日光川に架かる萩原橋から,名鉄尾西線の踏切までの美濃路を取り上げます。①〜⑱
この間に萩原宿が置かれ,宿場町★が形成されていました。本陣★や問屋場★など,宿場★の施設は残っていませんが,いくつかの跡地に標柱★が設置されています。道路が拡幅されなかったこともあって,ところどころに街道の面影★を残しています。ただし松並木だった最後の100mほどは,すっかり変わってしまったようです。
① 萩原橋を渡ると,美濃路は萩原宿があった集落に入ります。道幅は狭く,沿道のところどころにやや古い家屋が建っています。
地図 A → 2021-08
② 左手に稲荷神社,その奥に宝光寺(寳光寺)があります。
見取絵図★には,それぞれ稲荷/寳光寺と添えてあります。
地図 B → 2021-08
③ 稲荷神社の隣に,古風な門があります。美濃路はすぐ先に見えている十字路で右に折れます。
地図 C → 2021-08
④ 美濃路からは外れますが,十字路③を左に折れて500mほど北に進むと天神社に行き当たります。鳥居の近くにいくつかの碑が建っていますが,最も目立つのが「史跡天神の渡し跡」の石碑★です。
地図 D 2021-08
石碑には次のような文字が彫られています。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
史跡
天神の渡し跡
今の日光川が木曽川の本流であった頃、安土桃山時代から江戸時代へと移る頃の美濃路の渡し跡。当天神社と対岸にある尾西市・天神神社との間にあったとされる。この渡しの辺りは萩原川とも云った。天正十四年(1586)の大洪水以降、主要道路が現在のように起の方に移り、萩原川は川幅も狭まって板橋となり、渡しも起側に移った。この間の経緯は、起宿本陣加藤家文書中の天正十九年と推定される豊臣秀吉四奉行からの「萩原船頭給継目証文」等によって知られよう。江戸時代終わり頃の「名区小景」には、萩原川に架かる板橋が見える。
織田信長が初めて斉藤道三と冨田・聖徳寺で会見した帰り、道三がこの渡しまで見送ったとも伝えられる。江戸時代には、東海道と中山道とを結ぶ脇街道として美濃路は繁栄し、萩原宿や起宿も賑わいを見せた。徳川家康が関ヶ原の戦いから凱旋して通ったので、御吉例街道とも云われる。
題字 一宮市長 谷一夫書
平成十五年(2003)10月建之
一宮市教育委員会
宮町納税組合
美濃路に戻って,十字路③から熱田の方を見たところです。ところどころにやや古い家屋があったりする雰囲気は,ここまでとあまり変わりません。
地図 E ↓ 2021-08
垂井に向かう美濃路はここで左に折れます。
地図 F ↑ 2021-08
⑤ 美濃路に面した駐車場の後方に,古民家★と鋸屋根が見えます。古民家は,茅葺をトタンで被った屋根であること,破風に「水」の文字が描かれていること,突っ支い棒で支えてあることから,築百年は経つと思われます。
地図 A ↙ 2021-08
⑥ 萩原宿の本陣跡を示す標柱★が,道の脇にひっそりと建っています。
地図 B 2021-08
標柱の正面と裏面には次のような文字が彫られています。
⑦ 美濃路に萩原商店街のゲートが架かっています。
ゲートの先の左側はかつて問屋場★があったところで,「萩原宿問屋場跡」の標柱★が建っています。萩原宿には2つの問屋場があって,ここは「上の問屋場」とよばれていました。
見取絵図★では,問屋場のほぼ向かい側に脇本陣★があります。
地図 C ↓ 2021-08
地図 D 2021-08
標柱の正面,向かって右,裏面には次のような文字が彫られています。向かって左側に発起人などの氏名がたくさん書いてありますが,省略します。
美濃路は 東海道の宮宿と中山道の垂井宿を結ぶ幕府道中奉行支配下の 近世
道路交通史上重要な道路であった 萩原宿は 名古屋 清須 稲葉 萩原 起
墨俣 大垣の七宿の真中に位置する 問屋は 人馬の継ぎ立て一切を司る宿役人
の長で 家の一部分を業務の扱い場(問屋場)とした 当宿場には 上と下の二
名の問屋が原則として 交替でつとめた ここは上の問屋場跡である
⑧ 右手に見える細い道は,見取絵図★に鵜多須村尾張殿地方役所 同所陣屋江出ル道法二里/吉村本郷江出ル道法三丁と添えてある昔から★ある道です。
尾張藩の地方役所が置かれていた鵜多須村は,現在の愛西市鵜多須町です。
地図 E ↙ 2021-08
鵜多須へ向かっていた道です。道幅は2.5mほどしかありません。この道を進んだ先の萩原西出公園にトイレがあります。
地図 F ← 2021-08
鵜多須に向かっていた道の南側に,美しい古民家★が建っています。虫籠窓★や簓子下見★の壁などが見られます。
地図 G ↖ 2021-08
⑨ 美濃路はここで左に折れます。
見取絵図★には,正面に見える正瑞寺の山門★のすぐ右側(西側)に高札場★が描かれています。
右に折れる方の道は,高度成長期★に作られた県道513号線(一宮西中野線)です。
地図 G ↙ 2021-08
美濃路が左に折れた先も,萩原商店街が続いています。
地図 H → 2021-08
⑩ 「下の問屋場」とよばれていた問屋場★があった跡に,大正8年(1919年)に建てた旧村瀬銀行萩原支店の建物が残っています。
村瀬銀行は名古屋で明治31年(1898年)に創業し,昭和初期に営業を終えました。その後萩原支店の建物は空家になり,戦後になって貸店舗を経て,地主(問屋場を努めていた木全家の御子孫)が「木全乳母車店」を経営していましたが,2010年ごろに店を閉めました。建物は保護を目的に壁面の大部分がトタン板で被われ,昔の姿を留めるために白と黒で塗り分けてあります。内部は非公開ですが,支店当時の様子がよく保存されているとのことです。
地図 I ↖ 2021-08
⑪ 最近改修したと思われる美しい古民家★です。
地図 A ↗ 2021-08
⑫ 右手に旧萩原郵便局が見えるあたりの美濃路です。
地図 B → 2021-08
旧萩原郵便局の建物は大正15年(1926年)に造られた木造洋風建築物です。歴史的な建物として残すために改修や化粧直しがおこなわれ,向かって左側の壁面は,先に取り上げた旧村瀬銀行の建物と同様,トタン板で被ってあります。入口にエアコンの室外機が置かれていますが,除湿するためだと思われます。
2021-08
旧萩原郵便局の先に,古民家★があります。
2021-08
⑬ 商店街の家並がちょっと途切れたところに地蔵堂があります。
見取絵図★に描かれている地蔵堂は,道の反対側にあります。
地図 C 2021-08
⑭ 美濃路は巡見街道とほぼ直角に交叉します。
巡見街道は,徳川幕府の視察団であった巡見使が通るために整備された道です。見取絵図★には巡見道と書いてあり,北へ向かう道には尾州一ノ宮江道法一里半/犬山城下江道法五里,南へ向かう道には津嶋江道法三里十四丁/佐屋宿江道法四里と添えてあります。昭和38年(1963年)に大部分が国道155号線に指定されましたが,昭和48年(1973年)に,尾張西部地域の国道155号線は新設された道に移り,旧国道155号線は県道458号線(一宮弥富線)になりました。
美濃路はここまで県道136号線(一宮清須線)でしたが,交差点をすぎると普通の道★になります。
地図 D → 2021-09
⑮ 美濃路に面したところに,唐箕とよばれていた昔の農機具が置いてある古い家があります。
唐箕は,ハンドルを手で回して風を起こし,米粒と籾殻などを分けるために用いられました。
地図 E ↑ 2021-08
⑯ 古そうな門があります。
ここは古民家★を改装した,落ち着いた雰囲気の中でくつろぐことができる「団欒の家はぎわら」というデイサービス介護施設の入口です。
地図 F ↑ 2021-08
⑰ 美濃路に萩原商店街のゲートが架かっていて,右側には白壁がきれいな蔵が建っています。
注意して見ると,このあたりから道幅が少し広くなって,ゲートの先からは歩道がついています。そしてもうひとつ,郵便ポストの近くに萩原防火団が設置した,かわいらしい火の見櫓があります。踏切を赤い名鉄電車が通過しています。
見取絵図★では,このあたりまで萩原宿の集落が続き,その後は松並木です。明治地図★でも,家並が終わって,その先は松並木です。
地図 G → 2021-08
地図 H 2021-09