名古屋市西区区 3

美濃路探訪


最終更新:2022-03-05 スタート:2022-01-10


はじめに

美濃路このような箇所をすると説明などが表示されます。が付いている語句は美濃路探訪」ついてここだけ事典」詳しい説明が書いてあります。


で出現したものは,で閉じます。


見本の画像をすると大きくなり,再びすると元に戻ります。


 国道22号線から,五條橋の西までの美濃路を取り上げます。①〜⑧
 この間は都市化の影響を受けたところが多いですが,ところどころに古民家が残っています。五條橋は歴史的な橋ということもあって,いくつかの説明板など設置されています。この間には,区画整理によって美濃路がなくなってしまった区間があります。

地図:国道22号線から五條橋の西までの美濃路
地図:国道22号線から五條橋の西までの美濃路





国道22号線に架かる歩道橋の上から美濃路がある方を見たところです。美濃路は,左側にあるmazdaの建物が終わった先を通っています。

 地図 A ← 2021-12



国道22号線を越えて,再び美濃路に戻ったところです。古民家は,加藤家住宅旧中彦蝋燭す。

 地図 B ↙ 2021-12

 国道22号線を越えた先の美濃路です。

 2021-12

垂井に向かう美濃路国道22号線によって行く手をさえぎられます。この先に進むためには65mほど東方にある歩道橋を渡ることになります。

 地図 B ↑ 2021-12



 左側に古民家が並んでいます。

 地図 C ↓ 2021-12



ここで幅下公園に突き当たります。そしてこの先の美濃路がありません。
 公園に入ってすぐ,写真に鉛筆でマークしたところに美濃路でつながる西区説明板が設置されています。

 地図 D ↓ 2021-12


 先ほどの幅下公園を撮った写真ですが,よく見ると公園の看板石が写っています。ところが看板石の文字は巾下公園です。実は,幅下はもともと巾下でしたが,常用漢字のにははば」いう読みがないため,に置き換えられたようです。現在は常用漢字の使用がそれほど厳格ではなくなっていますが,発足当時はかなり強制力があったとのことです。
 ところで,幅下公園の南に隣接していた幅下小学校ですが,明治時代からすでに幅下が使われていました。江戸時代に存在した巾下学問所とは別のものであることを意識したのかもしれません。


 美濃路が失われる前の昭和22年(1947年)発行された国土地理院の地図を載せておきます。地図の左下に国鉄名古屋駅があります。
 終戦後名古屋市戦災復興事業の一環として,災害に備えて公園を隣接させて小学校等の校地を拡大整備する構想を打ち出し,多くの校地が拡大され,新しい公園が作られました。ところが鉛筆マーク A で示した幅下小学校の場合,美濃路の西側へ拡張する以外に方法がありませんでした。そこで特別処分というかたちで美濃路がつぶされ,校地とその北側の公園用地が確保されました。幅下小学校のWebサイトには,昭和25年 校地が広がったと書いてありますので,昭和25年1950年)でに美濃路がなくなったと思われます。


 全国的に少子化が問題になっていますが,幅下小学校の場合も昭和37年度1962年度)は800名を越えていた児童数が平成26年度2014年度)は200人ほどになってしまいました。同じ西区内の隣接する那古野小学校鉛筆マーク B西小学校鉛筆マーク C,それぞれ2014年度の児童数が約100人ほどになってしまったこともあって,3校を統合して,平成27年度2015年度)なごや小学校が開校しました。なごや小学校の校地は幅下小学校があったところです。



幅下公園の北東角に隣接するように,南無阿弥陀仏と彫られた石柱/たくさんの地蔵が並んでいる三十三観音/背が高い延命地蔵貞養院と書かれた札が掛かっている小さい建物が並んでいる一郭があって,説明板が立っています。

 地図 E ↗ 2021-12

 説明板の内容です。


 説明板の内容を補足します。
 貞養院東区東桜二丁目旧東門前町西蓮にあった尼寺でしたが,明治16年1883年)この地に移りました。大正9年1920年)行の国土地理院の地図には,現在は幅下公園になっているところに寺院の記号があります。ところが昭和7年1932年)区画整理によって,貞養院は所有していた土地のほとんどを失い,わずかに延命地蔵などがある一郭だけが残ったようです。木々に囲まれた境内本堂など,寺院としての姿を失ってしまったため,もともと貞養院が所有していた土地の全域」貞養院遺跡とよぶようになったものと思われます。
 説明板に書いてある貞養院遺跡からも、江戸時代の「巾下水道」の遺構が発見されました。からも,貞養院遺跡が狭い一郭にとどまっていないことがわかります。

幅下公園トイレがあります。



なごや小学校の南側,美濃路がなくなってしまった南端部分から北の方を見たところです。鉛筆マークで示したところに,美濃路が通っています。
 垂井に向かう美濃路は,ここで右に折れて,北に向かっていました。

 地図 F ↑ 2021-12



 なごや小学校の南東端,フェンスに美濃路でつながる西区説明板が取り付けてあります。


 地図に描かれている美濃路が気になります。美濃路幅下公園のところで少し折れて南下し,昔はなかった道につながっているように見えるからです。先ほど載せた昭和22年(1947年)発行された国土地理院の地図や見取絵図を見るとわかりますが,美濃路は折れることなく直進し,学校の南でT字路となっていました。公の説明板ですから,ぜひしっかり調べて描いてほしかったと思います。

 地図 G ↖ 2021-12



 なごや小学校の前から東に進んだところに古民家があります。

 地図 H → 2021-12



幅下二丁目差点で美濃路は右に折れ,まっすぐ進むと堀川で渡ります。小塩橋見取絵図にはありませんが,明治地図にはあります。

 地図 I → 2021-12

  垂井へ向かう美濃路幅下二丁目差点で左に折れます。直進して北に向かう道は見取絵図にもありますが,入り口に木戸が描かれているので,通行を制限していた可能性があります。

 地図 J ↑ 2021-12



 美濃路堀川に沿って南に向かいます。

 地図 K ↓ 2021-12



美濃路景雲橋西」交差点で県道200号線名古屋甚目寺線横切り,名古屋高速都心環状線の下をくぐります。県道200号線にはかつて市電が走っていました。交差点の左手にある堀川に架かる景雲は,大正2年1913)新設されました。

 地図 A ↓ 2021-12



 景雲橋西差点をすぎたところです。道幅,特に歩道が広めです。

 地図 B ↓ 2021-12

 古民家が西の方に向かって並んでいます。西端のは,あとで取り上げる四間に面しています。

 地図 C ↙ 2021-12

 美濃路は,この先の交差点でぐっと狭くなり,自動車は南行き一方通行となります。

 地図 D ↓ 2021-12



交差点を左東)折れたところに五條橋があります。角には平成に設置されたと思われる新しい道標が設置されています。

 2021-12

 道標の北側,西側,南側,東側には次のような文字が彫られています。
 北 垂井宿 中山道 
 
 美濃路
 
 南 宮宿 東海道
 
 美濃路


 五條橋には五条橋という表記もありますが,現在の五條橋親柱五條橋と彫られていること,現在の地図の表記が五條橋であること,見取絵図五條橋板橋尾張名陽図会五條橋と添えてあること,清須五条橋と区別する意味もあって,ここでは基本的に五條橋を用います。
 この橋がいつから五條橋と書かれるようになったか,少し調べてみましたが,わかりません。江戸末期18〜19世紀)五條橋になっていたようですが,もしかした清須から移された早い段階で,すでに五條橋に変えられていたかもしれません。
 五條橋が使用されるようになって,200年以上も経過したにもかかわらず,説明板などにもっぱら五条橋が使用されていることが不思議です。

 交差点から見た五條橋です。自動車の通行は可能ですが,重量6.0tに制限されています。

 地図 E → 2021-12

 美濃路から五條橋に向かう角に小さい広場があって,2つの説明板が並んでいます。

 2021-12
 左側の説明板です。

 左側の説明板には次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
  五条橋
 1610年(慶長15)尾張の首府が清須から名古屋へ移されることになった。「清須越」といわれ、翌年にかけて名古屋城築城、城下町建設資材や、生活物資搬入のため堀川が開削された。五条橋はそのとき架けられた「堀川七橋」の一つで、擬宝珠に慶長七年壬刀六月吉日(1602)の銘があり、清須から移された橋である。「清須越」では城・石垣・橋・寺社・家屋・町名まで移された。現在の橋は1938年(昭和13)にコンクリート製で復元されたもの。
 五条橋の西詰を南北に通る道は歴史街道「美濃路」である。東海道宮宿と中山道垂井宿を結ぶ官道で、東海道から分かれて美濃へ向かう街道のため「美濃路」と呼ばれた。江戸時代、京・大阪と江戸を結ぶ重要な街道として、五街道と同じく道中奉行の支配下に置かれた。清須越の折、名古屋の美濃路は現在の位置に定められた。
 堀川西岸美濃路に面し、西側に清須越商人の主屋が立ち並び、その裏側に裏蔵が建ち、美濃路と堀川の間には表蔵が並び,城下の物流を担った清須越商家の豪壮な町並みが形成されていった。1700年(元禄13)このあたり一帯が消失し、堀川を越えて延焼した大火があった。その後、城下への延焼を防ぐため、美濃路の西側裏道を4間へ拡幅し、その東側を石垣積で盛土し、塗籠造りの土蔵を奨励した。そのため「四間道」といわれるようになり、東側に河戸石の石垣上に土蔵群、西側に町家が並ぶ現在の景観がこのとき生まれた。
 堀川の両岸には、いたる所に共同物揚場が設けられた。ここ五条橋では橋の四隅を石畳とし、護岸と道路を結んだ。舟運により350年にわたり繁栄したこの地域も、1960年代から始まる車社会への移行に伴い、物流の役割を終え、清須越の面影を残した町並みも失われつつある。五条橋は名古屋開府以来、この町を見守り続けている。

 四間道・那古野界隈まちづくり協議会
 江戸時代の五条橋
  尾張名陽図会

東岸より下流を見る。右岸には表蔵と美濃路が描かれ、橋詰には共同物揚場の石垣と石段が見られる。
左岸に京町筋と木挽町通が描かれている。

(注)五条橋は、尾張名陽図会や現在の欄干親柱には、「條」の文字が用いられているが、名古屋城に保管の擬宝珠等には「条」が用いられている。


 いくつかの漢字の読みや意味などを添えておきます。
清須越:きよすごし/塗籠造/四間道:しけみち/物揚場:ものあげば/那古野:なごの/木挽町:こびきちょう/欄干親柱
擬宝珠

 右側の説明板です。

 右側の説明板には次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
西区今昔物語第六巻
  五条橋
 写真は昭和11年に堀川に架かる五条橋の東から西に向かって撮影されたものです。左側に写る煙突のある近代洋風建築は、弁慶湯」いう銭湯で、明治33年に開業し、平成14年に取り壊されるまで100年近くにわたって、庶民の暮らしの中に息づいてきた場所です。
 撮影当時は、燃料が乏しい時代で、店主さんがリヤカーを引いて廃材を探し集め、お風呂を沸かし続けました。戦時中、名城公園にあった練兵場の兵隊さんが銭湯に入る日には、橋の欄干に沿って行列をつくり、その反対側に息子を一目見たさに集まったお母さんたちがそっと立ち並んだこともあったそうです。
 中央前方に、名古屋で最も古い歴史をもつ円頓寺商店街のアーチが小さく見えます。アーケードがつくられたのは昭和39年のことですが、今でも昭和を彷彿とさせる盛り場の情緒が懐かしく残されています。一本路地に入れば、いつか見たレトロな佇まいがそこにあります。
 橋の西側に接する美濃路は、東海道宮宿と中山道垂井宿を結ぶ街道です。美濃路の一本西側を通る四間道には,古い町屋や江戸時代の豪商の蔵が残され、城下町の面影がしのばれます。
 五条橋を西に渡れば、そこには物語を感じさせる町並みが広がっています。
(協力/ 伊藤 公夫さん)


 この写真を撮って2年後に架け替えられていますから,古い五條橋の最後の姿だったといえます。欄干が少し曲がっていたりして,劣化の様子がうかがえます。橋も欄干も,堀川を渡っている部分だけに設けられていたことがわかります。
 漢字の読みです。
円頓寺:えんどうじ/彷彿:ほうふつ/佇まい:たたずまい

 五條橋のたもとに屋根神様と思われると,五條橋説明板があります。

 2021-12

 台座に屋根の傾きがつくられているので,おそらく屋根神様です。このあたりにあった古い建物を取り壊したときに,屋根神様だけをここに移設したのではないかと思いますが,説明板はないようですし,はっきりしたことはわかりません。


 五條橋のたもとにある説明板です。屋根付の古風な説明板ですが,肝心の表記が劣化して薄くなり,見にくいのが残念です。

 掲載されている古い絵は,すでに取り上げた掲示板と同様,尾張名陽図会です。
 画像処理で,かなりコントラストを上げてみました。

 見取絵図を見ると,この説明板があるあたりに看板が建っていますが,文字は添えてありません。
 道の反対側に四間案内板があります。主に店の紹介です。この案内板は,ところどころで見かけます。

 2021-12


 五條橋擬宝珠ですが,江戸時代の絵を見ると四隅にあっただけですから4基でした。それが現在の一代前では6基に増え,現在は12基もあってにぎやかです。

 交差点に戻って,五條橋とは反対方向,西の方を見たところです。正面に円頓商店街の入口があります。

 2021-12

 美濃路は,ここから道幅がいきなり狭くなります。しばらく広い道が続いていたので,まるで路地に入るような感じです。

 2021-12