清須市 7

美濃路探訪


最終更新:2022-03-05 スタート:2021-06-17


はじめに

美濃路←このような箇所をすると説明などが表示されます。★が付いている語句は「美濃路探訪」についての「ここだけ事典」に詳しい説明が書いてあります。


で出現したものは,で閉じます。


見本の画像をすると大きくなり,再びすると元に戻ります。


 東海道新幹線をくぐったところから庄内川までの美濃路を取り上げます。①〜⑪
 この間の美濃路は昔から家並が続き,大正元年(1912年)に枇杷島橋が現在の位置に移った後も,町を形成する核になっていました。しかし平成12年(2000年)に起こった東海豪雨の後,大規模な洪水対策事業が始まり,多くの建物が消えてしまいました。それでも煉瓦作りの橋台/枇杷島小橋のたもとにあった道標/彫像「にしび夢だいこん」/山車蔵など,見るものがたくさんあります。

地図:東海道新幹線から庄内川までの美濃路
地図:東海道新幹線から庄内川までの美濃路
※今はない美濃路も実線で描いてあります。





② 東海道新幹線の架道橋★をくぐって次の架道橋の下で立ち止まって見ると,煉瓦積の壁にはさまれた,ちょっと不思議な空間にいることに気が付きます。上を通っているのは一般に「稲沢線」とよばれている貨物線で,大正14年(1925年)に開通しました。この煉瓦造の橋台もその当時のものだと考えられます。
 次は東海道線ですが,耐震化工事などが施されたため,道路に面した煉瓦積は見えません。

 地図 A ↑ 2021-05

③ 最後に東海道線をくぐって東側に出たところです。
 明治19年(1886年)にこのあたりの東海道線が開通したとき,煉瓦造の橋で美濃路を渡っていました。ところが明治24年(1891年)の濃尾地震で崩れてしまったため,再建されました。見えている煉瓦積は,再建されたときのものだと思われます。
 東海道新幹線から3つ続く架道橋に取り付けてあるプレートを見ると,すべて「名古屋街道架道橋」と書いてあります。ということは美濃路が名古屋街道とよばれていた可能性があります。
 美濃路に関する案内板があって,問屋記念館/道標★/問屋・市場跡/トイレなどを示しています。ここでは「いこいの広場」が「憩いの広場」となっていますが,少し気になります。

 地図 B ↙ 2021-05

④ 線路沿いの道を北へ150mほど進んだところに,歩行者用の煉瓦造のアーチトンネルがあります。もしかしたら,このトンネルは東海道線が開通した時のものかもしれません。
 西側の半分は,大正14年(1925年)に名古屋−稲沢間に貨物線が増設されたときに造られました。トンネルをくぐって西側に出てみると,造りが違うことがわかります。
 ここにも美濃路の案内板がありますが,やはり「いこいの広場」が「憩いの広場」になっています。

 地図 C ← 2021-04



 美濃路に戻って熱田の方を見たところです。このあたりは平成12年(2000年)の東海豪雨で浸水し,その後いくつかの建物が取り壊されたとのことで,少し寂しい感じがします。

 地図 B → 2021-04



⑤ 問屋町が所有るす頼朝車の山車蔵と,橋詰神社が並んでいます。この2つとも昨年(2020年)ここに建てられたばかりです。
 組み上がった頼朝車を入れておく山車蔵は,これまでありませんでしたが,ここに新たに建てられました。
 橋詰神社は,見取絵図★では神明/天王と添えてある古い神社です。もともと県道67号線(名古屋祖父江線)を越えたところにありましたが,これから県道の拡幅と高架化がおこなわれるため,こちら側に移りました。

 地図 D ↗ 2021-05



⑥ 橋詰神社があった跡です。左を通っている県道67号線は,今後10年あまりをかけて,枇杷島橋から名鉄の跨線橋(写真後方に見えています)にかけて高架化し,現在の2車線を4車線にする計画が進んでいます。
 この位置にあった橋詰神社は,昭和初期に県道67号線(当時は国道12号線の一部.1952年に名岐国道といわれた国道22号線となり,1971年に名岐バイパスに国道を譲って県道になりました。)がほぼ現在の規模で建設されたときに,西半分が削られてしまいました。そして今回は,神社と同名だった橋詰町から問屋町への移転を余儀なくされたようです。

 地図 E ↑ 2021-04


 移転する前の橋詰神社です。

 Google Street View 2018年12月




⑦ 橋詰神社の跡から70mほど進むと,左手に道標★/彫像「にしび夢ダイコン」/モニュメント「枇杷島市場」が置かれた一郭があります。
 道標は高さ1.7mほどの四角柱で,東西南北の方位に続いて,道案内などが彫られています。その横に,しっかりした説明板が並んでいます。

 地図 F ↑ 2021-05

  2021-05


 見取絵図★/明治地図★/名古屋名所団扇絵★を参考に,枇杷島小橋北詰付近の地図を作ってみました。薄茶色の部分が道,四角は建物です。道標は,鉛筆で示したところにあったのではないかと思います。橋を渡ってきた人がまず見るのは東側の「西は津島天王や清須宿への道」になります。道標の位置から,西の方に道があるのが見えたはずです。次に北側の「北 岩倉道」を見れば,「北にあるのは岩倉へ行く道なんだな」とわかります。美濃路を西から来た人は西側の「東は東海道や名古屋へ行く道」というのを見て,名古屋の方へ行くなら,すぐ東側にある橋に向かったでしょう。北側の「岩倉道」については,橋を渡ってきた人の場合と同じです。なお道標が設置されたのは見取絵図ができた後です。
 橋のたもとには広場があって,山車が繰り出される枇杷島祭礼(現在の公式名称は「尾張西枇杷島まつり」)が開かれる重要な場所になっていたと思われます。美濃路から庄内川の堤防まで,今ははちょっとした上り坂が続きますが,当時は堤防が低く,町と橋の高さがそれほど変わらなかったようです。
美濃路の地図 枇杷島小橋北詰 江戸時代

 コンクリート製の枠に,説明文と絵を彫った青銅製のレリーフをはめ込だモニュメントは,当地に日本三大市場の一つに数えられた枇杷島市場があったことを伝えています。

 2021-05

 説明文には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
 この地は慶長年間(一五九六〜一六一四)、徳川家康の命を受けた市兵衛と九左衛門の二人によって、青物市問屋が開かれたといわれている。その後、問屋は小田井の市、又は枇杷島市場ともいわれ、江戸の千住や大阪の天満と並び、日本三大市場に数えられた。昭和三十年に移転するまでの約三百年間、尾張地域の流通経済の中心地として栄えた。
 右の絵は江戸時代末期、野口道直や小田切春江らによって編さんされた、尾張名所図會所載 森高雅筆によるものである。生き生きとした市場の姿を、今に伝えている。
 市場での取引は、荷主と買主の相対売買が原則であった。買主は素人すなわち直接消費者でもよく、これは、他の市場にみられない大きな特色の一つであった。

 絵は,説明文にもあるように,尾張名所図会★からとったものですが,その中に巨大な大根をかついでいる上半身をはだけた勇ましい男性の姿があります。その姿をもとに制作した彫像が「にしび夢だいこん」です。愛知県が平成2年度(1990年度)から始めた「愛知のふるさとづくり事業」に,当時の西枇杷島町が「町のPRと観光に一役買ってもらう」ことを願って応募し,翌平成3年度(1991年度)に採用されました。「にしび」は西枇杷島町の愛称です。

 2021-05



⑧ 岩倉の方に向かう道はゆるい上り坂になって,庄内川の堤防の上へと続きます。堤防を上りきったところに名鉄の踏切があり,その手前に橋詰町が所有する王義之車の山車蔵が建っています。

 地図 F ↗ 2021-04

 地図 G ↗ 2021-05


 岩倉道についてです。明治地図★には岩倉街道と添えてある道が,ここから現在の名鉄犬山線布袋駅(江南市)付近まで続いています。現在の地図と照らし合わせてみると,庄内川から離れて上小田井の町に入ったあたりからは,街道の面影★が残っているのではないかと思われます。



 庄内川の堤防上,背後に「にしび夢だいこん」の彫像などがあるところから,中央に名古屋駅前の高層ビル群を入れて,対岸を撮影しました。右の鉛筆が指しているところに現在の美濃路★があります。写真右端は現在の枇杷島橋です。

 地図 H ↘ 2021-05


 昔は眼前に中島という名の島が横たわっていました。見取絵図★を見ると,中島に2軒の茶屋が描かれ,中島をはさんで架かる2つの橋にはそれぞれ枇杷橋と添えてあります。その枇杷橋は,左の鉛筆が指しているあたりで対岸に達していました。
 昭和21年(1946年)撮影の航空写真(国土地理院)を見ると,庄内川にあった中島の様子がよくわかります。中島は,長さ500m最大幅50mほどの中州で,役場や神社などもある村が形成されていました。しかし中島の存在が川の流れを悪くしていることが問題となって,昭和17年(1942年)から用地買収が,そして昭和25年(1950年)から撤去が始まり,昭和33年(1958年)に姿を消しました。



 航空写真(Google 2021年)を見ていたら,庄内川の鉛筆Aで指した先に,旧枇杷島橋の橋脚の跡と思われるものがありました。そこで明治地図★を参考に美濃路を記入してみたら,みごとに橋脚の跡と思われるところを通りました。ちなみにB点は,「にしび夢だいこん」の彫像がある一郭です。




 現在の枇杷島橋の全景です。この橋は昭和31年(1956年)の完成でやや古く,平成12年(2000年)9月の東海豪雨のときには庄内川の水位が橋桁にまで達したこともあって,少し前に取り上げたように,架け替えの計画が進行中です。堤防を嵩上げして橋を高くするだけでなく,川の流れをよくするために川幅を広げ,橋脚の数を現在の8本から2本に減らすとのことです。

 地図 I ↓ 2021-05


 こうして枇杷島橋を横から見ると,左岸に近い方と右岸に近い方で構造が異なっていることがわかります。枇杷島橋の建設中はもちろん,完成したときにも,まだ中島が残っていたことがその理由ではないかと思います。



⑨ 県道67号線(名古屋祖父江線)に沿って,三角形の空地が広がっています。平成12年(2000年)9月に襲った東海豪雨以前は,普通に建物などがあったのですが,多くの建物が被害を受けたことと,治水工事をすることになったため,すべての建物などが撤去されたのです。実は先に取り上げた「にしび夢だいこん」の彫像も,今は空地になっているこのあたりに設置されました。彫像といっしょにあった道標★も,大正元年(1912年)に枇杷島橋が現在の位置に架け替えられたとき,西枇杷島小学校に移され,その後ここに移されました。しかしここが治水工事の対象地域であったため,平成20年(2008年),彫像と道標は現在の位置に移されました。

 地図 K ↖ 2021-05



⑩ この「問屋町」交差点は交通量の多い五叉路ですが,橋の上流側と下流側を結ぶ横断歩道には歩行者用の信号機がないので,渡るときは要注意です。
 これから枇杷島橋で庄内川を渡ります。

 地図 K ↘ 2021-05



 枇杷島橋の欄干★には,2種類の銅版画絵が交互に,上流側と下流側それぞれ8枚ずつ飾ってあります。

 地図 J → 2021-05

 銅版画のひとつは,尾張名所図会★に掲載されている森高雅が描いた「枇杷嶋橋」です。当時の中島の様子がよくわかります。森高雅は,先に取り上げた「にしび夢だいこん」の元になった絵の作者でもあります。

 2021-05

 もうひとつは名古屋名所団扇絵★にある,これも森高雅が描いた「枇杷島祭礼」です。枇杷島小橋の北詰あたりに数台の山車が出て,大勢の人が祭を楽しんでいる様子が克明に描写されています。牛頭天王(現在の橋詰神社)/泰亨車/紅塵車/西六軒町などの字を読み取ることができます。

 2021-05

⑪ 枇杷島橋のほぼ中央,清須市と名古屋市の境界から,昔の枇杷島橋があった上流を眺めたところです。
 清須市(旧西枇杷島町)側の堤防法面の低い位置に,山車などを描いた絵が並んでいます。増水すると濁流に洗われることと,隙間から生えてきた雑草のため,少し傷んでいますが,まだ観賞できます。

 地図 L → 2021-05

 2021-05