津島道の道標★がある①から稲葉宿の本陣跡⑨までの美濃路を歩きます。この間も,かつての宿場町★であったために歴史遺産や古民家★などが存在し,街道の面影★を残しています。本陣★があったところには,美濃路稲葉宿本陣跡ひろばが設けられています。
垂井に向かって戻る
① 津島道の道標をすぎてすぐの左手(北側)に宝光寺(寶光寺)があります。宝光寺は見取絵図★にもある古い寺です。
地図上のA点から↑ 2021-02
地図
② 稲葉宿には3つの問屋場★(西の問屋場,中の問屋場,東の問屋場)が置かれていましたが,そのうちの中の問屋場の跡に建つ古民家★の前には,稲葉宿問屋場址の石碑★が建っています。
地図上のB点から↑ 2021-02
地図
③ 明治5年(1872年)の創業を誇る藤市酒造の建物には,戦後期★に設置されたと思われる重厚な看板が残っています。
街路灯の支柱に美濃路しるべ★があります。
地図上のC点から↙ 2021-03
地図
④ 明治45年(1912年)に創業した稲沢電灯創業時の社名は稲沢電気(稲澤電気)でした。(稲澤電灯)の本社屋として昭和11年(1936年)に建てられた建物です。その後中部電力稲沢営業所などを経て,昭和59年(1984年)から稲沢市の民俗資料収蔵庫として使用されていましたが,耐震性に問題があることがわかり,平成29年(2017年)から空家になっています。建物は愛知県の近代化遺産に登録されています。
地図上のD点から↖ 2021-02
地図
⑤ 旧家の屋敷でしょうか。写真に写っているいくつかの古い建物は,すべて同じ敷地内にあります。
地図上のE点から↘ 2021-03
地図
⑥ 駐車場の片隅に,稲沢銀行跡地と彫られた標柱★があります。稲沢銀行(稲澤銀行)は地方銀行として明治33年(1900年)に設立されましたが,終戦翌月の昭和20年(1945年)9月に東海銀行に吸収合併されて,東海銀行稲沢支店(東海銀行稲澤支店)となりました。稲沢支店が国府宮駅前に移転後は太道相互銀行太道相互銀行は,1969年に名古屋信用金庫と合併して中京相互銀行になり,さらに1989年に中京銀行になりました。稲沢支店に代わり,今は駐車場になっています。
明治地図★によると,ここから数10mほど西方に稲沢町役場(稲澤町役場)がありました。
地図上のF点から↗ 2021-03
地図
⑦ とても複雑なかたちの屋根をもった古民家★があります。普通の民家でしょうか。それとも何か特別の建物だったのでしょうか。
地図上のG点から→ 2021-02
地図
建物の東側は,変わった形の屋根の一部分だけが残っているようです。この家屋にも虫籠窓★があります。
⑧ 美濃路が右(南)に折れる手前で,垂井の方を見たところです。見取絵図★を見ると,左手(南側)に脇本陣★,右手(北側)には高札場★がありました。今は何も見当たりませんが,地図を見ると美濃路のすぐ北に札ノ辻★という地名があります。周囲は新住居表示に変わっていますが,なぜかそこだけは古い地名が残してあります。
写真左端に美濃路しるべ★があります。
地図上のH点から← 2021-03
地図
⑨ 稲葉宿の本陣★があった場所に,令和2年(2020年)春,稲沢市が計画した美濃路稲葉宿本陣跡ひろばがオープンしました。本陣の門や塀の一部が再現され,50年以上前にこの場所に建てられて別の場所で保管されていた稲葉宿本陣跡の石碑★や,もともとここにあった稲沢町の道路元標★(写真左端)も戻ってきました。新たに美濃路と稲葉宿についての案内板も設置されました。
本陣跡ひろばは行事などに使用されることも考慮してつくられたため,本来は道に面しているはずの門や塀などが奥まったところにあります。
地図上のH点から↑ 2021-02
地図
門を入った先です。建物がありますが,看板等が見当たらないので建物の概要がわかりませんが,正面の壁に稲葉宿に関係がある絵図などが貼ってあり,パンフレットが置いてあります。ベンチやトイレもあります。
稲沢町道路元標(稲澤町道路元標)は,高さ70cmほどの標柱★です。道路元標★についての説明板は見当たりません。
熱田に向かって進む
地図:津島道の道標から美濃路稲葉宿本陣跡ひろばまでの美濃路 (●はトイレ)
① 津島道の道標をすぎてすぐの左手(北側)に宝光寺(寶光寺)があります。宝光寺は見取絵図★にもある古い寺です。
地図上のA点から↑ 2021-02
地図
② 稲葉宿には3つの問屋場★(西の問屋場,中の問屋場,東の問屋場)が置かれていましたが,そのうちの中の問屋場の跡に建つ古民家★の前には,稲葉宿問屋場址の石碑★が建っています。
地図上のB点から↑ 2021-02
地図
石碑の内容
稲葉宿問屋場址
四ッ家追分から分れたこの美濃路の稲葉
宿は 慶長五年に開設せられ 本陣 脇
本陣の外 小沢 東町 西町には 問屋
が置かれて人馬の往來 物資の輸送の便
に供されたが 文政五年頃には 人足四
十五人 馬四十五頭が常備せられ また
助郷の制もあつた ここは東町問屋場址
であり 宿役人伊東氏の住居である
昭和五十九年九月 日
稲沢ロータリークラブ建之
宿は 慶長五年に開設せられ 本陣 脇
本陣の外 小沢 東町 西町には 問屋
が置かれて人馬の往來 物資の輸送の便
に供されたが 文政五年頃には 人足四
十五人 馬四十五頭が常備せられ また
助郷の制もあつた ここは東町問屋場址
であり 宿役人伊東氏の住居である
昭和五十九年九月 日
稲沢ロータリークラブ建之
③ 明治5年(1872年)の創業を誇る藤市酒造の建物には,戦後期★に設置されたと思われる重厚な看板が残っています。
街路灯の支柱に美濃路しるべ★があります。
地図上のC点から↙ 2021-03
地図
④ 明治45年(1912年)に創業した稲沢電灯創業時の社名は稲沢電気(稲澤電気)でした。(稲澤電灯)の本社屋として昭和11年(1936年)に建てられた建物です。その後中部電力稲沢営業所などを経て,昭和59年(1984年)から稲沢市の民俗資料収蔵庫として使用されていましたが,耐震性に問題があることがわかり,平成29年(2017年)から空家になっています。建物は愛知県の近代化遺産に登録されています。
地図上のD点から↖ 2021-02
地図
⑤ 旧家の屋敷でしょうか。写真に写っているいくつかの古い建物は,すべて同じ敷地内にあります。
地図上のE点から↘ 2021-03
地図
⑥ 駐車場の片隅に,稲沢銀行跡地と彫られた標柱★があります。稲沢銀行(稲澤銀行)は地方銀行として明治33年(1900年)に設立されましたが,終戦翌月の昭和20年(1945年)9月に東海銀行に吸収合併されて,東海銀行稲沢支店(東海銀行稲澤支店)となりました。稲沢支店が国府宮駅前に移転後は太道相互銀行太道相互銀行は,1969年に名古屋信用金庫と合併して中京相互銀行になり,さらに1989年に中京銀行になりました。稲沢支店に代わり,今は駐車場になっています。
明治地図★によると,ここから数10mほど西方に稲沢町役場(稲澤町役場)がありました。
地図上のF点から↗ 2021-03
地図
⑦ とても複雑なかたちの屋根をもった古民家★があります。普通の民家でしょうか。それとも何か特別の建物だったのでしょうか。
地図上のG点から→ 2021-02
地図
建物の東側は,変わった形の屋根の一部分だけが残っているようです。この家屋にも虫籠窓★があります。
⑧ 美濃路が右(南)に折れる手前で,垂井の方を見たところです。見取絵図★を見ると,左手(南側)に脇本陣★,右手(北側)には高札場★がありました。今は何も見当たりませんが,地図を見ると美濃路のすぐ北に札ノ辻★という地名があります。周囲は新住居表示に変わっていますが,なぜかそこだけは古い地名が残してあります。
写真左端に美濃路しるべ★があります。
地図上のH点から← 2021-03
地図
⑨ 稲葉宿の本陣★があった場所に,令和2年(2020年)春,稲沢市が計画した美濃路稲葉宿本陣跡ひろばがオープンしました。本陣の門や塀の一部が再現され,50年以上前にこの場所に建てられて別の場所で保管されていた稲葉宿本陣跡の石碑★や,もともとここにあった稲沢町の道路元標★(写真左端)も戻ってきました。新たに美濃路と稲葉宿についての案内板も設置されました。
本陣跡ひろばは行事などに使用されることも考慮してつくられたため,本来は道に面しているはずの門や塀などが奥まったところにあります。
地図上のH点から↑ 2021-02
地図
石碑の内容
裏面
正面
この前面の南から西へ続く道路は 天正年間織田信雄が改修したと伝える東海道宮の宿と中山道垂井宿
とをむすぶ駅路で 美濃街道と称した
慶長年間此処小沢村と西に続く旧稲葉村とを合せて宿駅が置かれ稲葉宿と称したが 宿駅の中枢の本陣
は 小沢村のこの地点にあった 脇本陣は 西方百十米南側 東問屋場は 南方七十五米西側 中問屋場
は 西方二百二十米北側 西問屋場は 西方四百二十米南側にあった その他高札場は 西方六十五米の
稲葉小沢両村の境に 一里塚は 南方百八十米の街外れの両側にあった
この本陣跡には 明治維新後中島郡役所 中島地方事務所 稲沢保健所 稲沢農業改良普及所等が次々
に置かれてこの地方行政の中枢となった 稲葉小沢両村で稲葉宿を作り 明治二十年両村合併により 稲
沢の名称が起り 次いで 稲沢市への発展の渕源となった宿縁の地である
昭和四十四年十月 稲 沢 市 建 之
稲沢ライオンズクラブ寄贈 翠川 橋本四郎書
とをむすぶ駅路で 美濃街道と称した
慶長年間此処小沢村と西に続く旧稲葉村とを合せて宿駅が置かれ稲葉宿と称したが 宿駅の中枢の本陣
は 小沢村のこの地点にあった 脇本陣は 西方百十米南側 東問屋場は 南方七十五米西側 中問屋場
は 西方二百二十米北側 西問屋場は 西方四百二十米南側にあった その他高札場は 西方六十五米の
稲葉小沢両村の境に 一里塚は 南方百八十米の街外れの両側にあった
この本陣跡には 明治維新後中島郡役所 中島地方事務所 稲沢保健所 稲沢農業改良普及所等が次々
に置かれてこの地方行政の中枢となった 稲葉小沢両村で稲葉宿を作り 明治二十年両村合併により 稲
沢の名称が起り 次いで 稲沢市への発展の渕源となった宿縁の地である
昭和四十四年十月 稲 沢 市 建 之
稲沢ライオンズクラブ寄贈 翠川 橋本四郎書
稲葉宿本陣跡の碑
愛知県知事 桑原幹根書
案内板の内容
美濃路とは
美濃路は,中山道の垂井宿(岐阜県垂井町)から東海道の宮宿(名古屋市)を結ぶ全長14里24町15間(約57.5km)の街道です。
中山道の垂井宿からはじまり,途中には,大垣宿(岐阜県大垣市),墨俣宿(岐阜県大垣市),起宿(一宮市),萩原宿(一宮市),稲葉宿(稲沢市),清須宿(清須市),名古屋宿(名古屋市)の七宿があり,東海道の宮宿に合流します。また現在の岐阜県羽島市には,間の宿も置かれました。
慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦のとき,福島正則が先鋒として進撃し勝利後に徳川家康が凱旋したとき,この道を通って帰ったことからお悦び街道・吉例街道とも呼ばれます。五街道と同じく,江戸幕府直轄の街道で,道中奉行の支配下に置かれ,道幅・松並木・一里塚・宿場・助郷も五街道なみとなっています。
東海道の鈴鹿峠越えや海路の七里の渡しに比べ,遠回りになりますが,安全性が高く,天候に左右されず,予定どおりの通行が可能であったため,女性にも重宝され,多くの旅人が利用しました。
徳川家康・秀忠・家光らの将軍をはじめ,参勤交代の大名や朝鮮通信使,琉球王使,お茶壷道中など,さらには将軍に献上された象もこの街道を通ったなど,一般民衆の旅の利用はもとより多くの人たちがこの道を往来しました。
稲葉宿
稲葉宿は,家数336軒,人口1,572人,旅籠屋8軒,本陣・脇本陣各1軒,問屋場3か所がありました[天保14年(1843)]。本陣である小沢村の原所次右衛門の家は,門構・玄関付で建坪133坪(約439m2),脇本陣である稲葉村東町の吉田又吉の家は,門構・玄関付で建坪70坪(約231m2)でした。稲葉村西町の西問屋場は原家と伊東家が交代でつとめ,稲葉村東町の中問屋場を伊東家,小沢村の東問屋場を原家があずかり,1問屋場2日交代でつとめたといいます。宿場の長さは8町21間(約911m)でした。
美濃路とは
美濃路は,中山道の垂井宿(岐阜県垂井町)から東海道の宮宿(名古屋市)を結ぶ全長14里24町15間(約57.5km)の街道です。
中山道の垂井宿からはじまり,途中には,大垣宿(岐阜県大垣市),墨俣宿(岐阜県大垣市),起宿(一宮市),萩原宿(一宮市),稲葉宿(稲沢市),清須宿(清須市),名古屋宿(名古屋市)の七宿があり,東海道の宮宿に合流します。また現在の岐阜県羽島市には,間の宿も置かれました。
慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦のとき,福島正則が先鋒として進撃し勝利後に徳川家康が凱旋したとき,この道を通って帰ったことからお悦び街道・吉例街道とも呼ばれます。五街道と同じく,江戸幕府直轄の街道で,道中奉行の支配下に置かれ,道幅・松並木・一里塚・宿場・助郷も五街道なみとなっています。
東海道の鈴鹿峠越えや海路の七里の渡しに比べ,遠回りになりますが,安全性が高く,天候に左右されず,予定どおりの通行が可能であったため,女性にも重宝され,多くの旅人が利用しました。
徳川家康・秀忠・家光らの将軍をはじめ,参勤交代の大名や朝鮮通信使,琉球王使,お茶壷道中など,さらには将軍に献上された象もこの街道を通ったなど,一般民衆の旅の利用はもとより多くの人たちがこの道を往来しました。
稲葉宿
稲葉宿は,家数336軒,人口1,572人,旅籠屋8軒,本陣・脇本陣各1軒,問屋場3か所がありました[天保14年(1843)]。本陣である小沢村の原所次右衛門の家は,門構・玄関付で建坪133坪(約439m2),脇本陣である稲葉村東町の吉田又吉の家は,門構・玄関付で建坪70坪(約231m2)でした。稲葉村西町の西問屋場は原家と伊東家が交代でつとめ,稲葉村東町の中問屋場を伊東家,小沢村の東問屋場を原家があずかり,1問屋場2日交代でつとめたといいます。宿場の長さは8町21間(約911m)でした。
稲葉宿の本陣は,明治5年(1872年)の区制施行時から愛知県第五大区会所(後に愛知県中島郡役所)として使用されていましたが,明治21年(1888年)に,門や塀などを残して,建て直されました。写真を見ると,門前の西側に高札場★のような掲示施設があります。
戦後期★になって,古い建物はすべて取り壊され,稲沢保健所が建てられました。保健所の移転後は稲沢農業改良普及所(その後名称はいろいろ変わって,最後は愛知県尾張農林水産事務所農業改良普及課稲沢駐在室)として使用されていました。
農林水産事務所は平成27年(2015年)に取り壊され,跡地は更地になりました。稲沢市は,平成7年(1995年)ごろ,ここに稲葉宿や美濃路を活かした仮称美濃路街道資料館をつくる計画を立てていましたので,念願がかなったことになります。
中島郡役所の写真
大正5年(1916年)撮影 中島郡名所旧蹟写真帖(稲沢市立明治中学校の許可を得て掲載)
戦後期★になって,古い建物はすべて取り壊され,稲沢保健所が建てられました。保健所の移転後は稲沢農業改良普及所(その後名称はいろいろ変わって,最後は愛知県尾張農林水産事務所農業改良普及課稲沢駐在室)として使用されていました。
農林水産事務所の写真
Google Street View 2012年2月撮影
農林水産事務所は平成27年(2015年)に取り壊され,跡地は更地になりました。稲沢市は,平成7年(1995年)ごろ,ここに稲葉宿や美濃路を活かした仮称美濃路街道資料館をつくる計画を立てていましたので,念願がかなったことになります。
門を入った先です。建物がありますが,看板等が見当たらないので建物の概要がわかりませんが,正面の壁に稲葉宿に関係がある絵図などが貼ってあり,パンフレットが置いてあります。ベンチやトイレもあります。
稲沢町道路元標(稲澤町道路元標)は,高さ70cmほどの標柱★です。道路元標★についての説明板は見当たりません。
熱田に向かう美濃路は,本陣跡ひろばの前で右(南)に折れて,写真の後方へ向かいます。折れた先は道幅が少し狭くなります。
写真の左(東)へ向かう道も昔から存在し,ところどころに古民家★が建っています。その道について,見取絵図★には村道 一ノ宮江道法一里 笠松江道法三里と書いてあります。
地図上のI点から↓ 2021-03
地図
本陣跡ひろばのすぐ東にある崇福寺と,200mほど北方にある神明社は,共に見取絵図★にもあります。
神明社の東に道をはさんで隣接する小沢児童遊園に,トイレがあります。
地図
写真の左(東)へ向かう道も昔から存在し,ところどころに古民家★が建っています。その道について,見取絵図★には村道 一ノ宮江道法一里 笠松江道法三里と書いてあります。
地図上のI点から↓ 2021-03
地図
本陣跡ひろばのすぐ東にある崇福寺と,200mほど北方にある神明社は,共に見取絵図★にもあります。
神明社の東に道をはさんで隣接する小沢児童遊園に,トイレがあります。
地図
熱田に向かって進む