清須市 5

美濃路探訪


最終更新:2022-03-05 スタート:2021-06-17


はじめに

美濃路このような箇所をすると説明などが表示されます。が付いている語句は美濃路探訪」ついてここだけ事典」詳しい説明が書いてあります。


で出現したものは,で閉じます。


見本の画像をすると大きくなり,再びすると元に戻ります。


 新川橋から,二ツ杁の南までの美濃路を取り上げます。①〜⑪
 この間は,新川橋を渡った先の張藩刑場あったあたりの100mほどだけ松並木でしたが,それ以外は昔から美濃路の両側に家並が続いていました。そして美濃路が少し折れ曲がっているところからは島明眼院に向かう道が分かれていました。
 現在の美濃路もほぼ昔のままのようで,ところどころに古民家が残っています。瑞正寺処刑者の供養塔処刑場跡の碑屋根神様がのる古民家を利用した観光施設国の登録文化財柴田家住宅母家ど,見るところがたくさんあります。

地図:新川橋から二ツ杁駅の南までの美濃路
地図:新川橋から二ツ杁駅の南までの美濃路





 阿彌陀寺見取絵図にもある古い寺です。見取絵図には阿彌陀堂と添えてあります。

 地図 A ↗ 2021-04



瑞正寺境内に建っている宝塔が,美濃路からもよく見えます。門の右手に宝塔についての説明板があります。

 地図 B ↗ 2021-04

 説明板には縦書きで次のように書いてあります。
  日本一の宝塔
 瑞正寺境内に高さ四・五メートルで
日本一といわれている宝塔がある。こ
の北方に尾張藩の刑場があり、処刑さ
れた罪人の菩提を弔うため、一八一五
年に建てられた。
 二人の有志により発起され、自らは
家財をなげうち、八年をかけて成就し
たもの。江戸で作られ、船で運ばれ、
新川をさかのぼった。
 以来宝塔様として知られ、処刑者が
この前を通るときは合掌礼拝し、その
後処刑されたという。
   美濃路まちづくり推進協議会

 境内に入って,宝塔が建っている一郭を南東の方から見たところです。が設置したと思われる立派な説明板もあります。

 地図 C 2021-04

 宝塔の正面は,南東の方を向いています。宝塔の向かって左側,すなわち美濃路から見える面,正面,右側,裏面には縦書きで次のような文字が彫られています。

 衆罪如霜露惠日能消除
 是故應至心懺悔六情根
 
南無妙法蓮華経
 
 一切業障海皆従妄想生 
 若欲懺悔者端座思實相
 
 文化十年癸酉暦五月建

 説明板には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
 寳塔の由来
徳川時代、この附近に断罪の仕置場があった。たまたま熱心な法華教の信者若松庄九郎・熊野屋弥兵衛の両名は悪業の因縁によって悲しくも死刑に處せられて命終した人達を憫み、この人達を佛陀の大慈光に浴せしめて、永劫流転の苦悩を救ってやり度いと宝塔建立を発願した。時に文化五年であった。伊豆小松原より六石を切り出し、八年の辛苦を経て文化十二年に完成した。当時断罪の時、使用の刀鎗を洗ふ為め、鎗洗の池」いふ小池があった。それを題目書写の石を以って没し、平地としたのが此邊り一帯である。宝塔は、この鎗洗の池」真上に建立されたのである。以来、死刑場に牽かれた罪人いづれも宝塔を拝んで懺悔合掌し佛の慈光に救われて逝いたと云ふ。


 宝塔には文化十年1813年)彫られれていますが,ここに建てたのは2年後でした。伊豆小松原で切り出されたということから,比重2.5ほどの安山岩だと仮定すると,3尺0.9m)で高さ1丈2尺3.6m)石柱の重量は,ざっと見積もっても7トンは越えます。江戸で造られた巨大な宝塔をここへ運ぶことは,とても大変だったと思われます。

 巨大な宝塔の足元に,旧新川町が建てた標柱があります。

 2021-04

 標柱の向かって左側,正面,裏面には次のような文字が彫られています。

 江戸時代、この地より約百米北の地に 
 尾張藩刑場が置かれていた
 
 尾張藩刑場址
 
 町制五十周年記念
 昭和三十年二月十一日
 新川町



 尾張藩の刑場は,美濃路から北に方に下った,現在の清須市上河原に置かれていました。写真は美濃路から見た刑場へ向かう道です。石垣の上に建てられた瑞正寺の東を通って下っていく様子がわかります。

 地図 E ↑ 2021-04

この道を50mほど下った左手に位置する東町公園に,トイレがあります。



古民家を利用した,お休み処茶庵という,清須市が運営している観光施設があります。飴茶庵
 昭和のころ,ここから10軒ほど東にあって,駄菓子や玩具を売っていた山田模型店が,あめちゃっちゃ」よばれて親しまれていたことにちなんで,茶庵という名前にしたとのことです。外観だけでなく,店内も郷愁に誘われる雰囲気をかもしだしていてます。営業日は,基本的に金〜日曜日です。
 一階の屋根の上には屋根神様がのっていて,その説明板もあります。

 地図 F ↗ 2021-04

 2021-04

 説明板には縦書きで次のように書いてあります。文の折り返しは,現物のとおりではありません。
   屋根神様
 屋根神様にはたいてい三つの神社のお札を祭っている。大部分は津島神社・秋葉神社・熱田神宮の三社で、熱田神宮が地元の氏神に替わることもある。
 それぞれ疫病除け、火難除け、武運長久祈願といった意味が込められている。
 屋根神様は、名古屋を中心に尾張に広まった信仰だが、戦後は次第に取り壊され、今では数えるほどしか残っていない。美濃路など古い街道筋で当時の面影を偲ぶことができる。
   美濃路まちづくり推進協議会

 十字路を北に少し下ったところから茶庵の西側を見ると,美濃路に面したところが,実は二階の部分だったことがわかります。ということは三階建です。飴茶庵

 地図 D ↘ 2021-04


 このような様子は美濃路の南側でも見られることから,このあたりの美濃路は築堤の上を通っているのではないかと思われます。



 十字路を南に下っていくと,神明に突き当たります。そのまま階段を上って15mほど進み,背の高い常夜燈を回るようにして左に曲がったところに,このあとで取り上げる文造差点から移された,島道道標があります。

 地図 G ↙ 2021-04

 地図 H 2021-05

 道標の南側と東側には次のような文字が彫られています。道」上のま」万葉仮名です。
是よりまじま道
 
従是馬嶌明眼院道 


 道標は単独で建っていたはずですが,玉垣親柱として使われてしまったようです。



文造差点から写真後方へ向かう道は,かつて島道といわれていました。海東郡馬嶋村現在は愛知県海部大治町大字馬島にある明眼院は,目の患いをなおす名医がいるところとして知られ,訪れる人が多かったとのことです。鉛筆マーク I で示した交差点の角にはかつて道標が建っていました。その道標見取絵図にも描かれていましたが,現在はすでに取り上げた神明に移されています。馬島道について,見取絵図には馬嶋明眼院道一里下 河原村江モ出ル道法七丁というように添えてあります。

 地図 J ← 2021-04



このあたり,以前は家並が続いていましたが,ひとつまたひとつと解体されて駐車場になったり空地になったりしています。そのためといってはなんですが,坪庭に高い松の木が生えている黒塗りの古い屋敷は,奥行が長いその姿がよく見えるようになりました。

 地図 K ↘ 2021-05


 上の写真を撮ったのは2021年5月7日ですが,そのわずか2週間前の4月24日に訪れたときには風見鶏がのったゲート美濃路いでいました。

 2021-04


 このゲート新川町商工会が設置した新川橋東商店街の入口でした。ゲート西春日井郡西枇杷から西春日井郡新川町に入ったところにあって,その東側にはようこそ」西側にはまたのお起しを」書いてありました。両町が平成17年2005年)に合併して共に清須市になったことによりゲートの存在価値が薄れたことと,老朽化のため,撤去されたのではないかと思われます。



路地のようなところを入った突き当たりに尾張西枇杷まつりでつかわれる5両の山車のうちの一つ,杁西町が所有する頼光車山車があります。説明板もあります。他の4つの山車はそのままの姿で収納されますが,頼光車は祭が終わると分解して収納し,曳き回す前に組み立てられるため,山車蔵は小型です。

 地図 A ↖ 2021-05

 説明板には縦書きで次のように書いてあります。
  山車蔵頼光車)
 西枇杷島町の五輌の山車のなかで、
杁西町頼光車が一番遅く一八七一年
に製作された。この町の美濃路沿いの
神社が全て天王社であり、山車はその
祭りのものとして始められてきた。二
ツ杁神社は神明社のため遅れたと思わ
れる。
 からくりは源頼光の前で坂田公時
金時)が岩を持ち上げ、力自慢を見せ
るという演技で、特に岩を山車の外に
放り投げるという所作は他に見ること
のない珍しいもので、人気を博してい
る。
 二〇〇五年愛知万博誘致PR活動の
ため、アメリカ、ヨーロッパ向けプロモ
ーションビデオが製作されたとき、そ
のなかに頼光車のからくり演技が使用
された。
    美濃路まちづくり推進協議会



美濃路一休庵は,茶庵と同様,古民家を利用した清須市の観光施設です。屋根神様ものっています。
 営業日は,基本的に金〜日曜日です。

 地図 B ↗ 2021-04

 2021-04



古民家が,互いにくっつくようにして並んでいます。

 地図 C ↗ 2021-04



明治24年1891年)建てられた木造三階建の古い建物があります。ちょっと見ただけではわかりにくいですが,西隣の建物とくっついた構造になっています。説明板に書いてあるように,お好み焼き店して使われていたこともありますが,今は営業していません。

 地図 D ↗ 2021-04

 説明板には縦書きで次のように書いてあります。
木造三階建て 「麦」
 西枇杷島町で戦前に建てられた木造
三階建ての建物はここだけ。一八九一
年に建てられた。
 現在はお好み焼きの店麦」して
使われている。
 開口部はすべて格子戸であったが現
在は二階に格子戸の一部が残るだけで
ある。外壁はほとんど改修されている
が、建てられた頃の姿を想像するのも
楽しい。
 一九九五年の第一回西枇杷島町まち
づくり文化賞を受賞。
    美濃路まちづくり推進協議会

 木造三階建の西隣の建物に注目すると,開口部があって,壁には西枇杷島町掲示板あります。掲示板があるということは一般の人が入ってよいところだと思われるので入ってみました。

 2021-05

 北側にも開口部があって,通り抜けることができ,その先には路地が続いていていました。

 地図 E ↗ 2021-05

 路地の先を歩いて行く女性は,私よりもあとから建物の開口部に入って来ました。ここは,通れるんですね?」ねたところ,はい,通れますよ。この通路は閑所といわれています。家並が続く街道から裏手へ抜けるために用意された道です。説明してもらえました。



赤いコーヒーポットがアクセントになっているCafe&galleryみどりや,2軒続きの古民家を改修して開いた店,その右隣の古民家は,国の登録文化財に指定されている,明治29年1896年)建てられた柴田家住宅です。

 地図 F ↗ 2021-04

 地図 G ↗ 2021-05