地図 A ↘ 2021-03
地図 B 石柱 2021-02
⑥ 禅源 寺 への道を進んですぐのところに中島郡高等小学校址 と彫られた標柱★ があります。
明治20年( 1887年)に 設立された中島 郡高等小学校 は,現在の稲沢市立稲沢中学校 の前身にあたり,ここに建っていた校舎は国府宮 の参道 に面したところに中高 記念館 として保存されています。
地図 C 2021-02
中高 記念館 の外観です。地図
2021-02
中高記念館 の
説明板 には次のように書いてあります。縦書き,漢数字使用です。
稲沢市指定文化財
中高記念館
昭和50年4月1日指定
この建物は、明治20年4月に開校
された中島郡高等小学校の建物である。
開校当所は、稲葉村禅源寺山にあっ
た。明治45年1月、高御堂に移建し、
稲沢町役場として活用され、後、学校
などに使用していたが、昭和35年
現在地へ移築され、保存されることと
なった。
明治中頃に建てられた学校建築遺構
として由緒ある貴重な建物である。
桁行 11.08メートル
梁行 11.84メートル
東面建 二階建車寄付
寄棟造棧瓦葺
「 中高 」
の 読みですが,
中 島郡
高 等小学校の略だとすると
「 なかこう」
で はないかと思って調べてみたところ,
稲沢市のサイト に
「 チュウコウキネンカン」
と 書いてありました。
⑦ 「 中島郡高等小学校址 」の 標柱★ を通りすぎて北に進んだところで禅源 寺 に行き当たり,そこから山門★ までわずか75mほどですが,松並木 が残っています。
地図 D ↑ 2021-02
2021-02
山門 の前に
説明板 が2つあります。説明は主に
文化財 についてですが,
禅源 寺 については次のように書いてあります。縦書きで漢数字使用です。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
金華山 禅源寺 臨済宗妙心寺派
14世紀に太清宗渭が開創し、16世紀初等勝岩宗殊が中興したと伝える。寛永11年( 1634)、 徳川三代将軍家光上洛の際、休憩所となり、虎岩和尚が拝謁、表道具に御紋の使用が認められた。同年、砂が噴出し、堂宇大破により、現在地に移った。
稲沢市教育委員会
⑧ 美濃路 に戻って,黒い蔵 などがあった古い建物 の並びを東の方から見たところです。角にある洋風の建物は初代の稲沢郵便局 ( 稲澤郵便局 )で す。新築した2代目の稲沢郵便局 に移転する昭和34年( 1959年)ま で使用されていました。
地図 E ↙ 2021-03
⑨ 稲沢市シルバー人材センター建物は,2代目の稲沢郵便局 として建てられました。 の手前,東の方に美濃路案内板 があります。美濃路 と稲葉宿 については,このあとで取り上げる美濃路稲葉宿本陣跡ひろば にある美濃路案内板 と全く同じ内容です。
地図 F ↗ 2021-02
2021-02
⑩ 津島神社★ へ通じる道が分岐していたところに,ほぼ円柱形で高さ1mあまりの道標★ が立っています。
地図 G ↓ 2021-02
道標 の斜め上方( 写真の右上)に ,自治会 がつくった説明板 があります。
2021-03
彫りの深い右つしま に比べて道 は字が細く,さらに三里 は地面すれすれにかなり小さい字で彫られていることが気になります。道三里 は後で彫られたのかもしれません。
もうひとつ気になることは道標 の位置と向きです。この道標 を見て右へ向かっても,津島 の方へ進まないからです。実は,この道標 は,鉛筆マーク H で示した位置,すなわち津島道 の東側にあって,文字は津島道 を行く人からよく見えるように西を向いていました。何らかの理由で現在の位置に移し,美濃路 から文字がよく見えるように向きを変えて置いたものと思われます。
見取絵図★ に道標 はないようですが,分岐点の東側に目印のためと思われる大きな木が描かれ,津島 へ向かう道には村道 船橋村江 道法二十丁 津嶋天王江 道法三里 と添えてあります。現代風に書けば「 船橋村へ2km,津島天王へ12km」と いうことになります。
明治地図★ を参考に,津島道 を地図に緑線で記入してみましたが,この先も,県道121号線 ( 津島稲沢線 )と ほぼ同じコースで津島 に向かっていたことがわかりました。ただし県道121号線 の出発点( 終点)は ここではなく,すでに取り上げた交差点 ④ です。
地図
自治会がつくった
説明板 には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
まちの文化遺産紹介
本町通りは、江戸時代の初期に整備された稲葉宿の面影を今なお、色濃く残しています。その時代、稲葉宿を擁したこの通りは美濃路と呼ばれ、参勤交代の諸大名や朝
鮮通信使・琉球使節、将軍に献上されるお茶壷や象の通行などを含め多くの人が行き交いました。その時代背景の中でこの「道しるべ」が立てられ、今もそのままの姿
で私たちのまちに佇んでいます。花崗岩で作られたこの道標には「右つしま道 三里」と彫られ、津島牛頭天王社への道を示しています。江戸時代から今日まで、暑さ寒さ、風雪に耐えた貴重な文化遺産であり、わたしたち住民の財産、誇りと言えます。ここを通るときは、すこし歴史を感じてみてはいかがでしょうか。
中本町区
道標 は,下の方が黒く汚れていますが,それが
説明板 を設置するきっかけとなったことを知りました。犬の散歩がてらに
道標 を汚している人が多いのを見かねた隣に住む方が,
「 道標 が
歴史遺産 であることに気が付いてほしい。
」 と 願い,自治会に
説明板 の設置を提案されたそうです。歴史と郷土を愛する思いが感じられます。
宝光 寺 ( 寶光寺 )は見取絵図★ にもある古い寺 です。
地図 H ↑ 2021-02
⑪ 稲葉宿 には3つの問屋場★ ( 西の問屋場 ,中の問屋場 ,東の問屋場 )が 置かれていましたが,そのうちの中の問屋場 の跡に建つ古民家★ の前には,「 稲葉宿問屋場址 」の石碑★ が建っています。
地図 I ↑ 2021-02
石碑 には次のような文字が彫られています。
稲葉宿問屋場址
四ッ家追分から分れたこの美濃路の稲葉
宿は 慶長五年に開設せられ 本陣 脇
本陣の外 小沢 東町 西町には 問屋
が置かれて人馬の往來 物資の輸送の便
に供されたが 文政五年頃には 人足四
十五人 馬四十五頭が常備せられ また
助郷の制もあつた ここは東町問屋場址
であり 宿役人伊東氏の住居である
昭和五十九年九月 日
稲沢ロータリークラブ建之
⑫ 明治5年( 1872年)の 創業を誇る藤市 酒造 の建物には,戦後期★ に設置されたと思われる重厚な看板 が残っています。
街路灯の支柱に美濃路の道しるべ★ があります。
地図 A ↙ 2021-03
⑬ 明治45年( 1912年)に 創業した稲沢電灯創業時の社名は稲沢電気 ( 稲澤電気 )で した。 ( 稲澤電灯 )の 本社屋として昭和11年( 1936年)に 建てられた建物です。その後中部電力稲沢営業所 などを経て,昭和59年( 1984年)か ら稲沢市 の民俗資料収蔵庫 として使用されていましたが,耐震性に問題があることがわかり,平成29年( 2017年)か ら空家 になっています。建物は愛知県の近代化遺産 に登録されています。
地図 B ↖ 2021-02
⑭ 旧家 の屋敷 でしょうか。写真に写っているいくつかの古い建物は,すべて同じ敷地内にあります。
地図 C ↘ 2021-03
⑮ 駐車場の片隅に,稲沢銀行跡地 と彫られた標柱★ があります。稲沢銀行 ( 稲澤銀行 )は 地方銀行として明治33年( 1900年)に 設立されましたが,終戦翌月の昭和20年( 1945年)9 月に東海銀行 に吸収合併されて,東海銀行稲沢支店 ( 東海銀行稲澤支店 )と なりました。稲沢支店が国府宮 駅前に移転後は太道相互銀行太道 相互銀行は,1969年に名古屋信用金庫と合併して中京相互銀行になり,さらに1989年に中京銀行になりました。 の稲沢支店に代わり,今は駐車場になっています。
明治地図★ によると,ここから数10mほど西方に稲沢町役場 ( 稲澤町役場 )が ありました。
地図 D 2021-03
⑯ とても複雑なかたちの屋根をもった古民家★ があります。普通の民家でしょうか。それとも何か特別の建物だったのでしょうか。
地図 E → 2021-02
東側は,変わった形の屋根の一部分だけが残っているようです。この家屋にも虫籠窓★ があります。
2021-02
⑰ 稲葉宿 の本陣★ があった場所に,令和2年( 2020年)春 ,稲沢市 が計画していた「 美濃路稲葉宿本陣跡ひろば 」が オープンしました。本陣 の門や塀の一部が再現され,50年以上前にこの場所に建てられて別の場所で保管されていた「 稲葉宿本陣跡 」の 碑 や,もともとここにあった稲沢町 道路元標★ ( 写真左端)も 戻ってきました。
地図 F ↑ 2021-02
本陣跡ひろば は行事などに使用されることも考慮してつくられたため,本来は道に面しているはずの門 や塀 などが奥まったところにあります。
2021-02
稲葉宿本陣跡の碑 の正面と裏面には次のような文字が彫られています。
この前面の南から西へ続く道路は 天正年間織田信雄が改修したと伝える東海道宮の宿と中山道垂井宿
とをむすぶ駅路で 美濃街道と称した
慶長年間此処小沢村と西に続く旧稲葉村とを合せて宿駅が置かれ稲葉宿と称したが 宿駅の中枢の本陣
は 小沢村のこの地点にあった 脇本陣は 西方百十米南側 東問屋場は 南方七十五米西側 中問屋場
は 西方二百二十米北側 西問屋場は 西方四百二十米南側にあった その他高札場は 西方六十五米の
稲葉小沢両村の境に 一里塚は 南方百八十米の街外れの両側にあった
この本陣跡には 明治維新後中島郡役所 中島地方事務所 稲沢保健所 稲沢農業改 良普及所等が次々
に置かれてこの地方行政の中枢となった 稲葉小沢両村で稲葉宿を作り 明治二十年両村合併により 稲
沢の名称が起り 次いで 稲沢市への発展の渕源となった宿縁の地である
昭和四十四年十月 稲 沢 市 建 之
稲沢ライオンズクラブ寄贈 翠川 橋本四郎書
美濃路稲葉宿本陣跡ひろば に設置されている案内板 の内容です。
2021-02
美濃路 と
稲葉宿 について,次のように書いてあります。
美濃路とは
美濃路は,中山道の垂井宿( 岐阜県垂井町)か ら東海道の宮宿( 名古屋市)を 結ぶ全長14里24町15間( 約57.5km)の 街道です。
中山道の垂井宿からはじまり,途中には,大垣宿( 岐阜県大垣市), 墨俣宿( 岐阜県大垣市), 起宿( 一宮市), 萩原宿( 一宮市), 稲葉宿( 稲沢市), 清須宿( 清須市), 名古屋宿( 名古屋市)の 七宿があり,東海道の宮宿に合流します。また現在の岐阜県羽島市には,間の宿も置かれました。
慶長5年( 1600)関 ヶ原の合戦のとき,福島正則が先鋒として進撃し勝利後に徳川家康が凱旋したとき,この道を通って帰ったことから「 お悦び街道・吉例街道」と も呼ばれます。五街道と同じく,江戸幕府直轄の街道で,道中奉行の支配下に置かれ,道幅・松並木・一里塚・宿場・助郷も五街道なみとなっています。
東海道の鈴鹿峠越えや海路の「 七里の渡し」に 比べ,遠回りになりますが,安全性が高く,天候に左右されず,予定どおりの通行が可能であったため,女性にも重宝され,多くの旅人が利用しました。
徳川家康・秀忠・家光らの将軍をはじめ,参勤交代の大名や朝鮮通信使,琉球王使,お茶壷道中など,さらには将軍に献上された象もこの街道を通ったなど,一般民衆の旅の利用はもとより多くの人たちがこの道を往来しました。
稲葉宿
稲葉宿は,家数336軒,人口1,572人,旅籠屋8軒,本陣・脇本陣各1軒,問屋場3か所がありました〔 天保14年( 1843)〕 。 本陣である小沢村の原所次右衛門の家は,門構・玄関付で建坪133坪( 約439m2 ), 脇本陣である稲葉村東町の吉田又吉の家は,門構・玄関付で建坪70坪( 約231m2 )で した。稲葉村西町の西問屋場は原家と伊東家が交代でつとめ,稲葉村東町の中問屋場を伊東家,小沢村の東問屋場を原家があずかり,1問屋場2日交代でつとめたといいます。宿場の長さは8町21間( 約911m)で した。
門を入った先にこのような建物があります。看板等が見当たらないので建物の概要がわかりませんが,正面の壁に稲葉宿 に関係がある絵図 などが貼ってあり,パンフレットが置いてあります。ベンチ やトイレ もあります。
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稲沢町道路元標 ( 稲澤町道路元標 )は ,高さ70cmほどの標柱★ です。
2021-03
美濃路稲葉宿本陣跡ひろば の前から垂 井 の方を見たところです。昔は美濃路 の左側に脇本陣★ ,右側には高札場★ がありましたが,今は何も見当たりません。しかし地図を見ると,すぐ近くに札の辻★ という地名があることに気が付きます。周囲が新住居表示に変わっているのに,なぜかそこは古い地名が残してあります。
写真左端に美濃路の道しるべ★ があります。
地図 F ← 2021-03
熱田 に向かう美濃路 は,本陣跡ひろば の前で右に折れて,写真の後方へ向かいます。折れた先は道幅が少し狭くなります。
地図 G ↘ 2021-03
写真の左へ向かう道も,昔からあり,ところどころに古民家★ が建っています。その道について,見取絵図★ には村道 一ノ宮江 道法一里 笠松江 道法三里 と添えてあります。
◎本陣跡ひろば の東に道をはさんで隣接する崇福 寺 と,北方に位置する神明社 は,共に見取絵図★ にもあります。
神明社 の東に道をはさんで隣接する小 沢 児童遊園 に,トイレ があります。
地図