東海道新幹線 をくぐったところから庄内川 までの美濃路を取り上げます。①〜⑪
この間の美濃路 は昔から家並 が続き,大正元年( 1912年)に 枇杷 島橋 が現在の位置に移った後も,町を形成する核になっていました。しかし平成12年( 2000年)に 起こった東海豪雨 の後,大規模な洪水対策事業が始まり,多くの建物が消えてしまいました。それでも煉瓦 作りの橋台 /枇杷島小橋のたもとにあった道標 /彫像 「 にしび夢だいこん 」/山車 蔵 など,見るものがたくさんあります。
② 東海道新幹線 の架道橋★ をくぐって次の架道橋の下で立ち止まって見ると,煉瓦積 の壁にはさまれた,ちょっと不思議な空間にいることに気が付きます。上を通っているのは一般に「 稲沢線 」と よばれている貨物線で,大正14年( 1925年)に 開通しました。この煉瓦造 の橋台 もその当時のものだと考えられます。
次は東海道線 ですが,耐震化工事などが施されたため,道路に面した煉瓦積 は見えません。
地図 A ↑ 2021-05
③ 最後に東海道線 をくぐって東側に出たところです。
明治19年( 1886年)に このあたりの東海道線 が開通したとき,煉瓦造 の橋で美濃路 を渡っていました。ところが明治24年( 1891年)の 濃尾地震 で崩れてしまったため,再建されました。見えている煉瓦積 は,再建されたときのものだと思われます。
東海道新幹線 から3つ続く架 道橋 に取り付けてあるプレートを見ると,すべて「 名古屋街道架道橋 」と 書いてあります。ということは美濃路 が名古屋街道 とよばれていた可能性があります。
美濃路 に関する案内板 があって,問屋記念館 /道標★ /問屋・ 市 場跡 /トイレ などを示しています。ここでは「 いこいの広場 」が 「 憩いの広場 」と なっていますが,少し気になります。
地図 B ↙ 2021-05
④ 線路沿いの道を北へ150mほど進んだところに,歩行者用の煉瓦造 のアーチトンネル があります。もしかしたら,このトンネルは東海道線 が開通した時のものかもしれません。
西側の半分は,大正14年( 1925年)に 名古屋−稲沢間 に貨物線が増設されたときに造られました。トンネルをくぐって西側に出てみると,造りが違うことがわかります。
ここにも美濃路 の案内板 がありますが,やはり「 いこいの広場 」が 「 憩いの広場 」に なっています。
地図 C ← 2021-04
美濃路 に戻って熱田 の方を見たところです。このあたりは平成12年( 2000年)の 東海豪雨 で浸水し,その後いくつかの建物が取り壊されたとのことで,少し寂しい感じがします。
地図 B → 2021-04
⑤ 問 屋 町 が所有るす頼朝車 の山車 蔵 と,橋詰 神社 が並んでいます。この2つとも昨年( 2020年)こ こに建てられたばかりです。
組み上がった頼朝車 を入れておく山車蔵 は,これまでありませんでしたが,ここに新たに建てられました。
橋詰神社 は,見取絵図★ では神明/天王 と添えてある古い神社です。もともと県道67号線 ( 名古屋祖父江 線 )を 越えたところにありましたが,これから県道 の拡幅 と高架化がおこなわれるため,こちら側に移りました。
地図 D ↗ 2021-05
⑥ 橋詰 神社 があった跡です。左を通っている県道67号線 は,今後10年あまりをかけて,枇杷 島 橋 から名鉄の跨 線橋 ( 写真後方に見えています)に かけて高架化し,現在の2車線を4車線にする計画が進んでいます。
この位置にあった橋詰神社 は,昭和初期に県道67号線 ( 当時は国道12号線 の一部.1952年に名 岐 国道 といわれた国道22号線 となり,1971年に名岐バイパス に国道 を譲って県道 になりました。) が ほぼ現在の規模で建設されたときに,西半分が削られてしまいました。そして今回は,神社と同名だった橋詰町 から問 屋 町 への移転を余儀なくされたようです。
地図 E ↑ 2021-04
移転する前の橋詰神社 です。
Google Street View 2018年12月
⑦ 橋詰 神社の跡 から70mほど進むと,左手に道標★ /彫像 「 にしび夢ダイコン 」/ モニュメント 「 枇杷島市場 」が置 かれた一郭 があります。
道標 は高さ1.7mほどの四角柱で,東西南北の方位に続いて,道案内などが彫られています。その横に,しっかりした説明板 が並んでいます。
地図 F ↑ 2021-05
2021-05
見取絵図★ /
明治地図★ /
名古屋名所団扇絵★ を参考に,
枇杷 島 小 橋 北詰 付近の地図を作ってみました。薄茶色の部分が道,四角は建物です。
道標 は,鉛筆で示したところにあったのではないかと思います。橋を渡ってきた人がまず見るのは東側の
「 西は津島天王や
清須宿 への道」
に なります。
道標 の位置から,西の方に道があるのが見えたはずです。次に北側の
「 北 岩倉道」
を 見れば,
「 北にあるのは岩倉へ行く道なんだな」
と わかります。
美濃路 を西から来た人は西側の
「 東は東海道や名古屋へ行く道」
と いうのを見て,名古屋の方へ行くなら,すぐ東側にある橋に向かったでしょう。北側の
「 岩倉道」
に ついては,橋を渡ってきた人の場合と同じです。なお
道標 が設置されたのは
見取絵図 ができた後です。
橋のたもとには広場があって,
山車 が
繰 り出される
枇杷 島祭礼 ( 現在の公式名称は
「 尾張西 枇杷 島 まつり 」
) が 開かれる重要な場所になっていたと思われます。
美濃路 から
庄内川 の堤防まで,今ははちょっとした上り坂が続きますが,当時は堤防が低く,町と橋の高さがそれほど変わらなかったようです。
コンクリート製の枠に,説明文 と絵 を彫った青銅製のレリーフ をはめ込だモニュメント は,当地に日本三大市場の一つに数えられた枇杷 島市 場 があったことを伝えています。
2021-05
説明文 には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
この地は慶長年間( 一五九六〜一六一四)、 徳川家康の命を受けた市兵衛と九左衛門の二人によって、青物市問屋が開かれたといわれている。その後、問屋は小田井の市、又は枇杷島市場ともいわれ、江戸の千住や大阪の天満と並び、日本三大市場に数えられた。昭和三十年に移転するまでの約三百年間、尾張地域の流通経済の中心地として栄えた。
右の絵は江戸時代末期、野口道直や小田切春江らによって編さんされた、尾張名所図會所載 森高雅筆によるものである。生き生きとした市場の姿を、今に伝えている。
市場での取引は、荷主と買主の相対売買が原則であった。買主は素人すなわち直接消費者でもよく、これは、他の市場にみられない大きな特色の一つであった。
絵 は,説明文 にもあるように,尾張名所図会★ からとったものですが,その中に巨大な大根 をかついでいる上半身をはだけた勇ましい男性の姿があります。その姿をもとに制作した彫像 が「 にしび夢だいこん 」で す。愛知県 が平成2年度( 1990年度)か ら始めた「 愛知のふるさとづくり事業 」に ,当時の西 枇杷 島町 が「 町のPRと観光に一役買ってもらう」こ とを願って応募し,翌平成3年度( 1991年度)に 採用されました。「 にしび 」は 西枇杷島町 の愛称です。
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⑧ 岩倉 の方に向かう道はゆるい上り坂になって,庄内川 の堤防の上へと続きます。堤防を上りきったところに名鉄の踏切 があり,その手前に橋詰町 が所有する王 義 之 車 の山車 蔵 が建っています。
地図 F ↗ 2021-04
地図 G ↗ 2021-05
岩倉道 についてです。明治地図★ には岩倉街道 と添えてある道が,ここから現在の名鉄犬山線布 袋 駅 ( 江南 市 )付 近まで続いています。現在の地図と照らし合わせてみると,庄内川 から離れて上 小田井 の町に入ったあたりからは,街道の面影★ が残っているのではないかと思われます。
庄内川 の堤防上,背後に「 にしび夢だいこん 」の 彫像 などがあるところから,中央に名古屋駅前 の高層ビル群を入れて,対岸を撮影しました。右の鉛筆が指しているところに現在の美濃路★ があります。写真右端は現在の枇杷 島 橋 です。
地図 H ↘ 2021-05
現在の枇杷 島 橋 の全景です。この橋は昭和31年( 1956年)の 完成でやや古く,平成12年(2000年)9月 の東海豪雨 のときには庄内川 の水位が橋桁にまで達したこともあって,少し前に取り上げたように,架け替えの計画が進行中です。堤防を嵩 上げして橋を高くするだけでなく,川の流れをよくするために川幅を広げ,橋脚 の数を現在の8本から2本に減らすとのことです。
地図 I ↓ 2021-05
こうして枇杷島橋 を横から見ると,左岸に近い方と右岸に近い方で構造が異なっていることがわかります。枇杷島橋 の建設中はもちろん,完成したときにも,まだ中島 が残っていたことがその理由ではないかと思います。
⑨ 県道67号線 ( 名古屋祖父江線 )に 沿って,三角形の空地が広がっています。平成12年(2000年)9月 に襲った東海豪雨 以前は,普通に建物などがあったのですが,多くの建物が被害を受けたことと,治水工事をすることになったため,すべての建物などが撤去されたのです。実は先に取り上げた「 にしび夢だいこん 」の 彫像 も,今は空地になっているこのあたりに設置されました。彫像 といっしょにあった道標★ も,大正元年( 1912年)に 枇杷 島 橋 が現在の位置に架け替えられたとき, 西枇杷島小学校 に移され,その後ここに移されました。しかしここが治水工事の対象地域であったため,平成20年( 2008年), 彫像 と道標 は現在の位置に移されました。
地図 K ↖ 2021-05
⑩ この「 問 屋 町 」交 差点は交通量の多い五叉路 ですが,橋の上流側と下流側を結ぶ横断歩道には歩行者用の信号機がないので,渡るときは要注意です。
これから枇杷 島 橋 で庄内川 を渡ります。
地図 K ↘ 2021-05
枇杷 島 橋 の欄干★ には,2種類の銅版 画絵 が交互に,上流側と下流側それぞれ8枚ずつ飾ってあります。
地図 J → 2021-05
銅版画 のひとつは,尾張名所図会★ に掲載されている森高雅 が描いた「 枇杷嶋橋 」で す。当時の中島 の様子がよくわかります。森高雅 は,先に取り上げた「 にしび夢だいこん 」の 元になった絵の作者でもあります。
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もうひとつは名古屋名所団扇絵★ にある,これも森高雅 が描いた「 枇杷島祭礼 」で す。枇杷 島 小 橋 の北詰 あたりに数台の山車 が出て,大勢の人が祭を楽しんでいる様子が克明に描写されています。牛頭天王 ( 現在の橋詰 神社 )/ 泰亨車 /紅塵車 /西六軒町 などの字を読み取ることができます。
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⑪ 枇杷 島 橋 のほぼ中央,清須市 と名古屋市 の境界から,昔の枇杷 島 橋 があった上流を眺めたところです。
清須市 ( 旧西枇杷島町 )側 の堤防法面 の低い位置に,山車 などを描いた絵が並んでいます。増水すると濁流に洗われることと,隙間から生えてきた雑草のため,少し傷んでいますが,まだ観賞できます。
地図 L → 2021-05
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