日光川に架かる萩原橋①を渡って旧萩原町に入ったところから正瑞寺の前⑨まで美濃路を歩きます。この間は萩原宿があったところで,現在も家並が続いています。美濃路に面して,本陣跡⑥や問屋場跡⑦を示す標柱★が建っています。美濃路からは少し離れていますが,天神の渡し跡④へも行ってみます。
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地図:日光川に架かる萩原橋から正瑞寺の前までの美濃路 (●はトイレ)
① 萩原橋を渡ると,美濃路は萩原宿があった集落に入ります。道は昔の街道らしい幅で,沿道のところどころに古い家屋が見られます。美濃路は引き続き,県道136号線(一宮清須線)となっています。
地図上のA点から→ 2021-08
地図
② 左手に稲荷神社,その奥に宝光寺(寳光寺)があります。見取絵図★には,それぞれ稲荷/寳光寺と書いてあります。
地図上のB点から→ 2021-08
地図
③ 稲荷神社の隣に,古風な門があります。美濃路はすぐ先に見えている十字路で右(南)に折れます。
地図上のC点から→ 2021-08
地図
④ 美濃路からは外れますが,十字路を左(北)に折れて500mほど歩くと天神社に行き当たります。鳥居の近くにいくつかの碑が建っていますが,石碑★史跡 天神の渡し跡が最も目立ちます。
石碑にも書いてあるように,江戸時代になる前までは木曽川の本流がこの西側を流れていて,対岸の天神神社⑩あたりとの間を船で渡っていました。
地図上のA点から↑ 2021-08
地図
石碑の内容
今の日光川が木曽川の本流であった頃、安土桃山時代から江戸時代へと移る頃の美濃路の渡し跡。当天神社と対岸にある尾西市・天神神社との間にあったとされる。この渡しの辺りは萩原川とも云った。天正十四年(1586)の大洪水以降、主要道路が現在のように起の方に移り、萩原川は川幅も狭まって板橋となり、渡しも起側に移った。この間の経緯は、起宿本陣加藤家文書中の天正十九年と推定される豊臣秀吉四奉行からの萩原船頭給継目証文等によって知られよう。江戸時代終わり頃の名区小景には、萩原川に架かる板橋が見える。
織田信長が初めて斉藤道三と冨田・聖徳寺で会見した帰り、道三がこの渡しまで見送ったとも伝えられる。江戸時代には、東海道と中山道とを結ぶ脇街道として美濃路は繁栄し、萩原宿や起宿も賑わいを見せた。徳川家康が関ヶ原の戦いから凱旋して通ったので、御吉例街道とも云われる。
題字 一宮市長 谷一夫書
平成十五年(2003)10月 建之
一宮市教育委員会
宮町納税組合
史 跡
天神の渡し跡
今の日光川が木曽川の本流であった頃、安土桃山時代から江戸時代へと移る頃の美濃路の渡し跡。当天神社と対岸にある尾西市・天神神社との間にあったとされる。この渡しの辺りは萩原川とも云った。天正十四年(1586)の大洪水以降、主要道路が現在のように起の方に移り、萩原川は川幅も狭まって板橋となり、渡しも起側に移った。この間の経緯は、起宿本陣加藤家文書中の天正十九年と推定される豊臣秀吉四奉行からの萩原船頭給継目証文等によって知られよう。江戸時代終わり頃の名区小景には、萩原川に架かる板橋が見える。
織田信長が初めて斉藤道三と冨田・聖徳寺で会見した帰り、道三がこの渡しまで見送ったとも伝えられる。江戸時代には、東海道と中山道とを結ぶ脇街道として美濃路は繁栄し、萩原宿や起宿も賑わいを見せた。徳川家康が関ヶ原の戦いから凱旋して通ったので、御吉例街道とも云われる。
題字 一宮市長 谷一夫書
平成十五年(2003)10月 建之
一宮市教育委員会
宮町納税組合
美濃路に戻って,十字路から熱田の方を見たところです。ところどころにやや古い家屋がある雰囲気は,これまでと変わりません。
地図上のD点から↓ 2021-08
地図
垂井に向かう美濃路は,この十字路で左(西)に折れます。
地図上のE点から↑ 2021-08
地図
⑤ 美濃路に面した駐車場の後方に,古民家★と鋸屋根が見えます。古民家は,茅葺をトタンで被った屋根であること,破風に水の文字が描かれていること,突っ支い棒で支えてあることから,築百年は経つと思われます。
地図上のF点から↙ 2021-08
地図
⑥ 萩原宿の本陣跡を示す標柱★が,道の脇にひっそりと建っています。
地図上のG点から→ 2021-08
地図
標柱の内容
裏面
正面
昭和五十六年十一月吉日建之 一宮市観光協会
美濃路萩原宿本陣跡
⑦ 美濃路に萩原商店街のゲートが架かっています。
ゲートの先の左側(西側)はかつて問屋場★があったところで,萩原宿問屋場跡の標柱★が建っています。萩原宿には2つの問屋場があって,ここは上の問屋場とよばれていました。
見取絵図★では,問屋場のほぼ向かい側に脇本陣★があります。
地図上のH点から↓ 2021-08
地図
地図上のI点から↘ 2021-08
地図
石碑の内容
裏面
正面
右面
昭和六十二年三月吉日建之
美濃路 萩原宿問屋場跡
美濃路は 東海道の宮宿と中山道の垂井宿を結ぶ幕府道中奉行支配下の 近世
道路交通史上重要な道路であった 萩原宿は 名古屋 清須 稲葉 萩原 起
墨俣 大垣の七宿の真中に位置する 問屋は 人馬の継ぎ立て一切を司る宿役人
の長で 家の一部分を業務の扱い場(問屋場)とした 当宿場には 上と下の二
名の問屋が原則として 交替でつとめた ここは上の問屋場跡である
道路交通史上重要な道路であった 萩原宿は 名古屋 清須 稲葉 萩原 起
墨俣 大垣の七宿の真中に位置する 問屋は 人馬の継ぎ立て一切を司る宿役人
の長で 家の一部分を業務の扱い場(問屋場)とした 当宿場には 上と下の二
名の問屋が原則として 交替でつとめた ここは上の問屋場跡である
─ ひとこと ─
左面には発起人などの氏名がたくさん書いてありますが,省略します。⑧ 右手に見える細い道は,見取絵図★に鵜多須村尾張殿地方役所 同所陣屋江出ル道法二里/吉村本郷江出ル道法三丁と書いてある昔から★ある道です。
尾張藩の地方役所が置かれていた鵜多須村は,現在の愛西市鵜多須町になります。
地図上のJ点から↙ 2021-08
地図
鵜多須村へ向かっていた道です。道幅は2.5mほどしかありません。この道を進んだ先の右手にある萩原西出公園に,トイレがあります。
地図上のK点から← 2021-08
地図
鵜多須村に向かっていた道の南側に,美しい古民家★が建っています。虫籠窓★や簓子下見★の壁などが見られます。
地図上のL点から↖ 2021-08
地図
⑨ 高札場★があった場所です。見取絵図★を見ると,正面に見える正瑞寺の山門★のすぐ右側(西側)に高札場が描かれています。
美濃路(県道136号線)はここで左(東)に折れます。右(西)に折れる道は,高度成長期★に作られた県道513号線(一宮西中野線)です。
地図上のL点から↙ 2021-08
地図
熱田に向かって進む