稲葉宿の本陣跡をすぎたところから,長束までの美濃路を取り上げます。①〜⑫
この間の当時の美濃路★は,本陣★から小沢の一里塚★までと,高御堂や長束などに少しの家並があったほかは松並木が続いていました。やがて時代が進んで松並木はなくなり,今は街道の面影★がほとんど残っていません。しかしわずかですが,一里塚の跡/国府宮の一ノ鳥居/長束の休憩所などで,当時の美濃路をしのぶことができます。
② 稲葉宿の本陣跡を出発して最初の交差点に,風格のある古民家★が建っています。10年あまり前までは老舗の酒屋でした。
見取絵図★と照らし合わせると,稲葉宿の「東の問屋場★」は,この古民家が建っているあたりにあったと思われます。
地図 A ↖ 2020-12
このあたりから高御堂の集落に入るあたり⑤まで,高度成長期★以前には沿道に家屋が建っていませんでした。そのため容易に道路拡張ができたものと思われます。道路には歩道も設置されています。
写真中央に「一里塚★の跡」の説明板が,左に美濃路の道しるべ★があります。
地図 B ↘ 2021-07
③ 建築設計事務所の敷地内,道路に面したフェンスに接するように「小沢一里塚跡」の説明板が立っています。
地図 C 2021-07
説明板には縦書きで次のように書いてあります。
小沢一里塚跡
江戸時代、東海道と中山道を結
ぶ脇街道である美濃路には、三六
町一里の制度により、一里塚が築
かれた。塚は五間四方の大きさで、
道の両側に築かれ、主に榎が植え
られた。江戸時代の絵図によると
この周辺にあったと推定される。
稲沢市教育委員会
上の写真より5ヶ月前の様子です。以前からあった木の札も残っていましたが,字を読むことはできませんでした。
2021-02
さらに6年ほど前,説明板が設置されてまもなくのころです。それ以前は右下の稲葉一里塚跡と読める木の札が立っていただけでした。
2014-12
ここの一里塚★は,稲葉宿の家並が終わったところにありました。次の一里塚は,あとで取り上げる四ッ家の追分★のすぐ手前にあって,そこから先は家並が続いていました。2つの一里塚が,ちょうど家並と松並木の境目にあったというのは偶然かもしれませんが,状況に合わせて一里塚の位置を調節したとも考えられます。ちなみに,前に取り上げた高木の一里からここまでは4.3km,次の一里塚までは4.4kmと,1里(約3.9km)より少し長めです。
見取絵図★にはすべての一里塚が記録されていますが,美濃路の両側に描かれた一里塚の絵に一里塚と添えてあるだけですから,固有名称はなかったようです。この一里塚は,稲葉宿のそばにあったから「稲葉一里塚」とよばれたり,ここが旧小澤村だったから「小沢一里塚」とよばれたりするのだと思われます。
美濃路はゆるい坂を上って,大江川に架かる曙橋にさしかかります。橋の手前を中心に6叉路の交差点となっています。
地図 A ↘ 2021-02
交差点の北東角に小さい公園があって,稲沢市が設置した観光用の看板「大江川遊歩道周辺案内図」が設置されています。ただし美濃路についての記述はまったくありません。
地図 B ↑ 2021-02
◎大江川に沿って100mあまり進んだ先の高御堂公園に,トイレがあります。
曙橋の上から垂井の方を見たところです。写真中央が美濃路です。この交差点から,100mほど北西の信号機がある交差点までの間は,美濃路は普通の道★です。
地図 C ↖ 2021-02
曙橋を渡ると美濃路はゆっくりと下っていきます。ここからは再び県道136号線(一宮清須線)になります。
地図 C ↓ 2021-02
④ 美濃路は左にカーブします。カーブしているところに,稲沢市が設置した美濃路の道しるべ★があります。
稲沢市が設置した案内板などの多くには,市のマスコットキャラクター「いなッピー」のイラストが添えてあります。
2021-02
地図 D 2017-04
垂井に向かう美濃路は,この先で右にカーブします。
地図 E ← 2021-02
⑤ 美濃路はこの先のT字路をすぎると狭くなって歩道がなくなり,およそ200mほどですが,昔からある高御堂の集落を通ります。見取絵図★にも,高御堂村の集落や吉祥寺が描かれています。
地図 F → 2021-02
家並がなくなって信号機がある交差点をすぎると,道は再び広くなって片側に歩道が付いています。ここから名鉄名古屋本線の踏切まで,美濃路は田んぼの中を通ります。
地図 A → 2021-02
⑥ 踏切を越えたところに国府宮正式名は尾張大國霊神社ですが国府宮という名で親しまれています。見取絵図★にも大きな神社が描かれていて國府宮と添えてあります。の社標★/灯籠/一ノ鳥居があります。
国府宮の本殿などは,ほぼ北に真っすぐ1kmほど続く参道の先にあります。
地図 B 2021-02
踏切を越えてしばらくは,高度成長期★以降に市街化されたところを通ります。
地図 C → 2021-03
◎美濃路から100mほど北に位置する正明寺公園にトイレがあります。
思いがけなく,といった感じで古い家屋に出会います。見取絵図★にも,このあたりに何軒かの家屋が描かれています。
美濃路はこの先の信号機のある交差点で右に折れます。
地図 A ↗ 2021-03
⑦ 信号機がある交差点で右に折れた先は両側に歩道が,そして左側(東側)には遊歩道が設置されています。ここから市民病院があるあたりまで,高度成長期★以前には松並木が続いていたので,遊歩道には新しい松並木が再現されています。遊歩道が始まるところに美濃路の道しるべ★が立っています。
地図 B ↓ 2021-03
垂井へ向かう美濃路は,この信号機がある交差点で左に折れます。
地図 C ↑ 2021-03
◎交差点から東北東に200mあまり歩くと行きあたる小正中央公園に,トイレがあります。
⑧ 遊歩道も新しい松並木もここで左に折れますが,美濃路はまっすぐです。
地図 D ↓ 2021-03
美濃路からは外れますが,遊歩道を250mほど進むと長束・梅公園に着きます。公園内に,トイレがあります。長束・梅公園の東側に道をはさんで隣接する大光寺は,見取絵図★にもある古い寺です。
⑨ 美濃路はここで左に曲がります。
地図 A ↓ 2021-03
県道136号線から分かれて左に曲がった先です。
見取絵図★では,このあたりの美濃路は松並木ですが,この写真に写っているところだけ,家が並んでいます。
地図 B → 2021-03
先の航空写真を見ると,「ここだけに家がある」という状態は,江戸時代から戦後期★まで続いていたようです。高度成長期★以降の変化がいかに急激だったかを知るひとつのよい例だと思います。
次の十字路で右(南)に折れた先です。この遊歩道は⑧で分かれた続きですが,ここからは松並木に代わって桜並木になります。
地図 C ↓ 2021-03
垂井へ向かう美濃路は,ここで左(西)に折れます。
地図 C ↑ 2021-03
美濃路からは外れますが,遊歩道を北に250mほど進むと長束・梅公園に着きます。公園内にトイレがあります。
左側(東側)の視界が開けたところで,美濃路から50mほど東にある石碑群⑬が見えます。後方には,平成19年(2007年)に完成した,当時世界一だった高さ173mの三菱電機エレベーター試験塔(ソラエ)と,その右には昭和40年(1965年)完成の,これまた当時世界一だった高さ63mの試験塔も見えます。
地図 E → 2021-03
⑬ 石碑群は,区画整理などで立ち退くことになった石碑★を寄せ集めたところだそうです。ほぼ中央にある石碑は長束正家邸址の碑長束正家は豊臣秀吉に仕えて五奉行のひとりとなった武将です。で,正面に長束正家邸址 愛知縣と彫ってあります。実際に長束正家邸があったところは,先ほど取り上げた大光寺の北だといわれています。他の3つは,それぞれ殉国/従軍/報国という文字があることから,戦没者に関係する石碑ではないかと思われます。
地図 F 2021-03
大正時代の写真を見たら,おそらくこの場所と思われるところに,右の2つだけが並んでいました。
そろそろ桜並木が終わるあたりに東屋を備えた小さい休憩所があり,美濃路案内板が立っています。案内板の内容は,すでに取り上げた美濃路稲葉宿本陣跡ひろばにあるものと,ほとんど同じです。
地図 G 2021-03
⑫ 美濃路はここで県道136号線に合流します。
地図 H ↘ 2021-03
遊歩道は,あと50mほど続いて終わります。なぜそこで終わっているのかは,小川の上に遊歩道を設けたことと,先ほどの「1950年撮影の航空写真」を見てわかりました。
垂井の方を振り返って見るとこんな感じです。
地図 I ↖ 2021-03
垂井に向かう美濃路は,遊歩道に沿って右に曲がります。
地図 J ↖ 2020-11