一宮市萩原町 4

美濃路探訪

最終更新:2023-10-19
スタート:2021-09-18


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 高木の一里塚跡から光堂川まで美濃路を歩きます。高木の一里塚跡には石碑説明板があります。

地図:高木の一里塚跡から光堂川までの美濃路
地図:高木の一里塚跡から光堂川までの美濃路



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高木の一里塚があった跡です。建物と建物の間に,珊瑚樹生垣で囲まれた一郭があって,一里塚があったことを示す石碑説明板が設置されています。


地図上のA点から→ 2021-08

地図


 2021-08
石碑の内容
一里塚址
 慶長九年二月 徳川家康の命によつて江戸日本 
橋を起点として七道に一里塚を築いた 塚には街
道の並木松とまじらないように「外の木」を植え
よといつたのを聞き誤つて「榎」を植えたともい
う美濃路は東海 中仙兩道を結ぶ脇街道である
この高木一里塚もその頃できたものであろう 明
治初年までは道路の兩側に小山があつてそこには
榎も残つていたがいつの間にかすかれて円形の田
となつていた 今日これを保存し 永く後学の資
とすることにした
   昭和三十七年春
           一宮市長伊藤一
正面
  一宮本町通
   一八代河内孫右刻
裏面

説明板の内容
高木一里塚址
 一宮市萩原町高木中道・蟹子

 高木一里塚は、江戸時代に東海道と中山道を結ぶ美濃路に設けられた十三ヶ所の一里塚の内の一つです。
 慶長九年(一六〇四)に、江戸幕府は、江戸日本橋を起点とし、一里(約四キロメートル)ごとに一里塚の設置を命じました。その後、一里塚は、全国に普及し旅人たちの旅や運賃の目安となるとともに、榎や松などの大木が植えられ、その木陰では旅人が休息をとることもできました。
 高木一里塚にも、明治初年頃まで街道の両側に塚が設けられ、その上に榎が植えられていたと伝わっています。一宮市内には、高木一里塚の他、岐阜街道の一宮一里塚、美濃路の冨田一里塚が設けられました。
 明治時代になると各地の一里塚は徐々に姿を消し、高木一里塚も昭和三十七年(一九六二)に建立された記念碑を残すのみとなっています。
     一宮市教育委員会
美濃路・萩原 高木の一里塚跡 説明板の写真
実物は縦書き

 一里塚跡説明板が立っているところから,道の反対側にあった一里塚の跡を見たところです。なんとなく一里塚の面影が感じられます。


 2021-09


この先から道幅が狭くなって,歩道もなくなります。
 見取絵図でも明治地図でも,道が狭くなったあたりから家並が続いています。


地図上のB点から↘ 2021-08

地図


 美濃路沿いに立派な石碑が建っています。故陸軍歩兵伍長とあるので,忠魂碑のようです。


地図上のC点から↗ 2021-11

地図


美濃路がゆるくカーブし始めるところに,古風な塀と門があります。そして道の反対側には石柱が建っています。


地図上のD点から↓ 2021-09

地図
 石柱は道の分岐点に建っているので道標ではないかと思いましたが,文字で大きく南無妙法蓮華経と彫られていることから,日蓮宗のおを刻んだ題目碑とよばれている石塔のようです。


地図上のE点から↗ 2021-09

地図


 右手に少しいかめしい構えの門があります。そして左側には屋根の建物があります。


地図上のF点から↙ 2021-08

地図
立場があったと思われるところです。見取絵図を見ると,鋸屋根の建物とそれに続く建物があるあたりに立場と書いてあります。


地図上のJ点から↗ 2021-08

地図


道のに地蔵堂が2つ並んでいて,その前に近代的な小さい火の見が建っています。


地図上のH点から↖ 2021-12

地図


 美濃路は,左へ左へとカーブした後,光堂に架かる高木橋を渡ります。


地図上のI点から↘ 2021-08

地図
高木橋です。欄干はガードレールですが,四隅には親柱があります。見取絵図には光堂川土橋と書いてあります。
 川の両側に河川名標識が設置されていますが,光堂川の読みがKodo Riv.,すなわちこうどうがわとなっています。


地図上のJ点から↘ 2021-09

地図  2021-09
光堂の読み方
 光堂川は,地元ではひかるどがわまたはひかりどうがわとよんでいます。
 高木橋から上流に3つ目の光堂橋親柱にはひかりどうはしと彫ってあります。
 下流の清水にも光堂橋がありますが,橋のに,ひかりどうかわと彫った石板がはめ込まれています。
 上流の光堂橋のすぐそばに一宮市立中島小学校がありますが,校歌の尾張の黎明の光堂という箇所は,おわりのあけのひかりどうと歌っています。
 昭和52年(1977年)発行の美濃路見取絵図の解説編には光堂とルビが振ってあります。
 明治時代の地図にも光堂とルビが振ってあります。
 光堂の名の由来ですが,奈良時代この地方に存在した寺院に金箔を貼った堂,すなわち光る堂があったとの言い伝えによるものだそうです。当時は近くに国分寺もあって,このあたりはかなり栄えていたようです。
 河川名標識だけでなく,国土交通省河川台帳にも光堂川(こうどうがわ)と書いてあります。たしかにこうどうの方が読みやすいですが,名前には歴史があります。安易に読みを変えてしまうことには疑問を感じます。
光堂(ヒカルド)

美濃路と光堂川


明治地図:光堂(ヒカルド)

明治時代の美濃路と光堂川



 高木橋から左側,光堂川の上流を見たところです。


地図上のK点から↗ 2021-08

地図


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