旧尾西市(一宮市) 7

美濃路探訪

最終更新:2023-10-19
スタート:2021-11-30


このページの見方など

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美濃路 ←このような表記をすると説明が表示されます。が付いている場合は,ここだけ事典に詳しく書いてあります。

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 名神高速道路をすぎて日光川に架かる萩原橋まで美濃路を歩きます。この間には孝子佐吾平遭難遺跡などがあります。

地図:名神高速道路先から日光川に架かる萩原橋までの美濃路
地図:名神高速道路先から日光川に架かる萩原橋までの美濃路 (はトイレ)



垂井に向かって戻る


名神高速道路の下をくぐって先へ進みます。

 左手に,木立に囲まれた一郭があります。


地図上のA点から↘ 2021-09
地図
孝子佐吾平遭難遺跡です。中に入ると神社の境内のような雰囲気ですが,神社にある社標や鳥居がありません。
 右の手前に石板が,左の奥に石碑があります。


地図上のB点から→ 2021-09
地図
 石板です。それほど古いものではなさそうですが,少し右に傾いています。


地図上のC点から↓ 2021-09
地図
石板の内容
孝子佐吾平由来

天保年間に江戸参勤のため 萩原
宿近くを通りかかった明石藩主松平
斉宣の行列の前を 暴れ馬を取り
押えようと横切った萩原宿の馬方
佐吾平を 先駆の武士が無礼打に
した
佐吾平は 𠮷藤村風張に生まれ
家は貧しかったが 盲目の老母に
よく仕え 孝子の誉れが髙かった
村人は佐吾平の死をいたみ この地に
小祠を建て 後世に伝えた
正面
 昭和五十六年十月吉日
   𠮷藤区 建之
裏面

字解

孝子:こうし=親孝行な子/斉宣:なりこと/無礼打:ぶれいうち=無礼な行為をおこなった農民などを武士が切り殺すこと。無礼討と書く方が一般的です。風張:かざはり/小祠:しょうし=小さい


 11代将軍徳川家斉の子として江戸で生まれた松平斉宣は,明石にく前に江戸において数え年20歳で病死しているので,佐吾平が斉宣の武士に斬殺されたという言い伝えは,史実ではないようです。明石藩による無礼討の言い伝えは,東海道にも中山道にもあるとのことですから,不思議です。

 一郭の北側です。土を少し盛り上げたところに石碑が建っています。


地図上のD点から↑ 2021-09
地図
石碑の内容
孝子佐吾平遭難遺跡
       金森徳次郎書
正面
  昭和三十年十月建之𠮷藤有志
裏面




 県道136号線どうしが直交する珍しい?交差点を過ぎると道幅が狭くなります。狭くなってすぐの右手に屋根があります。
 見取絵図でも明治地図でも,このあたりで松並木が終わって家並が始まります。


地図上のE点から↓ 2021-11
地図


 2021-09



この先にある変形した交差点で美濃路は左に曲がります。その手前に市川房枝生家一郭があって,説明板のほかにトイレ>やベンチが用意されています。


地図上のF点から↓ 2021-09
地図


地図上のG点から→ 2021-11
地図
説明板の写真
美濃路・旧尾西市 市川房枝生家跡 説明板

字解

明地村吉藤:めいちむらよしふじ/憧れ:あこがれ/訓導:くんどう=旧制小学校の正規教員




 左(東)に曲がった先です。


地図上のH点から→ 2021-09
地図
 ここから南に向かう細い道は,見取絵図濃州多羅道凡道法九里程と書いてある古道です。電柱が立っているあたりには道標が描かれていますが,今はありません。


地図上のI点から↓ 2021-11
地図

 濃州多羅道は,美濃国にあった多羅(現在の岐阜県養老郡上石津町多良)と大垣を結んでいた道で,多羅街道(多良街道)ともいわれていました。見取絵図凡道法九里程と書いてありますから,ここから出発して中野の渡し木曽川を渡り,現在の養老町橋爪あたりで多羅道に達したのではないかと思われます。中野の渡しですが,県道羽島稲沢線(岐阜県側は県道118号線愛知県側は県道135号線)の一部となっていて,今でも渡船が運行されています。
 ここから西へ向かう道(次の写真の,奥へ向かう道)を多良街道として紹介している資料がありますが,多良街道岐阜県内だけを通っていた道であることと,見取絵図に描かれた道はここから南下する方向に延びていて,その先には現存する神江寺(一宮市明地鞆61番地)も描かれていることなどから,何かのまちがいではないかと思います。

 垂井へ向かう美濃路はこの先で右に曲がります。


地図上のJ点から← 2021-09
地図


日光川に架かる萩原が見えてきました。左手に古民家が建っています。萩原橋を渡った先は萩原宿が置かれていた旧萩原村になります。現在の萩原橋は,長さ45m,幅5.5m,昭和44年(1969年)3月の完成です。
 見取絵図では,日光川古川と書かれ,萩原橋古川板橋と書いてある欄干がある橋です。この先,次の欄干がある橋は,稲葉宿の手前にあるノ橋でした。


地図上のK点から→ 2021-09
地図


 2021-09

 萩原橋の上から日光川の下流を眺めたところです。東海道新幹線橋梁が見えます。


地図上のL点から↙ 2021-09
地図


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