一宮市萩原町 2

美濃路探訪


最終更新:2022-03-05 スタート:2021-09-18


はじめに

美濃路このような箇所をすると説明などが表示されます。が付いている語句は美濃路探訪」ついてここだけ事典」詳しい説明が書いてあります。


で出現したものは,で閉じます。


見本の画像をすると大きくなり,再びすると元に戻ります。


 名鉄西線踏切から,光堂に架かる高木橋までの美濃路を取り上げます。①〜⑯
 この間の美濃路は,松並木が続く途中の2箇所で集落を通っていました。松並木だったところは変わってしまいましたが,集落の中は道が拡幅されなかったため,街道の面影を残しているところがあります。1つめの集落の中に徳川14代将軍家茂の休息所跡,2つめの集落の手前に一里塚跡があります。

地図:名鉄尾西線の踏切から高木橋までの美濃路
地図:名鉄尾西線の踏切から高木橋までの美濃路





名鉄西線踏切を渡って振り返ったところです。
 右手に再び小さい火の見があります。

 地図 A ← 2021-09

 小さい火の見櫓が並んでいます。

 2021-09



串作差点で国道155号線と交叉します。国道歩道橋が架けてあります。

 地図 B → 2021-09

 串作差点から,美濃路県道513号線一宮西中野線なります。

 地図 C → 2021-08



見取絵図明治地図では,このあたりで松並木が終わって,串作の集落が始まっています。現在の美濃路はこのようなところから道幅が狭くなることが多いですが,ここでは変化が見られません。
 美濃路はこの先の十字路で県道と分かれ,右南)折れて普通の道になります。

 地図 D → 2021-08

美濃路が右に折れた先です。ここから道幅が狭くなっています。
 明治地図では,十字路ではなくT字路でした。ここから東に向かう道現在は県道513号線昭和初期に作られたようです。

 地図 E ↓ 2021-08



美濃路はこの先の十字路で左東)折れます。

 地図 F ↓ 2021-08

 美濃路が左に折れた先です。右側の木造民家の東側に,次に取り上げる佐藤家跡あります。

 地図 G → 2021-08



美濃路に面して,コンクリートブロックの塀で囲まれた佐藤家跡一郭があります。
 ここで徳川14代将軍家茂が休息をとったといわれています。

 地図 H 2021-08

 中へ入るところに説明板があります。風で倒れないようにということでしょうか,かなり低い位置です。

 2021-08


 説明板から,佐藤家串作村の庄屋であったことがわかりますが,問屋場というのが気になります。この位置にいわゆる問屋場があったはずはないことと英訳のwholesale store」ら,佐藤家は商品の売買に関するを営んでいたと考えられます。
 説明板問屋場問屋間違いだと思います。

 説明板にも書いてある憐松軒枝風墳と彫られたが,一郭の中央に建っています。の反対側には佐藤利平と彫ってあります。

 2021-08


 憐松軒枝風墳何と読んだらよいか,少し調べてみましたがわかりません。そこで勝手にれんしょうけんしふうのはか」読んでみました。憐松軒枝風佐藤利平,そしての形が記念碑などとは違って墓石に近いことから,墓碑であると考えました。



美濃路は突き当たって右に折れます。

 地図 I → 2021-08



 美濃路が右に折れた先です。左手に古風な塀,右手に屋根があります。

 地図 J ↓ 2021-08

 垂井に向かう美濃路は,この先のT字路で左に折れます。

 地図 J ↑ 2021-09



この先から道幅が少し広くなります。
 明治地図では,串作集落がこのあたりで終わって,松並木が始まります。

 地図 K ↓ 2021-08



この先の交差点で右手西)ら来た県道136号線一宮清須線が合流し,美濃路県道136号線となって,両側に歩道が付きます。

 地図 L ↓ 2021-08



串作からに入ってすぐの美濃路沿いに,高木神社髙木神社あります。
 大正3年1914年)高木村にあった神社をここに合祀して,八剱宮高木神社と改名したとのことです。
 見取絵図には八劍宮と添えてあります。

 地図 A ← 2021-08



建物と建物の間に,珊瑚樹生垣で囲まれた一里塚の跡一郭があって,石碑説明板が設置されています。

 地図 B → 2021-08

 2021-08

 石碑の正面と裏面には次のような文字が彫られています。

一里塚址
 慶長九年二月 徳川家康の命によつて江戸日本 
橋を起点として七道に一里塚を築いた 塚には街
道の並木松とまじらないように「外の木」を植え
よといつたのを聞き誤つて「榎」を植えたともい
う美濃路は東海 中仙兩道を結ぶ脇街道である
この高木一里塚もその頃できたものであろう 明
治初年までは道路の兩側に小山があつてそこには
榎も残つていたがいつの間にかすかれて円形の田
となつていた 今日これを保存し 永く後学の資
とすることにした
   昭和三十七年春
           一宮市長伊藤一
 
 
  一宮本町通
   一八代河内孫右刻
 

 説明板には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
高木一里塚址
 一宮市萩原町高木中道・蟹子

 高木一里塚は、江戸時代に東海道と中山道を結ぶ美濃路に設けられた十三ヶ所の一里塚の内の一つです。
 慶長九年一六〇四)、江戸幕府は、江戸日本橋を起点とし、一里(約四キロメートル)ごとに一里塚の設置を命じました。その後、一里塚は、全国に普及し旅人たちの旅や運賃の目安となるとともに、榎や松などの大木が植えられ、その木陰では旅人が休息をとることもできました。
 高木一里塚にも、明治初年頃まで街道の両側に塚が設けられ、その上に榎が植えられていたと伝わっています。一宮市内には、高木一里塚の他、岐阜街道の一宮一里塚、美濃路の冨田一里塚が設けられました。
 明治時代になると各地の一里塚は徐々に姿を消し、高木一里塚も昭和三十七年一九六二)建立された記念碑を残すのみとなっています。
 一宮市教育委員会

 説明板には,高木付近で写した松並木があったころの美濃路写真が添えてあります。



 一里塚跡説明板が立っているところから,道の反対側にあった一里塚の跡を見たところです。なんとなく一里塚の面影が感じられます。

 2021-09



この先から道幅が狭くなって,歩道もなくなります。
 見取絵図でも明治地図でも,道が狭くなったあたりから家並が続いています。

 地図 C ↘ 2021-08



 美濃路沿いに立派な石碑が建っています。故陸軍歩兵伍長とあるので,忠魂碑のようです。

 地図 D ↗ 2021-11



美濃路がゆるくカーブし始めるところに,古風な塀と門があります。そして道の反対側には石柱が建っています。

 地図 E ↓ 2021-09

 石柱は道の分岐点に建っているので道標ではないかと思いましたが,文字で大きく南無妙法蓮華経と彫られていることから,日蓮宗のお経を刻んだ題目とよばれている石塔のようです。

 地図 F ↗ 2021-09



右手に少しいかめしい構えの門があります。そして左側には屋根の建物があります。

 地図 G ↙ 2021-08

 見取絵図には,鋸屋根とその手前の建物があるあたりに立場が描かれています。

 地図 H ↗ 2021-08



道の地蔵堂が2つ並んでいて,その前に近代的なミニ火の見が建っています。

 地図 I ↖ 2020-12



美濃路は左に大きくカーブした後,光堂に架かる高木橋を渡ります。

 地図 J ↘ 2021-08

 高木橋は四隅に親柱がありますが,欄干はガードレールです。見取絵図には光堂川土橋と添えてあります。
 川の両側に河川名標識が設置されていますが,光堂川の読みがKodo Riv.,すなわちこうどうがわ」なっています。

 2021-09


 光堂川は,地元ではひかるどがわ」たはひかりどうがわ」よんでいます。高木橋から上流に3つ目の橋は光堂橋ですが,親柱にはひかりどうはし」彫ってあります。下流のにある光堂橋下の地図参照)には,ひかりどうかわ」彫った石板がはめ込まれています。上流の光堂橋のすぐそばに一宮市立中島小学校があって,校歌の尾張の黎明の光堂」いう箇所は,おわりのあけのひかりどう」歌っています。昭和52年1977年)行の美濃路見取絵図の解説編には光堂ルビが振ってあります。そして下に示した明治地図では光堂村ヒカルド」添えています。ちなみに私が住んでいるところも旧光堂村です。
 の名の由来ですが,奈良時代この地方に存在した寺院に金箔を貼った堂,すなわち光る堂」あったとの言い伝えによるものです。当時は近くに国分寺もあって,このあたりはかなり栄えていたようです。
 河川名標識だけでなく,国土交通省河川台帳にも光堂川こうどうがわ)書いてあります。なぜ読みを変えてしまったのか疑問です。


 高木橋から左側,光堂川の上流を見たところです。

 地図 K ↗ 2021-08