この間は,最初の250mほどが松並木でしたが,その後は昔から美濃路の両側に家並が続いていて,家並が始まってまもなくのところに高札場★が,終わりぐらいのところに一里塚★がありました。松並木だったところは昭和初期に道路が拡幅されて,家が建ち並びはじめましたが,それ以外は昔からの美濃路が残っているようで,ところどころに古民家★も見られます。沿道には,「津島道の道標/今川塚供養碑」が保存されている正覚寺や一里塚碑などがあります。
名鉄名古屋本線をくぐったところから,名鉄津島線の踏切までの美濃路を取り上げます。①〜⑧
この間は,最初の250mほどが松並木でしたが,その後は昔から美濃路の両側に家並が続いていて,家並が始まってまもなくのところに高札場★が,終わりぐらいのところに一里塚★がありました。松並木だったところは昭和初期に道路が拡幅されて,家が建ち並びはじめましたが,それ以外は昔からの美濃路が残っているようで,ところどころに古民家★も見られます。沿道には,「津島道の道標/今川塚供養碑」が保存されている正覚寺や一里塚碑などがあります。
この間は,最初の250mほどが松並木でしたが,その後は昔から美濃路の両側に家並が続いていて,家並が始まってまもなくのところに高札場★が,終わりぐらいのところに一里塚★がありました。松並木だったところは昭和初期に道路が拡幅されて,家が建ち並びはじめましたが,それ以外は昔からの美濃路が残っているようで,ところどころに古民家★も見られます。沿道には,「津島道の道標/今川塚供養碑」が保存されている正覚寺や一里塚碑などがあります。
地図:名鉄名古屋本線から名鉄津島線の踏切までの美濃路
② このあたりは明治地図★では松並木でした。美濃路は東側に向かって拡幅されたこともあってか,西側にはやや古い家屋が残っています。
地図 A ↙ 2021-04
③ 美濃路はここで左(東)に折れます。
見取絵図★見ると,ここで折れる前あたりで松並木は終わって,この先の美濃路は熱田に至るまで,ほとんど途切れなく家並が続いています。
見取絵図★見ると,ここで折れる前あたりで松並木は終わって,この先の美濃路は熱田に至るまで,ほとんど途切れなく家並が続いています。
地図 B ↓ 2021-04
左(東)に折れた先の美濃路です。美濃路はここから普通の道★になります。
地図 C → 2021-05
④ 見取絵図★によると,このあたりに高札場★がありました。
地図 D ↗ 2021-04
高札場★があったところをすぎて右(ほぼ南)に曲がった先です。美濃路が稲沢市から清須市に入るあたりの雰囲気になんとなく似ていて,街道の面影★も残っています。
地図 E ↓ 2021-04
浄休寺(淨休寺)は見取絵図★にもある古い寺です。
地図 F ← 2021-04
⑤ ユニークな看板があって,美濃路に面したところに「美濃路」と書いてあります。工芸品「曲げわっぱ」などの製作販売を続けている伊勢安商店の店先に置かれていています。
地図 G 2021-04
⑥ 美濃路に面した正覚寺(正覺寺)の入口に,このあとで取り上げる須ヶ口の一里塚★の脇にあった道標★と,正覚寺についての説明板があります。
地図 A → 2021-04
2021-04
道標は板状の天然石で,表面だけに次のような文字が彫ってあります。「南無阿弥陀」の上には「阿弥陀如来」を意味する梵語が置かれています。右/是/西はくずし字,つしまの「ま」は万葉仮名です。元の状態よりも深く埋め込まれているため,土中にあると思われる( )内の字は推測です。
右 みのかい(どう)
南無阿弥陀(佛)
是より
西つしまか(いどう)
右 みのかい(どう)
南無阿弥陀(佛)
是より
西つしまか(いどう)
説明板には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
大雄山正覚寺(浄土宗)
関ヶ原の戦いの功で清須城主となった松平忠吉(徳川家康四男)が、亡母西郷局(後に宝台院という)の菩提寺として、前任地の忍(埼玉県行田市)にあった大雄山正覚寺を一六〇三年(慶長八)に、ここ清須外町に移したのが当寺の始まり。満誉上人を開山とした。
忠吉は寺野村で百石の寺領を寄進するなど、保護に努めたが、一六〇七年(慶長一二)、二八才の若さで跡継ぎもなく江戸にて逝去した。家康の命により葬儀は増上寺で営まれ、位牌は当寺に安置された。翌年の一周忌法要は、家康制札のもと、二一日間という長行が当寺で行われた。
一六一〇年(慶長一五)に始まる清須越で、当寺は忠吉の法名から大雄山性高院と改名して名古屋に移され、忠吉の菩提寺となった。一方、その後すぐ清須の旧地にも、旧名のままで再建されたのが当寺で、宝台院の菩提、性高院の霊牌、忠吉に殉じた四名の家臣の位牌を護る由緒ある寺院としてこの地に続いてきた。
美濃路に面したこの寺では、忠吉ゆかりの宝物のほか、忠吉母子の供養塔である宝篋印塔、仏足石、桶狭間の戦いで倒れた今川義元に関わる今川塚供養碑(二〇〇七年移設)、須ヶ口一里塚にあった道標など、多くの歴史に出会うことができる。
美濃路まちづくり推進協議会
山門★から入って右手には,宝篋印塔や今川塚供養碑などが並び,今川塚の説明板も設置されています。
地図 B ↓ 2021-04
今川塚供養碑の説明板には次のように書いてあります。縦書きで漢数字使用です。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
今川塚供養碑
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長は、今川義元を討ち取りました。「信長公記」によると、清須城外の須ヶ口に義元塚(今川塚)を築いて丁寧に弔ったとされています。
その後、寛文元年(1661)に正覚寺6代三誉上人と念仏講同行14名の名前が刻まれた生前供養のための石碑を建立しました。これが、今川塚供養碑といいつたえられています。
美濃路沿いの須ケ口2334番3の山内伊之彦氏所在地に移設しました。
銘文
「南無阿弥陀仏為 念仏講同行14人 正覚寺6代
三誉上人 逆修〈14名記名〉施敬」
「当寛文元暦 辛丑8月15日 春日井郡 清須外町」
(外枠部分)
清須市教育委員会
永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長は、今川義元を討ち取りました。「信長公記」によると、清須城外の須ヶ口に義元塚(今川塚)を築いて丁寧に弔ったとされています。
その後、寛文元年(1661)に正覚寺6代三誉上人と念仏講同行14名の名前が刻まれた生前供養のための石碑を建立しました。これが、今川塚供養碑といいつたえられています。
美濃路沿いの須ケ口2334番3の山内伊之彦氏所在地に移設しました。
銘文
「南無阿弥陀仏為 念仏講同行14人 正覚寺6代
三誉上人 逆修〈14名記名〉施敬」
「当寛文元暦 辛丑8月15日 春日井郡 清須外町」
(外枠部分)
清須市教育委員会
正覚寺の前から南に,古い家屋が並んでいます。
地図 C ↘ 2021-05
◎100mほど東方に位置する外町公園に,トイレがあります。
⑦ 名鉄津島線の踏切が見えてくるあたりに一里塚橋という名の橋があります。その橋の手前,民家への通路に沿ったところに一里塚跡の標柱★と説明板が立っています。一里塚橋の下に流れている川は暗渠★になっているため,流れは見えません。
地図 D ↓ 2021-04
地図 E 2021-05
標柱の美濃路に面した面と向かって右側には次のような文字が彫られています。
みの路
一里塚之址
一里塚之址
町制五十周年記念
昭和三十年二月十一日
昭和三十年二月十一日
説明板には縦書きで次のように書いてあります。
須ヶ口一里塚跡
熱田宿から古渡、江川を経て、三
つ目の一里塚。かってはこの一里塚
橋にまたがり、橋の両側に小塚があ
って、榎の老樹が茂っていた。その
後、用水の改修であとかたもなくな
ってしまったが、美濃路を偲ばせる
史跡のひとつである。
一九五五年に新川町制五〇周年記
念としてこの石碑が建てられた。
美濃路まちづくり推進協議会
熱田宿から古渡、江川を経て、三
つ目の一里塚。かってはこの一里塚
橋にまたがり、橋の両側に小塚があ
って、榎の老樹が茂っていた。その
後、用水の改修であとかたもなくな
ってしまったが、美濃路を偲ばせる
史跡のひとつである。
一九五五年に新川町制五〇周年記
念としてこの石碑が建てられた。
美濃路まちづくり推進協議会
一里塚★があったあたりの様子を,見取絵図★/明治地図★/1946年撮影の航空写真を参考にして地図上に描いてみました。
まず一里塚ですが,一里塚橋の南側に●で示した位置にありました。
すでに取り上げた正覚寺に移されている道標★は,赤マークで示した位置に,津島に向かう道(緑線)に面して置かれていたと思われます。一里塚の南に沿って西に向かう道は見取絵図にも描かれています。津島に向かう道は,五条川の堤防上を通って,法界門橋のたもとで津島街道に達していましたので,道標に彫られている是より西つしまかいどうは,「この道を西に向かうと,津島街道へ出る」ということを示していたと考えられます。岐阜方面から津島に向かう旅人にとって,この道は近道だったに違いありません。
鉛筆の先は,一里塚跡の標柱が建っているところを示しています。一里塚が川の南側にあったにもかかわらず,なぜ川の北側に設置したのか,不思議です。