名古屋十名所は,大正14年
(1925年)
に新愛知新聞明治21年(1888年)の創刊です。新愛知新聞社は昭和42年(1942年)に名古屋新聞社と合併して中部日本新聞社になりました。が新聞紙上で募集し,上位10までを選定した
名所です。得票が多かった順に,
天理教々務支庁(昭和区鶴舞3丁目
天理教愛知教務支庁)
/正木町の闇之森(中区正木2丁目)
/笠寺観世音(南区笠寺町)
/円頓寺(西区那古野1丁目)
/久屋町の金刀比羅神社(東区泉1丁目)
/熱田神宮/
呼続町の桜田勝景(南区呼続町)
/押切町の榎権現(ここ
白山神社)
/名古屋城/
山田町の元大将之社(北区山田町4丁目
山田幼稚園内)
となり,それぞれの場所に
「名古屋十名所」
と彫られた
標柱が設置されました。
当時は名所だったかもしれませんが,私が知らないところもありました。そこで熱田神宮と名古屋城を除く名所に,地名などを添えておきました。固有名詞のように掲載されていた「正木町闇ノ森」を「正木町の闇之森」というようなかたちにしたり,漢字を新字体★に改めたりするなど,少し修正もしました。
白川神社にはいくつかの説明板が設置されていますが,これはそのうちのひとつ,「美濃路でつながる西区」です。掲載されている名古屋名所団扇絵★「榎権現祭礼」に,大きな榎の下での賑わいが描かれています。
2021-05
少し左の方にある別の
説明板には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
美濃路の信長
織田信長は一五三四年、現在の名古屋城二の丸跡にあった那古野城で生まれたという。
二一才で清洲城に移るまで、この辺りを駆け回っていた。美濃、斎藤道三の娘、濃姫を妻として迎えたのも那古野城である。
清洲城に移ったあと一五六〇年、今川義元を迎え討つため、若き日の豊臣秀吉等を引き連れ桶狭間の戦いに出陣、この神社で戦勝祈願し、凱旋したのはこの街道である。
美濃路まちづくり推進協議会
入口の右側に,和風の屋根を備えた掲示板が2つ並んでいます。小さい方は何も掲示されていませんが,大きい方には青銅製の説明板がはめ込まれています。
2021-05
説明板には
美濃路に関する地図と,
尾張名所図会★にある
「榎権現」
の絵が添えてあります。
美濃路については,すでに取り上げた
「常夜燈の
模型などが置かれた
一郭」
にあった説明板と同じ文章ですから省略します。白山神社などについては縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
立て場・白山神社界隈
白山神社の前は、立て場であった。立て場というのは、人夫が杖を立てて休息する所からいわれ、宿と宿との中間にあって、旅人のために茶店等が設けられた。
白山神社について、『尾張名所図会』は、「社内に榎木一株あり。是即白山の神木なれば、榎権現の称こゝに起る。」と記している。神社の西側を流れていた笈瀬川に権現橋という石橋があった。現在、川も橋もないが、かつての橋の欄干は白山神社の垣根の一部として使われている。
平成九年一月 名古屋市
③ 養照寺は見取絵図★にもある古い寺です。
地図 C ↑ 2021-05
④ 「押切北」交差点で,4車線の道路を横断します。
地図 D → 2021-05
⑤ 当時の美濃路★は,このあたりに大木戸★がありました。今は名古屋市が管理する幼児公園「江川どんぐりひろば」のフェンスに説明板があるだけです。
見取絵図★には木戸が描かれていて大木戸と添えてあります。
地図 A ↗ 2021-05
2021-05
説明板のひとつは「美濃路でつながる西区」です。見取絵図にある絵/尾張名所図会★にある絵/地図が添えてあります。
2021-05
もうひとつの
説明板には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
樽屋町の大木戸
城下町には、治安のため辻毎に木戸が設けられていた。なかでも重要な街道には「大木戸」を設け、夜間は閉鎖し、城下防御の役割を持たせていた。
名古屋城下には三ヶ所の大木戸があった。南口は東海道から美濃路を通り、城下への入口、橘町(中区)。東口は飯田街道の入口、赤塚(東区)。西口はここ美濃路樽屋町と押切村の境(西区)に設けられていた。
大木戸は城下と外との境界で、番小屋が付設されていた。旅行者の送迎もこの大木戸までであったという。
一八七二年、三ヶ所の大木戸はすべて取り除かれた。
美濃路まちづくり推進協議会
⑥ 美濃路は名古屋高速道路6号線(清須線)をくぐります。
地図 B ↘ 2021-05
⑦ 見取絵図★によると,今は十字路になっているところに江川町板橋と添えてある橋があって,美濃路にほぼ直交する道路は川でした。
大正9年(1920年)の地図では川がありますが,昭和7年(1932年)の地図では道路に変わっています。ここにあった江川橋の欄干★が,あとで取り上げる冨士浅間神社にあります。
美濃路が橋を渡ってすぐ,その両側に一里塚★がありました。つづき皮フ科があるところと,写真左の建物があるあたりです。ここが江川町であったことから,「江川一里塚」とよばれていたようです。説明板などがないか,付近を少し探してみましたが,見つかりませんでした。
地図 C ↘ 2021-05
ほぼ同じところを「Google StreetView 2012年」で見ると,つづき皮フ科が建つ前は,交差点の角に「江川一里塚」と書いてある木の札と説明板が立っていました。
説明板には次のように書いてありました。縦書きです。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
江川一里塚跡
美濃路は一六〇二年に開かれ、東海道と中山道をつなぐ街道として重要な役割を果たしてきた。
東海道熱田宿から中山道垂井宿まで、その間に六つの宿場町があった。
江川一里塚は熱田宿から二つ目の一里塚。このあたりにあったと伝えられるが、今は何も残っていない。
関ヶ原の合戦のおり、徳川家康は、整備される前のこの街道を通って清洲城へ入り、岐阜を経て関ヶ原へ向かった。
美濃路まちづくり推進協議会
⑧ 冨士浅間神社の,正面(南側)ではなく,東側出入口から入ってすぐ左側に,先に取り上げた江川橋の欄干★を利用して石碑★を囲ってある一郭があります。
明治廿四年八月と彫ってある親柱★があることから,この最後の江川橋は明治24年(1891年)の完成で,おそらく30年以上は使われていたと思われます。ちなみに石碑は土地を寄付した人の功績を讃えたもので,昭和12年(1937年)の建立です。
地図 D ← 2021-05
2021-05
⑨ 美濃路はこのT字路で右(南)に折れます。
地図 E ↘ 2021-05
⑩ 美濃路からは逸れますが,T字路で曲がらずにまっすぐ進んでみることにします。すると「城西一」交差点の片隅に,美濃路と彫られた石柱が建っています。
地図 F ↖ 2021-05
ここは美濃路から外れていると思われるので,この石柱は意外です。少し調べてみたところ,見取絵図★の美濃路は先ほどのT字路で右折して南下していますが,Googleマップ(2021年7月現在)が示す美濃路はここを通って堀川にぶつかったところで南下しています。見取絵図にもその道はありますが,細く描かれています。しかし明治地図★では直進する道の方が太く描かれているので,見取絵図ができた以後,何らかの変化があったのかもしれません。
石柱に並んで街路灯が立っていますが,さすがに美濃路の道しるべ★のステッカーは貼り付けてありません。
美濃路に戻って,T字路を右(南)に折れた先です。これまでよりも道幅が狭くなっています。
2021-12
「日本年金機構 名古屋西年金事務所」のフェンスに「美濃路でつながる西区」の説明板が取り付けてあります。庄内川の近くから江川の大木戸★までは「目でみる美濃路」という副題で,各説明板に個性がありましたが,ここからは副題が「美濃路みち案内」に変わり,書いてある説明文だけでなく,添えてある地図や見取絵図★もまったく同じです。ただ現在地の表示だけが異なっています。