名鉄津島線の踏切から,新川橋までの美濃路を取り上げます。①〜⑪
この間は昔から★美濃路の両側に家並が続いていました。そのため道路の拡幅もおこなわれなかったようで,ところどころに古民家★が残っています。新川橋の手前から津島街道が分かれていましたが,今はそこにポケットパークがつくられていて,道標★や石碑★などが展示されています。
② 名鉄津島線の踏切を渡ってすぐの右手に,美濃路を歩く人のために設けた私設の休憩所があります。屋根の下にはベンチがあって,美濃路の道しるべ★と説明板が掲げてあります。
地図 A ← 2021-04
2021-04
説明板には次のように書いてあります。縦書きで漢数字使用です。
公衆便所までの地図が添えてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
美濃路
美濃路は東海道と中山道を繋ぐ街道で、東海道から美濃に向かう街道のため美濃路又は美濃街道と呼ばれた。
織田信長が桶狭間の戦いに向い、今川義元の遺品を掲げて凱旋したのもこの街道である。この地点より東へ400m程行ったところに「今川塚」があり、信長が今川義元を弔ったところで、今も石碑が民家の裏庭に残されている。
踏切を渡って北へ80m程行くと、小さな石橋を渡る。左側に「須ヶ口一里塚跡」の石碑と説明板がある。熱田から「古渡」「江川」に続いて3番目の一里塚である。更に北へ進み下外町の信号を過ぎると、昔ながらの町家造りの町並みが残されている。美濃路に残された歴史や文化を発見して下さい。
休憩所
この休憩所は「美濃路」を歩く人が休めるようにと、この家の方が私費で作られたものです。のどを潤わせるようにと水呑み場も設けられました。自由にご利用ください。尚、禁煙にはご協力願います。
トイレは下記場所(徒歩2分)に公衆便所がありますので、そちらをご利用願います。
美濃路まちづくり推進協議会
※今川塚は,平成19年(2007年),すでに取り上げた正覚寺に移されました。
③ ここから東へ道程200mほどのところに位置する迫間公園に,トイレがあります。休憩所の説明板に書いてある公衆便所は,このトイレのことです。
地図
④ ところどころに古い家屋があります。
地図 B → 2021-04
⑤
地図 C → 2021-04
名鉄須ヶ口駅から100mほどのところにある「須ヶ口」交差点です。ここから美濃路は県道126号線(給父西枇杷島線)となります。
地図 D ↗ 2021-04
⑥ 駐車場のフェンスに,かつてここに今川塚供養碑があったことを記した説明板が取り付けてあります。
地図 E ← 2021-04
説明板には次のように書いてあります。縦書き,漢数字使用です。地図が添えてあります。
今川塚供養碑
山内邸に建立されていた
「今川塚供養碑」は、平成
19年11月24日に正
覚寺(清須市須ヶ口332)
に移設されました。
⑦ 須佐之男神社は,見取絵図★には天王と添えてあります。
玉垣★と民家の駐車場との間に,歩行者用の公道が通っています。これも,あとで取り上げる閑所★なのかもしれません。
地図 A ↗ 2021-04
⑧ 新川橋の手前に,小さい公園「新川橋橋詰ポケットパーク」があります。
東屋の下などにベンチがありますが,トイレはありません。
地図 B ↘ 2021-04
地図 C ← 2021-04
道路に面して
石柱が並んでいますが,最も背が高いのは
津島街道★の
道標★です。ここは
美濃路から
津島街道(地図に緑色の線で記入)
が分かれるところでしたので,不要になった
五条橋の
親柱★を運んできて,ほぼこの位置に置いて
道標として役に立てたとのことです。
道標には
左つしま道と彫ってあります。このあたりの開発が進んだとき,
旧新川橋の
親柱とともに,次のページで取り上げる
土器野神明社に移されましたが,この
ポケットパークができて、また元の位置に戻されたとのことです。
この
道標は,
見取絵図★にはありません。
説明板には縦書きで次のように書いてあります。
津島街道道標
新川橋西詰の美濃路上にあり、
津島街道を示した。
清須五条橋の欄干親柱を利用
したものといわれ、道標と常夜灯
を兼ねた。
碑文
左 つしま道
2つずつ背中合わせにして立ててある
石柱は,
2代前の新川橋の
親柱です。それぞれ
新川𫞎,
大正二年二月架𫞎,万葉仮名を交じえて
しむかははし,くずし字で
大正二年二月架橋と彫ってあります。なお
「𫞎」
は「橋」
の異字体です。
説明板には縦書きで次のように書いてあります。
新川橋親柱
大正二年(一九四三)三月、
新川橋が掛け替えられた。
昭和一三年(一九三八)一二月、
鉄筋コンクリート橋に架け替え
られるまでの親柱であった。
碑文
大正二年二月架橋
しんかははし
新川橋
古風な壁の近くに新川開削頌徳碑があります。美濃路の歴史/新川開削/東海豪雨による新川の決壊という3つの説明板も設置されています。
2021-04
「美濃路の歴史」
の説明板には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
美濃路の歴史
美濃路は江戸時代、東海道宮の宿から名古屋・清須・稲葉・萩原・起・墨俣・大垣を経て中山道垂井の宿に至る街道で、東海道から分かれて美濃へ向かう街道のため美濃路と呼ばれた。
平安時代、都から東国への道は、東山道と東海道があり、この二道を美濃〜尾張で繋ぐ道が美濃路の原形となった。鎌倉時代には、京と鎌倉を結ぶ京鎌倉往還(鎌倉街道ともいう)が最も重要な街道となった。美濃路や東海道に、重なり離れ、いたるところにその名が残されている。
江戸時代の美濃路は織田信長・信雄の頃から整備されたもので、関ヶ原の戦いの後、京・大坂と江戸を結ぶ重要な官道として、五街道と同じく道中奉行の支配下に置かれた。
美濃路は桶狭間の戦いで信長、小田原征伐で秀吉、関ヶ原の戦いで家康の凱旋道となり、吉例街道と呼ばれた。
清須市を貫く美濃路には、昔ながらの町並みや、ものづくりの店が残されており、この地方独特の屋根神様、問屋記念館、山車蔵、今川義元塚、清須宿本陣跡、信長の菩提寺総見院など、多くの歴史や文化が溢れている。
ここ新川橋西詰には、かって高札場があった。また、美濃路から津島への分岐点で、清須五条橋の石製欄干親柱を利用したといわれる道標も置かれていた。
ポケットパークのやや南の方に,小さい道標があります。かなり風化していて文字ははっきりしません。この道標については,このあとすぐ取り上げます。
2021-05
説明板には縦書きで次のように書いてあります。
津島街道道標
当所の南より、甚目寺を経て
津島に至る街道(上街道)分岐点
の道標である。
天明八年(一七八八)建立。
碑文
天明八戌申二
右 津し(ま)
(美濃路側から津島への表示)
左 なこ(や)
(津島側から美濃路への表示)
折損のため下部文字不明
⑩ ポケットパークから30mほ南に位置するT字路の一角に,是よりつしま道と彫られた標柱★が建っていて,説明板と屋根付のベンチが備えてあります。標柱の裏には平成二十一年三月吉日とありますから,このコーナーも平成21年(2009年)ごろに設置されたと思われます。
地図 D ↑ 2021-05
説明板には
熱田や
津島を含めた広域地図と,
「西堀江村絵図(弘化二年)」が添えてあります。そして縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
津島街道
新川橋西詰で美濃路と分岐し、ここから西へ,五条川に架かる法界門橋を渡り、鎌倉古道と交叉し、甚目寺、木田、勝幡を経て、津島に達する街道が、津島街道である。名鉄津島線はほぼこの街道に沿って走っている。
東海道宮宿(熱田)から美濃路を通り、尾頭橋東で西へ分岐し、岩塚、万場、神守を経て津島、佐屋に向かう佐屋街道に対し、この津島街道は佐屋街道の北側を平行して通るため、上街道とも呼ばれた。
津島は中世以来の川湊があり、伊勢ともつながる重要な商業都市として繁栄した。織田信長の父、信秀はこの地を治め、尾張統一を図った。那古野城時代の信長もこの街道を通って津島の祭りに通ったともいわれる。
近世以降もこの津島街道は、名古屋城下と津島を結ぶ道として、或いは堀江観音(長谷院)や甚目寺観音、そして津島神社へ参詣する「もの詣での道」としてよく利用された。各所に「なごやとほりぬけ」「つしまとほりぬけ」という道標が残っている。
津島街道★は,津島道/津島上街道/上街道などともよばれていたようです。見取絵図★には津嶋道 津嶋牛頭天王江道法三里十八丁 高須道 高須城下町江道法五里十八丁 甚目寺村江道法十八丁というように添えてあります。この道は甚目寺(あま市甚目寺)を経て津島へ向かっていたこと,さらに高須(岐阜県海津市海津町高須:海津市役所があるあたり)へ行くためにも使われていたことがわかります。
明治地図★には,津島街道が上街道,佐屋路★が津嶋街道と記されています。
ポケットパークにあった小さい
道標★は,
美濃路から別れた道からさらに右に別れるところ,下の地図に鉛筆で示した位置にあったと思われます。
美濃路を歩いてきて
津島に向かう旅人は
道標の北側に彫られた
「右つしま」
を見て右に曲がり,
津島の方から歩いてきて
名古屋に向かう旅人は
道標の西側に彫られた
「左なごや」
を見て左に曲がったでしょう。この小さい
道標は,
見取絵図にもそれらしいものが描かれていますが,なんと道の中にあります。そんなところにあったから,何かにぶつけられて折れてしまったのかもしれません。
⑨ 新川橋南側の西端付近です。見取絵図★を見ると,このあたりに高札場★があります。
見取絵図に描かれている新川橋は欄干★がある板橋ですが,板橋と添えてあるだけで,橋名は書いてありません。この先,次の「欄干がある橋」は,枇杷島小橋でした。
地図 E ↓ 2021-04
美濃路と銀行との間に階段があります。現在の新川橋は平成14年(2002年)9月に完成しましたが,橋を架け替えたときに桁下高★を高くして,美濃路を嵩上したため,このような段差ができました。ちなみにこの銀行は,明治29年(1896年)に枇杷島銀行新川支店としてこの場所で開業したのが始まりで,その後東海銀行尾張新川支店などを経て,現在は三菱UFJ銀行尾張新川支店です。
地図 F ↙ 2021-05
⑪ 新川橋のほぼ中央から見た新川の下流です。
地図 G ↙ 2021-04