旧尾西市(一宮市) 1

美濃路探訪

最終更新:2023-10-19
スタート:2021-11-30


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 木曽川を渡って愛知県に入ったところから県道18号線(大垣一宮線)をくぐるところまで美濃路を歩きます。この間には定渡船場跡古民家湊屋などがあります。
 この間は昔から家並が続いていたためか,都市化の影響をあまり受けていません。ところどころに街道の面影が残っています。

地図:起の渡船場跡からアンダーパスまでの美濃路
地図:起の渡船場跡からアンダーパスまでの美濃路 (はトイレ)



垂井に向かって戻る


ここは木曽川を渡って愛知県側に着いたところです。
 堤防には,水位が非常に高くなったときに扉を閉める陸閘があって,開いた口から美濃路が見えます。陸閘は長さ5m,幅3m,高さ2.5mほどで,その上を堤防道路が通っています。


地図上のA点から↘ 2021-11

地図
 陸閘の上から木曽川の方を見た眺めです。かつてこのあたりに,定渡船場といわれていた,木曽川を渡るための船着き場がありました。


地図上のB点から↖ 2021-09
地図
 振り返って,美濃路の方を見たところです。道の左側は金刀比羅社で,境内に巨大な常夜燈が建っています。


地図上のB点から↘ 2021-09
地図
金刀比羅社です。美濃路に面した境内に,渡船場石碑説明板などがあります。見取絵図には金刀比羅社はなくて,そのあたりに川高札があります。


 2021-09


 2021-11
 神社に向かって左側です。起渡船場跡と彫った石碑を中央に,左側に石板,右側に標柱があります。


 2021-11
石板の文字
  説  明
 このあたりは むかし東海道美
濃路廻りにあたり 徳川時代には
木曽川の重要な渡船場で 上 中
下の三ヵ所があつた
 上は定渡船場で 起字堤町から
対岸の羽島市新井に達し 中は大
明神社前なので宮河戸の名があり
下は将軍家または朝鮮信使が通行
のとき船橋をかけたので 船橋河
戸と呼ばれたものの遺跡である

  注  意
一、指定地を破壊しないこと
一、樹木の栽植ならびに伐採をしないこと
一、その他みだりに現状を変更しないこと
愛知県
 昭和四十二二十八日 尾西市
起渡船場跡保存会

標柱の文字
愛知県指定史跡
起渡船場跡
正面
昭和四十二年八月二十八日指定
右側
            愛知県
昭和四十二年十二月建之 尾西市
            起渡船場跡保存会
裏面


 神社に向かって右側です。見上げるばかりに大きい常夜灯があり,美濃路に面したところに比較的新しい説明板が設置されています。説明板には,現役だったときの渡船場の写真が載っています。常夜灯の正面には大きく常夜燈,台座の裏面には明治三十三年十一月再建と彫ってあります。側面や裏面には寄贈者と思われる名前がたくさんありますが,省略します。


 2021-09
説明板の内容
愛知県指定文化財
史跡起渡船場跡〜定渡船場跡〜
一宮市起字堤町
昭和42年8月29日指定
 美濃路の渡船場には、上流から上・中・下の3ヶ所の渡し場があり、定渡船場宮河戸船橋河戸と呼ばれていた。常時多くの人々に使用されていたのは定渡船場である。
 江戸時代初期から、渡船場には定渡船2隻・置船1隻・御召渡船1隻の合計4隻が尾張藩御船手役所から預けられ、他に鵜飼船や馬船も置かれ、人々の往来を支えた。旅人だけでなく、西国の大名の参勤交代や京都の公家の往来にも使用された。渡船場の実質的な管理は起宿の船庄屋が行い、船頭20人がいた。
 昭和31年(1956)に現在の美濃大橋が完成するまで、この渡船場は岐阜県と愛知県を結ぶ重要な交通手段であった。
一宮市教育委員会
美濃路・説明板の写真 現役当時の渡船場
実物は縦書き



金刀比羅社の境内を進んで階段を上ったところに人柱観音があります。美濃路から50mほどです。


地図上のH点から↗ 2021-09
地図

 人柱観音縁起という石板には,木曽川築堤工事に携わっていた与三兵衛が,慶長16年(1612年)夏の出水時に濁流に身を投じて人柱となって流れを静め,そのおかげで堤防が完成した。という言い伝えなどが彫ってあります。人柱観音は,見取絵図にはありません。




 金刀比羅社前の美濃路に戻って,ゆるい上り坂を進むと,すぐ先に点滅式信号機を備えた交差点があります。美濃路はそこで右に折れます。
 左に見える古民家は,このあとで訪れる湊屋です。湊屋の前の道はその先が見えませんが,標高12mほどの交差点から6mも急降下しているためです。湊屋のすぐ後方に見える家屋は三階建,さらに後方の家屋は二階建です。


地図上のC点から↘ 2021-09
地図
 振り返って垂井の方を見た光景です。道路は陸閘の手前で左に折れて堤防の上に向かいます。堤防から下ってきた自動車が突然現れることがあるので,ぼぉーとしていると危ないです。
 陸閘には,起第一陸閘 昭和二十九年三月竣功と書いてある青銅製の扁額が取り付けてあります。


地図上のC点から↖ 2021-11
地図


交差点の北東角に建っている古民家は,国登録有形文化財建造物に登録されている湊屋文右衛門主屋です。その古民家は市民団体湊屋倶楽部が管理する湊屋という茶店となっていて,入口の横に文化財のプレート説明板があります。9月に訪れたときは建物西側がブルーシートで被われていましたが,11月に訪れたときには美しい簓子下見の壁が再現されていました。


 2021-11


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文化財のプレートの内容

登録有形文化財
第23−0327〜0328号
この建造物は貴重な国民的財産です。
文化庁

説明板の内容
 国登録有形文化財建造物
 旧湊屋店舗兼主屋・土蔵
 湊屋は代々文右衛門を襲名し、起渡船場を管理する船庄屋林家の下で、船方肝煎役を務め、船の手配等、渡船場の実務を担っていた。また、文右衛門は越前丸岡の商人から綛糸販売を委託され、丸岡の 綛糸をこの地域の織屋に売り、生産された縞木綿を買い取り、伊勢の商人等に販売する仲買商人であった。
 店舗兼主屋は二階建で、一階に出格子を付け、二階正面を低くし、軒を深く構えている。起宿に残された屋敷の間取図によれば間口14間(約25メートル)、奥行28間(約50メートル)と記されており、当時の起宿の町の中ではかなり広い規模の屋敷であったことがわかる。屋敷の建築年は明らかではないが、江戸時代末期の屋敷構成を踏襲して、明治時代前期に建てられたとされている。
 北側に建つ土蔵は西倉、中倉、東倉からなり、道筋から二階建の西倉、東倉がならび、両者の連結部に屋根を架け、平屋建の中倉としている。西倉は幕末期の土蔵を昭和20〜30年代に移築したものであり、その時に中倉を設けたとされる。東倉は使用された部材等から昭和前期の建造と推定されている。
 明治24年(1891)に岐阜県旧根尾村(現本巣市)附近を震源とする濃尾地震の発生により、この地域の建物の多くは倒壊したものの、店舗兼主屋は濃尾地震に耐えた数少ない建物である。宿場町の名残を今に伝える貴重な建築物であり、平成22年に国登録有形文化財建造物に登録された。
 一宮市教育委員会
実物は縦書き

 入って左側の屋内は,このような感じです。


 2021-11


 湊屋の前から交差点の方を見たところです。交差点の北西角に公衆トイレと観光用の無料駐車場があります。


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 交差点から,熱田の方へ向かう美濃路を見た様子です。この先の美濃路木曽川に沿った河岸段丘の上にあって,坂道にはなっていません。


地図上のD点から↙ 2021-09
地図
 交差点から少し進んで振り返って見たところです。垂井に向かう美濃路は,交差点で左に折れます。


地図上のE点から↗ 2021-09
地図


 外側が簓子下見で被われた大きい古民家があります。


地図上のF点から↓ 2021-09
地図
 大きいの向かい側にも古民家があります。


地図上のF点から↙ 2021-11
地図


現在の美濃路は,アンダーパスで県道18号線(大垣一宮線)の下をくぐります。県道が少し高架になっているために美濃路が下る量は1.2mと少なめですが,車道の幅は3.5mと狭く,交互通行を余儀なくされます。道の両側にある歩道は下ってはいませんが,幅はわずか85cmしかありません。


地図上のG点から↙ 2021-09
地図


熱田に向かって進む