったところで垂井の方を見たところです。建設中のネットが張ってあるあたりに,見取絵図には門を構えた格式高い施設が描かれ,尾州殿茶屋と添えてあります。

 地図 C ← 2021-05


 尾州殿茶屋は,大名など公の旅行者が休憩するところとして,尾張藩が用意した施設だと考えられます。いくつかの資料にはここで尾張藩の要人を接待したのであろう。いうよう書いてありますが,それならば尾州茶屋でよいわけで,わざわざ殿付けたのは,施設を用意した尾張藩に対する敬意の現れだと思います。ちなみに尾州尾張国のことで,信濃国信州などといったのと同じです。


 ほぼ同じところをGoogle StreetView 2020年」見ると,現在工事中のところに建っていた住宅の前に,尾州殿茶屋跡説明板が立っていました。

 説明板には次のように書いてありました。縦書きです。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
 尾州殿茶屋跡
 美濃路は東海道宮(熱田)の宿と中山道垂井の宿をつなぐ、重要な脇街道であった。この街道には、清洲、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣の六宿があった。
 かって,この場所に尾州殿茶屋があり、尾張藩と関係のある要人が通る際の接待所であった。名古屋には宿場としての本陣や旅籠はなく、熱田と清洲の中程に疲れを癒やすための施設を設けたという。
 十九世紀初めに書かれた「美濃路見取絵図」にも、惣兵衛川石橋の西側、このあたりに尾州殿茶屋と記されている。
  美濃路まちづくり推進協議会




 手前3車線,反対側4車線の国道22号線名岐国道横断します。

 地図 D → 2021-05



 見取絵図によると,このたりを通る美濃路の左側北側)押切立場がありました。そのあたりを見ていますが,何も残っていません。

 地図 E → 2021-05



 神社は,見取絵図では神明と添えてあります。

 地図 F ↗ 2021-05



 町屋を思わせる古民家が並んでいます。

 地図 G ↘ 2021-05



 和菓子屋さん清光園菓舗看板が,美濃路の雰囲気をかもしだしています。
 隣接していた建物が取り壊された跡が残っている外壁に,美濃路でつながる西区説明板が取り付けてあります。

 地図 A ↙ 2021-12

 2021-12



 ラムネ菓子クッピーラムネ知られるカクダイ製菓手前に,古民家が並んでいます。

 地図 B → 2021-05



高いところからたくさんの葉がせり出している建物が気になりました。小学校北差点を渡って振り返って見たら,建物はお食事処 味波 押切した。店の3階に,窓の外に木々が見える」いう,しゃれた部屋があるのかもしれません。

 地図 C → 2021-12