清須市 2

美濃路探訪


最終更新:2022-03-05 スタート:2021-06-17


はじめに

美濃路このような箇所をすると説明などが表示されます。が付いている語句は美濃路探訪」ついてここだけ事典」詳しい説明が書いてあります。


で出現したものは,で閉じます。


見本の画像をすると大きくなり,再びすると元に戻ります。


敬称は省かせていただきました。


 東海道新幹線をくぐったところから,名鉄名古屋本線をくぐるところまでの美濃路を取り上げます。①〜⑲
 この間は,清須宿もあり,最後の100mほどが松並木だった以外は昔から美濃路の両側に家並が続いていたところです。新幹線から100mほどが区画整理によって,五条橋あたりの300mほどが五条川の改修によって,古い町並が取り壊されてしまいましたが,それ以外は昔から美濃路が残っているようで,ところどころに古民家も見られます。沿道には清須宿の本陣跡清凉寺五条橋など,近くには清須城の跡再建された清洲城日吉神社などがあります。

地図:東海道新幹線から名鉄名古屋本線まで美濃路
地図:東海道新幹線から名鉄名古屋本線まで美濃路





この先で美濃路は狭くなって,歩道がなくなります。
 見取絵図では,このあたりから清須宿集落に入り,美濃路に沿って家並が続きます。

 地図 A ↓ 2021-03



清須宿本陣があった手前に,西に向かう道があります。
 その道について,見取絵図には濃州中嶋郡八神村道四里と添えてあります。木曽川長良川の間にあった村で,現在の岐阜県桑原町八神あたりになります。

 地図 B ↙ 2021-03

この十字路から東へ100mあまり行ったところに,トイレがあります。




清須宿本陣美濃路の中では最大の規模でした。明治11年1878年)は,北陸東海巡幸中の明治天皇一行の休息場所としても使用されましたが,明治24年1891年)地震でほとんどが倒壊しました。現在残っているのは,その後2/3の大きさで再建された正門で,門前には明治天皇御駐蹕之所が建っています。説明板もあります。

 地図 C ← 2021-03

 の向かって左側,正面,右側には次のような文字が彫られています。
 陸軍大将松井根書 
 
 明治天皇御駐蹕之所
 
 明治十一年十月二十日
 明治天皇北陸東海地方 御巡幸ノミキリ畏クモ當處ヲ以テ 御小休所ニ充テサセ給ヘリ抑 
 此ノ處タル清洲宿本陣ノ後ニシテ祖父良介醫ヲ業トシ是ニ在リシカ忝クモ此ノ光榮ニ浴セリ
 洵ニ家門永世ノホマレ何モノカ之ニ如カン爾来 聖蹟儼トシテ存セシニ偶明治二十四年秋
 濃尾大震起ルヤ圖ラスモ 便殿等亦其ノ災禍ヲ蒙リテ鳥有ニ歸シ纔ニ此ノ門並ニ松樹ノミ
 之カ潰構ヲ保テリ噫春風秋雨幾星霜門扉語ラス松籟颯颯タルノミ仍リテ茲ニ新ニ碑ヲ建テ
 以テ 聖澤ヲ後昆ニ傳フ              尾張 泉城 石田峻雄謹書

 

 駐蹕は,君主が旅行中に休憩すること/ミキリ:みぎり=ちょうどそのとき/忝クモ:かたじけなくも/偶:たまたま/圖ラスモ:はからずも/亦:もまた/蒙リ:こうむり/纔ニ:わずかに/噫:ああ/籟:らい=笛のこと/仍リテ:よりて/ 茲ニ:ここに/祖父良介:林良介

 説明板には次のように書いてあります。縦書き,漢数字使用です。文の折り返しは,現物のとおりではありません。

美濃路清須宿本陣跡
 清須宿は、はじめ一場桑名町に置かれたが、1668年火災に遭い、ここに移された。以来この本陣は、将軍上洛、大名参勤、勅使や朝鮮・琉球使節、お茶壷の参府、時には大象の下向などの休泊所となり、美濃路のなかで最も豪荘な建物であった。
 1878年明治天皇一行も小休した。
1891年の濃尾地震で建物が倒壊、火災に遭い、わずかに免れたこの正門のみが、縮小して再建され、唯一清須宿本陣の名残となっている。
   美濃路まちづくり推進協議会


見取絵図を見ると,このあたりに脇本陣,その向かいあたりに問屋場があったと思われますが,何も残ってないようです。

 地図 D ↗ 2021-04



美濃路がほぼ直角に曲がるところから,北と西を見たところです。

 地図 F ↑ 2021-03

 地図 E ← 2021-03

 見取絵図を見ると,角に高札場,そのすぐ北に脇本陣があったと思われますが,何も残ってないようです。
 西に向かう道は津島の方へ通じていて,角には道標がありましたが,高度成長期に道路拡張のために撤去され,清洲小学校で保管されています。
 その道について,見取絵図には土田村出ル八丁 佐屋路神守宿モ出ル道法四里と添えてあります。は現在の清須市土田佐屋路神守宿は現在の津島市神守町にありました。

 清洲小学校の校庭に,石碑などが立ち並んでいる一角があり,からもってきた道標もあります。その道標は指差しが描かれているのでし道標いわれていました。下の方は土中にあって読めませんが,正面南向き)甚目 つし,向かって右側に佐屋,左側に名古屋立までは読めます。
 指差し道標のほかに,明治22年1889年)架設された五条橋親柱が4本,清洲町道路元標,字が消えかけていますが,右甚目寺は読むことができる,古そうな道標もあります。
 (写真は清洲小学校の許可を得て撮影しました。

 地図 I 2021-05

五条川の堤防道路五条川水辺の散策路公衆トイレがあります。ここから50mあまり南です。




 は,山門の上に鐘楼を設けた鐘楼門が印象的で,見取絵図にも描かれています。入口の左側に建っている標柱は,正面は城西十八観音第一番まで,側面は明治四十二年一月建之まで,なんとか読むことができました。

 地図 G ↓ 2021-03

 写真の左にある説明板には次のように書いてあります。縦書き,漢数字使用です。文の折り返しは,現物のとおりではありません。

清凉寺と札の辻
 当寺は寛永年間に近くの土田清洲町)らこの地に移り、洪福山清凉禅寺と改めた。子安観音を本尊とし、延命地蔵、弁天、大黒、薬師、秋葉、百度石などを祭る庶民信仰の寺である。
 この付近は、尾張名所図会にも描かれている通り、美濃路清洲宿の中心地で、鍵形の曲がり角には高札が立ち、札の辻」呼ばれた。津島への分岐を示す指差し道標が最近まで残っていた。
 常夜灯も寺入口にあった。山門上層の鐘撞堂には、1712年以来、宿内に時を告げた時鐘が今も残っている。清洲越し以後の清洲になくてはならない存在となっている。
   美濃路まちづくり推進協議会


津島の方に向かう道の北に位置する永安公園に,トイレがあります。

 地図



見取絵図を見ると,このあたりに脇本陣があったと思われます。
 清凉寺の前から,美濃路は両側に歩道が付く広い道になり,街道の面影は失われてしまった感じがします。

 地図 H ↙ 2021-04



五条橋のたもとに清洲古城趾標柱五条橋説明板があります。標柱は,清洲城の方へ向かう人からよく見えるような向きに置かれています。
 見取絵図に描かれている五条橋は,欄干がある板橋で,五条橋と添えてあります。この先,次の欄干がある橋」新川橋でした。

 地図 A → 2021-03

 標柱の正面と裏面には次のような文字が彫られています。

 清洲古城趾
 是より弐丁 
 
 
 明治四十二年一月竹田晨正建之


 すでに取り上げた吉祥院跡の標柱清凉寺前の標柱と,彫られた年月が同じなのは,偶然とは思えません。


 説明板には次のように書いてあります。縦書き,漢数字使用です。文の折り返しは,現物のとおりではありません。

五条橋
 五条橋は室町期、斯波氏の時代から架かり、1910年の清洲越しで城と共に名古屋堀川に移されるまで、まさに御城橋」役を果たしてきた。
 信長が愛馬に跨がって渡り、豊臣秀吉がほぼ、全国統一を成しとげた小田原征伐の帰路、この橋の上で上畠神社へ社領の寄進を行った。
 清洲越しの後、美濃路宿駅として清洲が復活すると、旅人の往来著しく、五条橋は何度も改築されてきた。
 現在の橋は名古屋移転前の擬宝珠の親柱と銘文をそのまま復元したもの。
   美濃路まちづくり推進協議会




 五条橋の手前を左に100mほど行くと,大正11年1922年)開園した清洲公園に着きます。その中でも,織田信長濃姫あるこのあたりは,パワースポットとして人気があるそうです。織田信長公の像は昭和11年1936年)濃姫の像は平成24年2012年)ここに置かれました。公園内にトイレがあります。

 地図 B 2021-03



 五条川に沿って東海道新幹線東海道線の下をくぐると,平成元年1989年)清洲町の町制100周年を記念して造られた,清洲城と赤い欄干大手橋が目の前に見えてきます。380年ほど前に消えた清須城の姿は記録に残っていなかったので,城の形は犬山,天守の赤いをモデルに,デザインされたとのことです。

 地図 C → 2021-03


 大手橋は,五条川の対岸に再建された清洲城へ行くために架けた新しい橋むかしの城は五条川のこちら側にあって,橋はなかったようです。です。大手門おおてもん=城の正門のこと。の前にある橋ということで,この名が付けられたと思います。



 本丸跡ると,弘化5年1848年)ろに建てられた右大臣織田信長公古城跡と彫られた石碑と,文久2年1862年)建てられた清洲城が並んでいます。清洲公園東海道線東海道新幹線で分断されたかたちになっていますが,本丸跡などがある北の方は,清洲古城跡公園ともよばれています。見取絵図には,廃墟のようなところに信長城跡と添えてあります。

 地図 D 2021-03

 このあたりに建っている石碑案内板も,すべて書いてあって,清須市して使われている以外に見当たりません。その理由は,古い石碑でさえも,一般に清洲使われるようになっていた幕末に建てられたことと,古城跡を整備して公園を造ったり新しい城を建てたりしたのが清洲町だったことによると思われます。



 五条橋から北の方を眺めたところです。正面に東海道新幹線名二環などの橋梁五条川の左側に清洲公園,右側に清洲城が見えます。

 地図 E ↗ 2021-03



五条橋を渡った先です。ほぼまっすぐ東に向かう道は,見取絵図には春日井郡小牧道 犬山城下町道法七里 中山道太田宿道法八里 中山道伏見宿道法十里などと添えてあります。

 地図 F → 2021-03



五条橋を渡った先の一郭に,清須の前田利家とまついう表題の説明板が設置されています。平成14年2002年)放送されたNHK大河ドラマ利家とまつちなんで設置されたものと思われます。

 地図 H ↓ 2021-03



五条橋を渡ってここで右に折れた美濃路は,五条川の堤防上を通っています。
 ところが見取絵図では,右に曲がった先の美濃路五条川との間に集落があります。いったい何が変わってしまったのでしょうか?

 地図 G ↓ 2021-04


 昭和21年1946年)影の航空写真国土地理院)見ると,見取絵図と同様に,五条川美濃路との間に集落があったことがわかります。実は,現在の五条橋は平成8年1996年)完成しましたが,その前におこなわれた五条川大改修によって左岸東側)大きく削られ,そこにあったたくさんの建物が取り壊されてしまったのです。それにともなって川幅が広くなり,架け替えられた五条橋旧五条橋の2倍近くも長くなりました。




歩道の先が階段とスロープで下っていますが,この下の低い位置に見えているところが,当時の美濃路です。五条川の改修によって,堤防がかなり上げされたことがわかります。

 地図 I ↓ 2021-04



美濃路はこのあたりから,ほぼまっすぐ南に向かいます。

 地図 J ↓ 2021-03



長者橋東差点の南東角に,江戸時代から続いている旧家の母家が建っています。
 美濃路はここまで県道127号線助七西田中線したが,ここから,鉛筆マーク H で示したところまでは普通の道になります。

 地図 A ↘ 2021-04


 長者橋を渡った県道67号線名古屋祖父江線,この建物に突き当たるようにして美濃路で止まっていましたが,平成24年2012年)東に向かって延長されました。そのとき,この建物は南東の方へ少し移されました。




 美濃路から久証寺久證寺山門鐘楼が見えます。久証寺見取絵図にもある古い寺です。

 地図 B ← 2021-03



美濃路から見えるところに神社道標と思われる標柱説明板があります。
 日吉神社は,見取絵図でも比較的大きな神社として描かれ,この位置から参道と思われる道が続いています。

 地図 C → 2021-04

 説明板には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。

日吉神社
 この石標を東に行けば、日吉神社に着く。七七一年の疫病除災祈願が始まりと伝え、その後、清洲城下の氏神として崇められた。
 小牧長久手戦で兵火に遭ったが、家康の制札で安堵され、秀吉の正室北政所が清洲で生まれた縁で修理を行った。
 秀吉の病気平癒祈願、松坂屋の始祖伊藤蘭丸による絵馬奉納、黄金六〇枚発掘等、数々の出来事があった。
 山王社の使いである、猿の像が境内各所に見られ、申年にはご利益も大という。
   美濃路まちづくり推進協議会


 神社の境内に,高さが5mほどもある巨大な石灯籠が建っています。この石灯籠は,美濃路が通っていた枇杷のたもとに建てられたものですが,明治17年1884年)橋の架け替えにともなって旧清洲町役場に移設され,さらに昭和37年1962年)日吉神社に再移設されました。台座に橋詰町中と彫ってあることからも,建てられたところが想像できます。橋詰町はあとで取り上げますが,枇杷島小橋があった北に位置します。

 地図 D ↗ 2021-05

 地図 E ↑ 2021-04

 道路に面したところに由緒板があります。由緒板には縦書きで次のように書いてあります。

宝亀二年七七一年)
当地疫病流行のおり
素盞鳴尊 大己貴命
二神を祀り止むと云う
織田氏清洲在城時は
城下総鎮守と崇敬し
天正八年近江坂本より
山王二十一社を勧請した
織田 豊臣 徳川 各氏の
奉納事蹟多数有あり
日吉丸豊臣秀吉幼名)
母が当神社に祈願し
授けられたと伝える




美濃路に戻って南の方を見たところです。左側の今は駐車場になっているところも,何年か前までは古民家が建っていました。

 地図 F ↓ 2021-04



美濃路は再び県道127号線と合流して,道幅が2倍以上も広くなります。
 見取絵図でも明治地図でも,ここまで続いてきた家並が終わって,この先は松並木になります。

 地図 G ↓ 2021-04



壁の一郭が,美濃路の道しるべ/昔の清洲の写真/木製の窓枠に収めた多様の板ガラス/本町の松原昭和の硝子説明板などの展示コーナーになっている建物があります。

 地図 H 2021-05

 写真は,清洲の並木清洲飛行場/西枇杷島警察署/清洲郵便局の4枚があります。
 本町の松原説明板には縦書きで次のように書いてあります。

  本町の松原
 今は全くその面影はないが、昔はこ
の下本町の旧NTT新川清洲営業所
あたりから、名鉄ガードを越えた丸の
内にかけての美濃路の両側には、本町
松原と呼ばれた松並木があった。追い
はぎがでたこともあったという。
 明治維新後は人家も増え、大正昭和
期には竹曽」いう旅篭もあり、旅
人や大八車の農民、馬車の商人などの
往来で活気があった。
 最後は、東側三十八本程の老松樹だ
けになり、それも昭和十九年には戦争
による材木や油不足を補うため、すべ
て切り倒され、道幅だけが広くなった。
    美濃路まちづくり推進協議会


 昭和の硝子説明板には次のように書いてあります。
 昭和の硝子
僕の家にもあったよ
私の家で見たことあるよ
昭和35年代〜60年代
人情味あふれた良き
昭和の時代を少し
思い出してみませんか!