名鉄尾西線の踏切から,光堂川に架かる高木橋までの美濃路を取り上げます。①〜⑯
この間の美濃路は,松並木が続く途中の2箇所で集落を通っていました。松並木だったところは変わってしまいましたが,集落の中は道が拡幅されなかったため,街道の面影★を残しているところがあります。1つめの集落の中に徳川14代将軍家茂の休息所跡,2つめの集落の手前に一里塚跡があります。
① 名鉄尾西線の踏切を渡って振り返ったところです。
右手に再び小さい火の見櫓があります。
地図 A ← 2021-09
小さい火の見櫓と祠が並んでいます。
2021-09
② 「串作」交差点で国道155号線と交叉します。国道に歩道橋が架けてあります。
地図 B → 2021-09
「串作」交差点から,美濃路は県道513号線(一宮西中野線)になります。
地図 C → 2021-08
③ 見取絵図★や明治地図★では,このあたりで松並木が終わって,串作の集落が始まっています。現在の美濃路★はこのようなところから道幅が狭くなることが多いですが,ここでは変化が見られません。
美濃路はこの先の十字路で県道と分かれ,右(南)に折れて普通の道★になります。
地図 D → 2021-08
④ 美濃路が右に折れた先です。ここから道幅が狭くなっています。
明治地図★では,十字路ではなくT字路でした。ここから東に向かう道(現在は県道513号線)は,昭和初期に作られたようです。
地図 E ↓ 2021-08
⑤ 美濃路はこの先の十字路で左(東)に折れます。
地図 F ↓ 2021-08
美濃路が左に折れた先です。右側の木造民家の東側に,次に取り上げる「佐藤家跡」があります。
地図 G → 2021-08
⑥ 美濃路に面して,コンクリートブロックの塀で囲まれた「佐藤家跡」の一郭があります。
ここで徳川14代将軍家茂が休息をとったといわれています。
地図 H 2021-08
中へ入るところに説明板があります。風で倒れないようにということでしょうか,かなり低い位置です。
2021-08
説明板から,佐藤家が串作村の庄屋であったことがわかりますが,問屋場というのが気になります。この位置にいわゆる問屋場★があったはずはないことと英訳の「wholesale store」から,佐藤家は商品の売買に関する問屋を営んでいたと考えられます。
説明板の「問屋場」は,「問屋」の間違いだと思います。
説明板にも書いてある憐松軒枝風墳と彫られた碑が,一郭の中央に建っています。碑の反対側には佐藤利平と彫ってあります。
2021-08
「憐松軒枝風墳」を何と読んだらよいか,少し調べてみましたがわかりません。そこで勝手に「れんしょうけんしふうのはか」と読んでみました。憐松軒枝風は佐藤利平の雅号,そして碑の形が記念碑などとは違って墓石に近いことから,墓碑であると考えました。
⑦ 美濃路は突き当たって右に折れます。
地図 I → 2021-08
美濃路が右に折れた先です。左手に古風な塀,右手に鋸屋根があります。
地図 J ↓ 2021-08
垂井に向かう美濃路は,この先のT字路で左に折れます。
地図 J ↑ 2021-09
⑧ この先から道幅が少し広くなります。
明治地図★では,串作村の集落がこのあたりで終わって,松並木が始まります。
地図 K ↓ 2021-08
⑨ この先の交差点で右手(西)から来た県道136号線(一宮清須線)が合流し,美濃路は県道136号線となって,両側に歩道が付きます。
地図 L ↓ 2021-08
⑩ 旧串作村から旧高木村に入ってすぐの美濃路沿いに,高木神社(髙木神社)があります。
大正3年(1914年)に高木村にあった神社をここに合祀★して,八剱宮を高木神社と改名したとのことです。
見取絵図★には八劍宮と添えてあります。
地図 A ← 2021-08
⑪ 建物と建物の間に,珊瑚樹の生垣で囲まれた「一里塚★の跡」の一郭があって,石碑★と説明板が設置されています。
地図 B → 2021-08
2021-08
石碑の正面と裏面には次のような文字が彫られています。
一里塚址
慶長九年二月 徳川家康の命によつて江戸日本
橋を起点として七道に一里塚を築いた 塚には街
道の並木松とまじらないように「外の木」を植え
よといつたのを聞き誤つて「榎」を植えたともい
う美濃路は東海 中仙兩道を結ぶ脇街道である
この高木一里塚もその頃できたものであろう 明
治初年までは道路の兩側に小山があつてそこには
榎も残つていたがいつの間にかすかれて円形の田
となつていた 今日これを保存し 永く後学の資
とすることにした
昭和三十七年春
一宮市長伊藤一
説明板には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
高木一里塚址
一宮市萩原町高木中道・蟹子
高木一里塚は、江戸時代に東海道と中山道を結ぶ美濃路に設けられた十三ヶ所の一里塚の内の一つです。
慶長九年(一六〇四)に、江戸幕府は、江戸日本橋を起点とし、一里(約四キロメートル)ごとに一里塚の設置を命じました。その後、一里塚は、全国に普及し旅人たちの旅や運賃の目安となるとともに、榎や松などの大木が植えられ、その木陰では旅人が休息をとることもできました。
高木一里塚にも、明治初年頃まで街道の両側に塚が設けられ、その上に榎が植えられていたと伝わっています。一宮市内には、高木一里塚の他、岐阜街道の一宮一里塚、美濃路の冨田一里塚が設けられました。
明治時代になると各地の一里塚は徐々に姿を消し、高木一里塚も昭和三十七年(一九六二)に建立された記念碑を残すのみとなっています。
一宮市教育委員会
一里塚跡の説明板が立っているところから,道の反対側にあった一里塚の跡を見たところです。なんとなく一里塚の面影が感じられます。
2021-09
⑫ この先から道幅が狭くなって,歩道もなくなります。
見取絵図★でも明治地図★でも,道が狭くなったあたりから家並が続いています。
地図 C ↘ 2021-08
美濃路沿いに立派な石碑★が建っています。故陸軍歩兵伍長とあるので,忠魂碑のようです。
地図 D ↗ 2021-11
⑬ 美濃路がゆるくカーブし始めるところに,古風な塀と門があります。そして道の反対側には石柱が建っています。
地図 E ↓ 2021-09
石柱は道の分岐点に建っているので道標★ではないかと思いましたが,髭文字で大きく南無妙法蓮華経と彫られていることから,日蓮宗のお経を刻んだ題目碑とよばれている石塔のようです。
地図 F ↗ 2021-09
⑭ 右手に少しいかめしい構えの門があります。そして左側には鋸屋根の建物があります。
地図 G ↙ 2021-08
見取絵図★には,鋸屋根とその手前の建物があるあたりに立場★が描かれています。
地図 H ↗ 2021-08
⑮ 道の角に地蔵堂が2つ並んでいて,その前に近代的なミニ火の見櫓が建っています。
地図 I ↖ 2020-12
⑯ 美濃路は左に大きくカーブした後,光堂川に架かる高木橋を渡ります。
地図 J ↘ 2021-08
高木橋は四隅に親柱★がありますが,欄干★はガードレールです。見取絵図★には光堂川土橋と添えてあります。
川の両側に河川名標識が設置されていますが,光堂川の読みがKodo Riv.,すなわち「こうどうがわ」となっています。
2021-09
光堂川は,地元では
「ひかるどがわ」
または
「ひかりどうがわ」
とよんでいます。
高木橋から上流に3つ目の橋は
光堂橋ですが,
親柱には
「ひかりどうはし」
と彫ってあります。下流の
旧光堂村清水にある
光堂橋(下の地図参照)
の袂には,
「ひかりどうかわ」
と彫った石板がはめ込まれています。上流の
光堂橋のすぐそばに
一宮市立中島小学校があって,校歌の
「尾張の黎明の光堂」
という箇所は,
「おわりのあけのひかりどう」
と歌っています。昭和52年
(1977年)
発行の
美濃路見取絵図の解説編には
「光堂川」
とルビが振ってあります。そして下に示した
明治地図★では
光堂村に
「ヒカルド」
を添えています。ちなみに私が住んでいるところも
旧光堂村です。
光堂の名の由来ですが,
奈良時代この地方に存在した寺院に金箔を貼った堂,すなわち
「光る堂」
があったとの言い伝えによるものです。当時は近くに
国分寺もあって,このあたりはかなり栄えていたようです。
河川名標識だけでなく,
国土交通省の
河川台帳にも
「光堂川(こうどうがわ)
」と書いてあります。なぜ読みを変えてしまったのか疑問です。
高木橋から左側,光堂川の上流を見たところです。
地図 K ↗ 2021-08