国道22号線 から,五條橋 の西までの美濃路 を取り上げます。①〜⑧
この間は都市化 の影響を受けたところが多いですが,ところどころに古民家★ が残っています。五條橋 は歴史的な橋ということもあって,いくつかの説明板 など設置されています。この間には,区画整理 によって美濃路 がなくなってしまった区間 があります。
② 国道22号線 に架かる歩道橋 の上から美濃路 がある方を見たところです。美濃路 は,左側にあるmazda の建物が終わった先を通っています。
地図 A ← 2021-12
③ 国道22号線 を越えて,再び美濃路 に戻ったところです。古民家★ は,加藤家住宅 ( 旧中彦蝋燭 店 )で す。
地図 B ↙ 2021-12
国道22号線 を越えた先の美濃路 です。
2021-12
① 垂井 に向かう美濃路 は国道22号線 によって行く手をさえぎられます。この先に進むためには65mほど東方にある歩道橋 を渡ることになります。
地図 B ↑ 2021-12
左側に古民家★ が並んでいます。
地図 C ↓ 2021-12
④ ここで幅下公園 に突き当たります。そしてこの先の美濃路 がありません。
公園に入ってすぐ,写真に鉛筆でマークしたところに「 美濃路でつながる西区 」の 説明板 が設置されています。
地図 D ↓ 2021-12
先ほどの幅下公園 を撮った写真ですが,よく見ると公園の看板石 が写っています。ところが看板石 の文字は巾下公園 です。実は,幅下 はもともと巾下 でしたが,常用漢字の巾 には「 はば」と いう読みがないため,幅 に置き換えられたようです。現在は常用漢字の使用がそれほど厳格ではなくなっていますが,発足当時はかなり強制力があったとのことです。
ところで,幅下公園 の南に隣接していた幅下小学校 ですが,明治時代からすでに幅下 が使われていました。江戸時代に存在した巾下学問所 とは別のものであることを意識したのかもしれません。
全国的に少子化 が問題になっていますが,幅下小学校 の場合も昭和37年度( 1962年度)に は800名を越えていた児童数が平成26年度( 2014年度)に は200人ほどになってしまいました。同じ西区 内の隣接する那古野 小学校( 鉛筆マーク B )と 江 西 小学校( 鉛筆マーク C )も ,それぞれ2014年度の児童数が約100人ほどになってしまったこともあって,3 校を統合して,平成27年度( 2015年度)に なごや小学校 が開校しました。なごや小学校 の校地は幅下小学校 があったところです。
⑥ 幅下公園 の北東角に隣接するように,南無阿弥陀仏 と彫られた石柱 /たくさんの地蔵 が並んでいる三十三観音 /背が高い延命地蔵 /貞養院 と書かれた札が掛かっている小さい建物が並んでいる一郭 があって,説明板 が立っています。
地図 E ↗ 2021-12
説明板の内容です。
説明板 の内容を補足します。
貞養院 は東区東桜二丁目 ( 旧東門前町 )の 西蓮 寺 にあった尼寺 でしたが,明治16年( 1883年), この地に移りました。大正9年( 1920年)発 行の国土地理院 の地図には,現在は幅下公園 になっているところに寺院 の記号卍 があります。ところが昭和7年( 1932年), 区画整理によって,貞養院 は所有していた土地のほとんどを失い,わずかに延命地蔵 などがある一郭 だけが残ったようです。木々に囲まれた境内 /門 /本堂 など,寺院 としての姿を失ってしまったため,「 もともと貞養院 が所有していた土地の全域」を ,貞養院遺跡 とよぶようになったものと思われます。
説明板 に書いてある貞養院遺跡からも、江戸時代の「巾下水道」の遺構が発見されました。 からも,貞養院遺跡 が狭い一郭 にとどまっていないことがわかります。
⑤ なごや小学校 の南側,美濃路 がなくなってしまった南端部分から北の方を見たところです。鉛筆マークで示したところに,美濃路 が通っています。
垂井 に向かう美濃路 は,ここで右に折れて,北に向かっていました。
地図 F ↑ 2021-12
なごや小学校 の南東端,フェンスに「 美濃路でつながる西区 」の 説明板 が取り付けてあります。
地図に描かれている美濃路 が気になります。美濃路 が幅下公園 のところで少し折れて南下し,昔はなかった道につながっているように見えるからです。先ほど載せた昭和22年(1947年)に 発行された国土地理院 の地図や見取絵図★ を見るとわかりますが,美濃路 は折れることなく直進し,学校の南でT字路となっていました。公の説明板 ですから,ぜひしっかり調べて描いてほしかったと思います。
地図 G ↖ 2021-12
なごや小学校 の前から東に進んだところに古民家★ があります。
地図 H → 2021-12
⑦ 「 幅下二丁目 」交 差点で美濃路 は右に折れ,まっすぐ進むと堀川 を小 塩 橋 で渡ります。小塩橋 は見取絵図★ にはありませんが,明治地図★ にはあります。
地図 I → 2021-12
垂井 へ向かう美濃路 は「 幅下二丁目 」交 差点で左に折れます。直進して北に向かう道は見取絵図 にもありますが,入り口に木戸 が描かれているので,通行を制限していた可能性があります。
地図 J ↑ 2021-12
美濃路 は堀川 に沿って南に向かいます。
地図 K ↓ 2021-12
⑧ 美濃路 は「 景雲橋西 」交差点で県道200号線 ( 名古屋甚目寺線 )を 横切り,名古屋高速都心環状線 の下をくぐります。県道200号線 にはかつて市電 が走っていました。交差点の左手にある堀川 に架かる景雲 橋 は,大正2年( 1913)に 新設されました。
地図 A ↓ 2021-12
「 景雲橋西 」交 差点をすぎたところです。道幅,特に歩道が広めです。
地図 B ↓ 2021-12
古民家★ や蔵 が西の方に向かって並んでいます。西端の蔵 は,あとで取り上げる四間 道 に面しています。
地図 C ↙ 2021-12
美濃路 は,この先の交差点でぐっと狭くなり,自動車は南行き一方通行となります。
地図 D ↓ 2021-12
⑨ 交差点を左( 東)に 折れたところに五條橋 があります。角には平成 に設置されたと思われる新しい道標 が設置されています。
2021-12
道標 の北側,西側,南側,東側には次のような文字が彫られています。
五條橋 には五条橋 という表記もありますが,現在の五條橋 の親柱★ に五條橋 と彫られていること,現在の地図の表記が五條橋 であること,見取絵図★ に五條橋板橋 ,尾張名陽図会★ に五條橋 と添えてあること,清須 の五条橋 と区別する意味もあって,ここでは基本的に五條橋 を用います。
この橋がいつから五條橋 と書かれるようになったか,少し調べてみましたが,わかりません。江戸末期 ( 18〜19世紀)に は五條橋 になっていたようですが,もしかした清須 から移された早い段階で,すでに五條橋 に変えられていたかもしれません。
五條橋 が使用されるようになって,200年以上も経過したにもかかわらず,説明板 などにもっぱら五条橋 が使用されていることが不思議です。
交差点から見た五條橋 です。自動車の通行は可能ですが,重量6.0tに制限されています。
地図 E → 2021-12
美濃路 から五條橋 に向かう角に小さい広場があって,2つの説明板 が並んでいます。
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左側の説明板 です。
左側の
説明板 には次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
五条橋
1610年(慶長15)尾張の首府が清須から名古屋へ移されることになった。「清須越」といわれ、翌年にかけて名古屋城築城、城下町建設資材や、生活物資搬入のため堀川が開削された。五条橋はそのとき架けられた「堀川七橋」の一つで、擬宝珠に慶長七年壬刀六月吉日(1602)の銘があり、清須から移された橋である。「清須越」では城・石垣・橋・寺社・家屋・町名まで移された。現在の橋は1938年(昭和13)にコンクリート製で復元されたもの。
五条橋の西詰を南北に通る道は歴史街道「美濃路」である。東海道宮宿と中山道垂井宿を結ぶ官道で、東海道から分かれて美濃へ向かう街道のため「美濃路」と呼ばれた。江戸時代、京・大阪と江戸を結ぶ重要な街道として、五街道と同じく道中奉行の支配下に置かれた。清須越の折、名古屋の美濃路は現在の位置に定められた。
堀川西岸美濃路に面し、西側に清須越商人の主屋が立ち並び、その裏側に裏蔵が建ち、美濃路と堀川の間には表蔵が並び,城下の物流を担った清須越商家の豪壮な町並みが形成されていった。1700年(元禄13)このあたり一帯が消失し、堀川を越えて延焼した大火があった。その後、城下への延焼を防ぐため、美濃路の西側裏道を4間へ拡幅し、その東側を石垣積で盛土し、塗籠造りの土蔵を奨励した。そのため「四間道」といわれるようになり、東側に河戸石の石垣上に土蔵群、西側に町家が並ぶ現在の景観がこのとき生まれた。
堀川の両岸には、いたる所に共同物揚場が設けられた。ここ五条橋では橋の四隅を石畳とし、護岸と道路を結んだ。舟運により350年にわたり繁栄したこの地域も、1960年代から始まる車社会への移行に伴い、物流の役割を終え、清須越の面影を残した町並みも失われつつある。五条橋は名古屋開府以来、この町を見守り続けている。
四間道・那古野界隈まちづくり協議会
江戸時代の五条橋
尾張名陽図会
東岸より下流を見る。右岸には表蔵と美濃路が描かれ、橋詰には共同物揚場の石垣と石段が見られる。
左岸に京町筋と木挽町通が描かれている。
(注)五条橋は、尾張名陽図会や現在の欄干親柱には、「條」の文字が用いられているが、名古屋城に保管の擬宝珠等には「条」が用いられている。
いくつかの漢字の読みや意味などを添えておきます。
清須越:きよすごし/
塗籠造★ /四間道:しけみち/物揚場:ものあげば/那古野:なごの/木挽町:こびきちょう/
欄干★ /
親柱★
擬宝珠★
右側の説明板 です。
右側の
説明板 には次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
西区今昔物語第六巻
五条橋
写真は昭和11年に堀川に架かる五条橋の東から西に向かって撮影されたものです。左側に写る煙突のある近代洋風建築は、「 弁慶湯」と いう銭湯で、明治33年に開業し、平成14年に取り壊されるまで100年近くにわたって、庶民の暮らしの中に息づいてきた場所です。
撮影当時は、燃料が乏しい時代で、店主さんがリヤカーを引いて廃材を探し集め、お風呂を沸かし続けました。戦時中、名城公園にあった練兵場の兵隊さんが銭湯に入る日には、橋の欄干に沿って行列をつくり、その反対側に息子を一目見たさに集まったお母さんたちがそっと立ち並んだこともあったそうです。
中央前方に、名古屋で最も古い歴史をもつ円頓寺商店街のアーチが小さく見えます。アーケードがつくられたのは昭和39年のことですが、今でも昭和を彷彿とさせる盛り場の情緒が懐かしく残されています。一本路地に入れば、いつか見たレトロな佇まいがそこにあります。
橋の西側に接する美濃路は、東海道宮宿と中山道垂井宿を結ぶ街道です。美濃路の一本西側を通る四間道には,古い町屋や江戸時代の豪商の蔵が残され、城下町の面影がしのばれます。
五条橋を西に渡れば、そこには物語を感じさせる町並みが広がっています。
(協力/ 伊藤 公夫さん)
この写真を撮って2年後に架け替えられていますから,古い五條橋 の最後の姿だったといえます。欄干が少し曲がっていたりして,劣化の様子がうかがえます。橋も欄干も,堀川を渡っている部分だけに設けられていたことがわかります。
漢字の読みです。
円頓寺:えんどうじ/彷彿:ほうふつ/佇まい:たたずまい
五條橋 のたもとに屋根神様★ と思われる祠 と,五條橋 の説明板 があります。
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台座に屋根の傾きがつくられているので,おそらく屋根神様 です。このあたりにあった古い建物を取り壊したときに,屋根神様 だけをここに移設したのではないかと思いますが,説明板 はないようですし,はっきりしたことはわかりません。
五條橋 のたもとにある説明板 です。屋根付の古風な説明板 ですが,肝心の表記が劣化して薄くなり,見にくいのが残念です。
掲載されている古い絵は,すでに取り上げた掲示板 と同様,尾張名陽図会 です。
画像処理で,かなりコントラストを上げてみました。
見取絵図 を見ると,この説明板 があるあたりに看板 が建っていますが,文字は添えてありません。
道の反対側に四間 道 の案内板 があります。主に店の紹介です。この案内板 は,ところどころで見かけます。
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五條橋 の擬宝珠 ですが,江戸時代の絵を見ると四隅にあっただけですから4基でした。それが現在の一代前では6基に増え,現在は12基もあってにぎやかです。
交差点に戻って,五條橋 とは反対方向,西の方を見たところです。正面に円頓 寺 商店街 の入口があります。
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美濃路 は,ここから道幅がいきなり狭くなります。しばらく広い道が続いていたので,まるで路地に入るような感じです。
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