この間は,清須宿もあり,最後の100mほどが松並木だった以外は昔から美濃路の両側に家並が続いていたところです。新幹線から100mほどが区画整理によって,五条橋あたりの300mほどが五条川の改修によって,古い町並が取り壊されてしまいましたが,それ以外は昔から★の美濃路が残っているようで,ところどころに古民家★も見られます。沿道には清須宿の本陣跡/清凉寺/五条橋など,近くには清須城の跡/再建された清洲城/日吉神社などがあります。
この間は,清須宿もあり,最後の100mほどが松並木だった以外は昔から美濃路の両側に家並が続いていたところです。新幹線から100mほどが区画整理によって,五条橋あたりの300mほどが五条川の改修によって,古い町並が取り壊されてしまいましたが,それ以外は昔から★の美濃路が残っているようで,ところどころに古民家★も見られます。沿道には清須宿の本陣跡/清凉寺/五条橋など,近くには清須城の跡/再建された清洲城/日吉神社などがあります。
見取絵図★では,このあたりから清須宿の集落に入り,美濃路に沿って家並が続きます。
その道について,見取絵図★には濃州中嶋郡八神村道四里と添えてあります。八神村は木曽川と長良川の間にあった村で,現在の岐阜県羽島市桑原町八神あたりになります。
◎この十字路から東へ100mあまり行ったところに,トイレがあります。
明治天皇北陸東海地方 御巡幸ノミキリ畏クモ當處ヲ以テ 御小休所ニ充テサセ給ヘリ抑
此ノ處タル清洲宿本陣ノ後ニシテ祖父良介醫ヲ業トシ是ニ在リシカ忝クモ此ノ光榮ニ浴セリ
洵ニ家門永世ノホマレ何モノカ之ニ如カン爾来 聖蹟儼トシテ存セシニ偶明治二十四年秋
濃尾大震起ルヤ圖ラスモ 便殿等亦其ノ災禍ヲ蒙リテ鳥有ニ歸シ纔ニ此ノ門並ニ松樹ノミ
之カ潰構ヲ保テリ噫春風秋雨幾星霜門扉語ラス松籟颯颯タルノミ仍リテ茲ニ新ニ碑ヲ建テ
以テ 聖澤ヲ後昆ニ傳フ 尾張 泉城 石田峻雄謹書
駐蹕は,君主が旅行中に休憩すること/ミキリ:みぎり=ちょうどそのとき/忝クモ:かたじけなくも/偶:たまたま/圖ラスモ:はからずも/亦:もまた/蒙リ:こうむり/纔ニ:わずかに/噫:ああ/籟:らい=笛のこと/仍リテ:よりて/ 茲ニ:ここに/祖父良介:林良介
美濃路清須宿本陣跡
清須宿は、はじめ一場桑名町に置かれたが、1668年火災に遭い、ここに移された。以来この本陣は、将軍上洛、大名参勤、勅使や朝鮮・琉球使節、お茶壷の参府、時には大象の下向などの休泊所となり、美濃路のなかで最も豪荘な建物であった。
1878年明治天皇一行も小休した。
1891年の濃尾地震で建物が倒壊、火災に遭い、わずかに免れたこの正門のみが、縮小して再建され、唯一清須宿本陣の名残となっている。
美濃路まちづくり推進協議会
西に向かう道は津島の方へ通じていて,角には道標★がありましたが,高度成長期★に道路拡張のために撤去され,清洲小学校で保管されています。
その道について,見取絵図には土田村江出ル八丁 佐屋路神守宿江モ出ル道法四里と添えてあります。土田村は現在の清須市土田,佐屋路神守宿は現在の津島市神守町にありました。
指差し道標のほかに,明治22年(1889年)に架設された五条橋の親柱★が4本,清洲町道路元標★,字が消えかけていますが,右甚目寺は読むことができる,古そうな道標もあります。
(写真は清洲小学校の許可を得て撮影しました。)
⑳ 五条川の堤防道路「五条川水辺の散策路」に,公衆トイレがあります。ここから50mあまり南です。
清凉寺と札の辻
当寺は寛永年間に近くの土田(清洲町)からこの地に移り、洪福山清凉禅寺と改めた。子安観音を本尊とし、延命地蔵、弁天、大黒、薬師、秋葉、百度石などを祭る庶民信仰の寺である。
この付近は、尾張名所図会にも描かれている通り、美濃路清洲宿の中心地で、鍵形の曲がり角には高札が立ち、「札の辻」と呼ばれた。津島への分岐を示す指差し道標が最近まで残っていた。
常夜灯も寺入口にあった。山門上層の鐘撞堂には、1712年以来、宿内に時を告げた時鐘が今も残っている。清洲越し以後の清洲になくてはならない存在となっている。
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◎津島の方に向かう道の北に位置する永安寺公園に,トイレがあります。
清凉寺の前から,美濃路は両側に歩道が付く広い道になり,街道の面影★は失われてしまった感じがします。
見取絵図★に描かれている五条橋は,欄干★がある板橋で,五条橋と添えてあります。この先,次の「欄干がある橋」は新川橋でした。
すでに取り上げた吉祥院跡の標柱や清凉寺前の標柱と,彫られた年月が同じなのは,偶然とは思えません。
五条橋
五条橋は室町期、斯波氏の時代から架かり、1910年の清洲越しで城と共に名古屋堀川に移されるまで、まさに「御城橋」の役を果たしてきた。
信長が愛馬に跨がって渡り、豊臣秀吉がほぼ、全国統一を成しとげた小田原征伐の帰路、この橋の上で上畠神社へ社領の寄進を行った。
清洲越しの後、美濃路宿駅として清洲が復活すると、旅人の往来著しく、五条橋は何度も改築されてきた。
現在の橋は名古屋移転前の擬宝珠の親柱と銘文をそのまま復元したもの。
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大手橋は,五条川の対岸に再建された清洲城へ行くために架けた新しい橋むかしの城は五条川のこちら側にあって,橋はなかったようです。です。大手門おおてもん=城の正門のこと。の前にある橋ということで,この名が付けられたと思います。
このあたりに建っている石碑も案内板も,すべて「清洲」と書いてあって,「清須」は「清須市」として使われている以外に見当たりません。その理由は,古い石碑でさえも,一般に「清洲」が使われるようになっていた幕末に建てられたことと,古城跡を整備して公園を造ったり新しい城を建てたりしたのが清洲町だったことによると思われます。
ところが見取絵図★では,右に曲がった先の美濃路と五条川との間に集落があります。いったい何が変わってしまったのでしょうか?
昭和21年(1946年)撮影の航空写真(国土地理院)を見ると,見取絵図と同様に,五条川と美濃路との間に集落があったことがわかります。実は,現在の五条橋は平成8年(1996年)に完成しましたが,その前におこなわれた五条川の大改修によって左岸(東側)が大きく削られ,そこにあったたくさんの建物が取り壊されてしまったのです。それにともなって川幅が広くなり,架け替えられた五条橋は旧五条橋の2倍近くも長くなりました。
美濃路はここまで県道127号線(助七西田中線)でしたが,ここから,鉛筆マーク H で示したところまでは普通の道★になります。
長者橋を渡った県道67号線(名古屋祖父江線)は,この建物に突き当たるようにして美濃路で止まっていましたが,平成24年(2012年)に東に向かって延長されました。そのとき,この建物は南東の方へ少し移されました。
日吉神社は,見取絵図★でも比較的大きな神社として描かれ,この位置から参道と思われる道が続いています。
日吉神社
この石標を東に行けば、日吉神社に着く。七七一年の疫病除災祈願が始まりと伝え、その後、清洲城下の氏神として崇められた。
小牧長久手戦で兵火に遭ったが、家康の制札で安堵され、秀吉の正室北政所が清洲で生まれた縁で修理を行った。
秀吉の病気平癒祈願、松坂屋の始祖伊藤蘭丸による絵馬奉納、黄金六〇枚発掘等、数々の出来事があった。
山王社の使いである、猿の像が境内各所に見られ、申年にはご利益も大という。
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宝亀二年(七七一年)
当地疫病流行のおり
素盞鳴尊 大己貴命
二神を祀り止むと云う
織田氏清洲在城時は
城下総鎮守と崇敬し
天正八年近江坂本より
山王二十一社を勧請した
織田 豊臣 徳川 各氏の
奉納事蹟多数有あり
日吉丸(豊臣秀吉幼名)は
母が当神社に祈願し
授けられたと伝える
見取絵図★でも明治地図★でも,ここまで続いてきた家並が終わって,この先は松並木になります。
本町の松原の説明板には縦書きで次のように書いてあります。
本町の松原
今は全くその面影はないが、昔はこ
の下本町の旧NTT新川清洲営業所
あたりから、名鉄ガードを越えた丸の
内にかけての美濃路の両側には、本町
松原と呼ばれた松並木があった。追い
はぎがでたこともあったという。
明治維新後は人家も増え、大正昭和
期には「竹曽」という旅篭もあり、旅
人や大八車の農民、馬車の商人などの
往来で活気があった。
最後は、東側三十八本程の老松樹だ
けになり、それも昭和十九年には戦争
による材木や油不足を補うため、すべ
て切り倒され、道幅だけが広くなった。
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僕の家にもあったよ
私の家で見たことあるよ
昭和35年代〜60年代
人情味あふれた良き
昭和の時代を少し
思い出してみませんか!