稲沢市 5

美濃路探訪


最終更新:2022-03-05 スタート:2021-06-17


はじめに

美濃路このような箇所をすると説明などが表示されます。が付いている語句は美濃路探訪」ついてここだけ事典」詳しい説明が書いてあります。


で出現したものは,で閉じます。


見本の画像をすると大きくなり,再びすると元に戻ります。


 東海道線の踏切から,清須市に入るところまでの美濃路を取り上げます。①〜⑯
 この間の当時の美濃路は,一里塚岐阜街道追分立場と続いているところ始まって,ところどころに寺や神社を交じえながら,家並がほとんど絶え間なく続いていました。そのためもあって都市化の影響をあまり受けなかったようで,今でもところどころに街道の面影が残っています。この間には,一里塚岐阜街道追分にあった道標長光北市場美濃路公園立部神社山車など,近くには清須代官所跡総見院などがあります。

地図:東海道線の踏切から,清須市に入るところまでの美濃路
地図:東海道線の踏切から,清須市に入るところまでの美濃路





東海道線踏切を越えた先の空地に,美濃路 井之口一里塚跡と書いてあった木の札が立っています。しかし,すでに取り上げたの一里塚跡に立っていた木の札と同様,字が消えてしまって読めません。
 見取絵図を見ると,確かにこのあたりに北側の一里塚があって,北側の一里塚現在は稲沢市井之口町池向属し,南側の一里塚旧六角堂村現在は稲沢市六角堂西町属していたようです。
 写真右端に,あとで取り上げる四ッ家追分の石碑が写っています。

 地図 A ↗ 2021-03



踏切一里塚古風な塀へと続き,空地の右には北に向かう岐阜街道があります。ここは美濃路から岐阜街道が分かれる追分といわれていたところです。鉛筆マーク C で示した空地になっているには,かつて立派な道標が立っていましたが,自動車にぶつけられて破損したため,あとで取り上げる長光に移されました。

 地図 B ↖ 2021-03


 私の知るかぎり,空地になっている角には食料品店がありました。もう半世紀ほども前のことです。店の前に大きな道標があったら,きっと邪魔だったでしょう。そこでもしかしたら,道標は土地に余裕がある右の方の角に移されていた可能性がある。いう思いがわいてきました。自動車にぶつけられたとき,はたして道標はどこにあったのでしょうか。そこでいくつかの資料を見ましたが四ッ家追分にあった道標はダンプカーの接触で破損したため,長光寺に移したというようなことは書いてあっても,道標があった位置については書いてありません。
 道標の位置について,手持の資料からもネットからも手掛りが得られなかったので,古い航空写真で調べたところ,昭和36年1961年)影の航空写真国土地理院)にそれらしいものがありました。やはり右の方の角です赤円内)左の方の角は,道路ぎりぎりまで建物があるようです。
 すでに取り上げた稲葉宿にあった津島へ向かう道の道標そうですが,邪魔だということで移されてしまった道標は,けっこうあると思われます。


 見取絵図では,左の方の角に道標があって,その西側には一里塚が道の両側に描かれています。さらによく見ると,道標の北側にも岐阜街道一里塚が,道の両側に描かれています。ということは,追分に立って見ると,目の前に4つの一里塚があった可能性があります。そうだったとしたら,なかなか壮観だったに違いありません。もしかしたら,そんな光景は日本中を探しても,ここでしか見られなかったかもしれません。ちなみに岐阜街道の次の一里塚赤池稲沢市ありました。今そこには赤池一里塚址の石碑が建っています。
美濃路 四ッ家 4つの一里塚

追分の,東側の角です。四ッ家追分石碑が建っています。
 ここは県道155号線井之口江南線始点になっています。
 見取絵図を見ると,古民家が建っているところから始まって,東に数軒の立場が並んでいます。ここにあった立場は,名物のうどん味わうことができたと伝えられています。

 地図 B ↗ 2021-03

 四ッ家追分の石碑には次のような文字が彫られています。
分追家ッ四

下津 一宮 黒田を経て
岐阜へ向かう鎌倉街道 後 
の岐阜街道と 稲葉 萩原
起を過ぎて 垂井へ向かう
美濃街道との分岐点である
 昭和四十四年五月
 稲沢市

 絵図では,岐阜街道脇道 中山道加納宿道法五里半/岐阜道法六里半/笠松道法四里半/一ノ宮道法二里半と添えてあります。



美濃路が右に曲がるところ,集合住宅の敷地内に,盤桓子誕生地の碑があります。盤桓徳川幕府尾張藩名筆家非常に優れた書家として有名な人として知られていました。四ッ家追分の道標盤桓子の書といわれています。

 地図 D ↖ 2021-03

 石碑には次のような文字が彫られています。
地生誕子桓盤

丹羽氏 諱は勖 字は子勉 通称嘉一
盤桓子と號す 安永二年 西    ここに 
生れ 鈴木朗に學んで尾張藩の右筆
となる 天保十二年 西    に没す
長光寺に葬る
 昭和四十四年五月
   稲沢ロータリークラブ



 美濃路県道136号線一宮清須線分かれて右に曲がり,写真後方へ向かいます。ここからしばらく,美濃路普通の道です。2kmほどは比較的幅が狭い道が続き,ところどころに古民家神社があります。見取絵図でも家並が続いています。ちなみに写真左方に向かっている県道136号線は,高度成長期に開通しました。先ほど紹介した昭和36年1961年)影の航空写真を見ると,工事中のようです。

 地図 D ↘ 2021-03



美濃路が細い道となってすぐ,左側にが2つ続きます。これは2つ目ので,見取絵図ではこの位置に鳥居があって,天王と添えてあります。

 地図 E → 2020-12



先に取り上げた四ッ家追分にあって破損した道標が,鉄枠で補強された姿で長光門前に置かれています。

 地図 F ← 2020-12

 2020-12

 美濃路から向かって左側,正面,右側にははそれぞれ次のような文字が彫られています。元の場所にあったときより深く埋められているようで,下の方にある文字は見えません。参考文献で調べた文字を )に加えておきました。
左京都道(并大垣道)
 
右ぎふ道(并浅井道)
 
 文政二年己卯十二月立


 この道標が,鉛筆マーク C で示した本来の場所にあったときは,刻まれている文字が正しい方向を示していたことがわかります。
 いくつかの資料には文政2年,西暦1819年」いうように書いてありますが,文政2年12月は西暦1820年1月になる可能性が高いです。己卯は文政2年のです。
 地図


 山門を入って最初に目に留まるのが,六角形であることから六角堂とよばれている国の重要文化財地蔵堂す。平安時代に建てられたといわれる長光は,見所がたくさんあります。

 2020-12



この先の目立たないT字路で立ち止まって左を見ると,小さな橋が見えます。そして橋の手前の左側に,役所橋跡説明板があります。

 地図 A ↘ 2020-12

 2020-12

 説明板には縦書きで次のように書いてあります。

  役所橋跡
 江戸時代中期、この橋の北東、
現在の清須市分地に尾張藩の清須
代官所(陣屋)が構えられていた。
美濃街道六角堂村集落と代官所と
を結ぶ役所道がここを通り、この
下を流れる古川用悪水路に役所橋
が架けられていた。
 稲沢市教育委員会



 役所橋は今では味気ない橋ですが,少し前までは古いコンクリートの橋でした。役所橋って書いてありました。いうことを聞いたのでGoogle Street View」調べたところ,2012年3月に撮影したものがありました。説明板はまだなかったようです。


役所橋を渡って役所橋を渡った先は清須市です。っすぐ50mあまり進んだ左手に,清須市名所案内板清須代官所跡」あります。
 見取絵図には木々に囲まれた屋敷の中に建物がいくつか描かれていて,尾張殿地方役所と添えてあります。

 地図 B ↗ 2020-12

 2020-12



都市公園北市場美濃路公園正面入口付近です。石碑した看板石「○○公園」などと彫ってある石板のことです。を用いるなど,美濃路のイメージに合わせた古風なデザインでまとめられています。公園内にトイレや屋根付のベンチがあります。

 地図 C ↙ 2021-03

 2021-03

 案内板には次のように書いてあります。縦書きで漢数字使用です。文の折り返しは,現物のとおりではありません。

  美濃路の由来
 美濃路は、天正年間(今から約400年前)織田信雄が幅5間(9m)の道路に改修させたのが始まりで、東海道と中山道を結ぶ重要な脇街道であった。
 宮の宿(熱田)で東海道と分かれて、名古屋・清須(清須市)を経て北市場地内を通り、稲葉・起・墨俣・大垣の各宿を経由して垂井宿で中山道に合流する。その里程は14里24町15間(57.6km)といわれた。
 この道は慶長5年(1600年)の関ヶ原の役にも重要な役割を果たした。即ち東軍の先鋒として福島正則がこの道を西に進み、さらに勝利をおわめた徳川家康がこの道を通って凱旋した。家康凱旋路、天下統一に因み、江戸時代にはこの道を吉例街道と呼び、江戸・京都間の往来に盛んに利用された。


なぜか萩原宿が抜けています。



 北市場美濃路公園の入口をすぎたところで道が2つに分かれますが,左の方が美濃路です。右の広い方は,公園側に松並木があって惑わされそうになりますし,Googleマップ2021年6月現在)美濃路になっていますが,昭和10年1935年)ろに開通した,昔はなかった道です。

 地図 C ↘ 2020-12



 立部神社に隣接したところに山車があります。

 地図 D ↑ 2020-12

 説明板には縦書きで次のように書いてあります。

 稲沢市指定有形民俗文化財
山車 二軸
 毎年七月第三または第四土曜日
に行われる「こがし祭」に引かれ
るもので、元来は津島神社と同じ
川祭で五条川の枝川に浮かべた船
であったが、枝川の廃川に伴い陸
上で引く山車が新調された。
 高さ四mを測る。
 昭和五〇年四月一日指定
 稲沢市教育委員会


美濃路は十字路で右に折れます。まっすぐ進む道は高度成長期にできました。
 左にある立部神社は,明治維新前天王社といわれていました。見取絵図にも,牛頭天王と添えてあります。

 地図 E ↘ 2021-03


 立部神社の読みですが,ネットで調べたところ,「たてぶ/たてべ/たつぶ」ど様々です。近くに日下部町という地名があるので,神社の可能性もあります。

 十字路で右に折れた先です。美濃路は突き当たって左に折れます。

 地図 F ↙ 2021-03

垂井へ向かう美濃路は,T字路で右に折れます。

 地図 G ↖ 2021-03



は,鎌倉時代から続いている由緒ある寺です。国の重要文化財木造本堂の裏に建てられた文化財収納庫に安置されています。門を入ってすぐのところに説明板があります。
 見取絵図には,虚空蔵堂と添えてあります。

 地図 A ↑ 2021-03

 2020-12

 説明板には次のように書いてあります。縦書き,漢数字使用です。

白峰山 亀翁寺 曹洞宗
後小松天皇のころ14世紀末〜15世
紀初め)創建で、享保17年1732)
まで亀翁寺と称したが、寺号を春日井郡
下原新田の薬師堂に譲り、虚空蔵堂と称した。
昭和17年1942)号に復した。
  重要文化財
木造虚空蔵菩薩坐像 1躯 南北朝時代
    稲沢市教育委員会


亀翁寺の裏手に位置する北市場町東公園に,トイレがあります。



美濃路に面した駐車場に総見院總見院説明板があります。
 説明板があるところは稲沢市ですが,総見院清須市にあります。

 地図 B ↘ 2021-03

 説明板には縦書きで次のように書いてあります。

信長の菩提寺総見院
 清洲町の北端にあるこの寺は、最近
まで、この美濃路から織田信長公由
緒地」石柱碑と参道が見られた。
 この寺は、清洲城主時代の織田信雄
が父信長の菩提寺として、桑名大嶋の
安国寺を引取り、総見院を建てたのが
始まり。清洲越しで名古屋大須に移っ
た後、一六四四年、総見院第三代和尚
の隠居所を兼ねて、尾張藩祖徳川義直
が清洲の旧地に総見院として建てさせ
たものである。
 信長、信雄、義直の位牌や、信長、
義直の墓碑を祭る。本能寺の変直後に、
信雄が探し当てたという信長着用焼兜
が保存されている。
 美濃路まちづくり推進協議会



 十字路の一角に,かつては松の木と,興聖山總見院と彫られた寺標,それに説明板がありました。

 1991-08




総見院山門は,美濃路から南西に向かう道に面したところにあります。

 地図 C ↖ 2020-12

 総見院の境内に,織田信長墓碑があります。

 地図 D 2020-12


 彫られた字を大檀信長公台雷王と,なんとか読んでみましたが,雷王」違っているかもしれません。ところで台」いう漢字ですが,現在は臺」新字体として,たとえば土臺」土台」書くように,よく使われていますが,ここにある台」,敬意を表わす意味で古来から使われている本字です。


 見取絵図では,総見院美濃路を結ぶ参道があって,山門美濃路の方を向いていました。1946年撮影の航空写真国土地理院)見ると,やはりその参道があるように思われます。

清洲大嶋公園総見院の正面方70m)トイレがあります。この公園は,清須市内美濃路からは行きにくいところにあります。



美濃路稲沢市を出て清須市に入るところです。境界で舗装の状態が変わり,左側の側溝が少しずれています。境界線上の路面に国土交通省都市再生街区基本調査基準点設置されています。

 地図 E ↘ 2021-03