旧尾西市(一宮市) 3

美濃路探訪

最終更新:2023-10-19
スタート:2021-11-30


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美濃路 ←このような表記をすると説明が表示されます。が付いている場合は,ここだけ事典に詳しく書いてあります。

して画面上に出現したものは,すると消えます。

美濃路から少し離れていますが最初に披本陣跡へ行き,起宿高札場跡に戻って一宮市尾西歴史民俗資料館まで美濃路を歩きます。この間には本陣跡問屋場跡などがあります。
 この間は昔から家並が続いていたためか,都市化の影響をあまり受けていません。ところどころに街道の面影が残っています。

地図:高札場跡をすぎて歴史民俗資料館までの美濃路と披本陣跡
地図:高札場跡をすぎて歴史民俗資料館までの美濃路と披本陣跡 (はトイレ)



垂井に向かって戻る


美濃路から少し離れたところにありますが,先に本陣跡へ行ってみます。
 起宿高札場跡①から起街道を東に向かい,2つ目の歩道橋を越えて50mほど進んで路地のような道に入ります。鵜飼吉左衛門父子発祥地石碑をすぎると,もうすぐです。美濃路からの道程は750mほどです。
 披本陣は,何らかの理由で本陣脇本陣の使用が困難になったときの代替施設のことで,固有名詞ではありません。起宿においては吉田家の屋敷が使用されました。濃尾地震のときに倒壊を免れ,その後改修されたこの門だけが公開されています。


地図上のA点から← 2021-11

地図
 に向かって左側に,戦中に建てた説明板が2本並んでいます。右側は本陣跡説明板,左側は藤本鉄石隠棲説明板です。説明板の下にはそれぞれ補足板が取り付けてあり,上段は戦後表記に改めた内容,下段は詳しい説明が書いてあります。
 さらに左には近代的な説明板もあります。


 2021-11
披本陣跡の古い説明板の内容
 旧本陣阯
文政八年(紀二四八五)吉田
氏ノ創立スル所起宿休
泊ノ諸侯ガ異變ニ会フヤ
其退避所トシテ設置セラ
レタルモノ。明治三年廃止。
 昭和十八年 起町

ひとこと

 紀二四八五は,明治5年(1872年)に制定された,神武天皇の即位を元年とする皇紀という紀年法によるものです。紀元2485年とよびました。

補足説明板上段の内容
  旧本陣阯
文政八年(1825)吉田
氏の創立する所。起宿休
泊の諸侯が異変に会うや、
その退避所として設置せら
れたるもの。明治三年廃止。
 昭和十八年 起町

補足説明板下段の内容
 ひらき(く)は、武士の忌み言葉で、退陣する、逃げるのこと。(いわゆる、おひらきにしますのひらく) 他所では、御開所本陣と書くこともある。
 本陣本陣に凶事があったり、休泊中に異変(火災など)があったときなどに、緊急避難するための施設と考えてよい。かの要求で寺院などが臨時に当てられたケース(近くでは大垣宿の全昌寺など)があるが、いずれも街道に面した場所が選ばれる場合が多く、ここのように個人の家で、また美濃路からかなり離れた場所にあったのは、全国的に見ても珍しい。木曽川堤沿いに本陣本陣があることを考えるとよい。
 当家の歳代記によると、例えば
  文政8年(1825) 紀州(大納言)
  天保6年(1835) 紀州候
  天保7年(1836) 紀州家福姫君
  弘化2年(1845) 紀州候(本陣出火類焼のため)
が宿泊したと、記録に残っている。

ひとこと

 よみがなは私が勝手につけたものです。


藤本鉄石隠棲阯の説明板の内容
 藤本鉄石隠棲ノ阯
嘉永元年(紀二五〇八)ヨリ文久
三年(二五二三)ノ間、後ノ天誅組
総裁藤本鉄石 當處吉田
世良宅ニ隠棲シ文墨ヲ樂シ
ム。松本奎堂、小野湖山、
梁川星巖、浮田一蕙斎、森春濤
藤井竹外等志士文人雲集
シテ鉄石ヲ訪ヒ天下ヲ語レリ。
 昭和十八年 起町

補足説明板上段の内容
 藤本鉄石 隠棲の阯
嘉永元年(1848)より文久
三年(1863)の間、後の天誅組
総裁 藤本 鉄石 当所 吉田 世良
宅に隠棲し文墨を楽しむ。
松本 奎堂、小野 湖山、
梁川 星巌、浮田 一蕙斎、森 春濤、
藤井 竹外等 志士文人雲集して
鉄石をい天下を語れり。
 昭和十八年 起町

ひとこと

 よみがなは私が勝手につけたものです。

補足説明板下段の内容
天誅組(てんちゅうぐみ)は、幕末に公卿中山忠光を主将に志士達で構成された尊皇攘夷派の武装集団。文久3年大和国で挙兵するが、幕府軍の追討を受けて壊滅した。
藤本 鉄石 ふじもと てっせき 1816(文化13)年〜1863(文久3)年
幕末の武士・書画家。岡山藩を脱藩し、諸国を遊歴して書画や軍学を学ぶ。京都で絵師として名をなし、尊攘派浪人と交わり志士活動を行った。1863年天誅組を結成し、吉村虎太郎(土佐脱藩)、松本奎堂とともに天誅組三総裁の一人となる。変のとき戦死。

松本 奎堂 まつもと けいどう 1832(天保2)年〜1863(文久3)年
三河国刈谷藩士の子に生まれ、昌平坂学問所で学ぶが、強い尊王の志を持ち脱藩。安政の大獄、要注意人物に挙げられていたが、生き延び、次第に勤皇志士の中で重きをなすようになっていった。三総裁の一人。敗戦し戦死した。
小野 湖山 おの こざん 1814(文化11)年〜1910(明治43)年
幕末から明治時代の漢詩人。明治の三詩人の1人。近江国の生まれ。梁川星巌に入門を許され、江戸に向かう。のち、三河吉田藩儒者となり藩政に関与した。
梁川 星巌 やながわ せいがん 1789(寛政元)年〜1858(安政5)年
江戸時代後期の漢詩人。美濃国安八郡曽根村(現在大垣市曽根町、記念館がある)の郷士の子に生まれる。1808(文化5)年 江戸に出、のち玉池吟社を結成した。安政の大獄(1858(安政5)年捕縛対象者となったが、その直前(3日前といわれる)にコレラにり急死した。
宇喜多 一蕙(浮田 一蕙斎) うきた いっけい 1795(寛政7)年〜1859(安政6)年
幕末に活躍した大和絵の絵師。戦国大名・宇喜多秀家の七世の孫という。京都出身。復古大和絵派の巨匠として評価を得た。和歌・書道にも通じ、尊皇攘夷の思想に傾斜した。安政の大獄により捕えられる。
森 春濤 もり しゅんとう 1819(文政2)年〜1889(明治22)年
江戸幕末期より明治初期にかけての漢詩人。尾張一宮の医者の子として生まれる。京都に行き、梁川星巌の門下となる。晩年は東京で茉莉吟社を結成した。
藤井 竹外 ふじい ちくがい 1807(文化4)年〜1866(慶應2)年
幕末の漢詩人。摂津高槻藩の武士の家に生まれる。七言絶句を得意とすることから絶句竹外と称される。芳野懐古は、芳野三絶の一つ。晩年は京都に隠居した。
吉田 世良 よしだ せろう 1806(文化3)年〜1883(明治16)年
当家第9代。は高遠。庄屋、本陣を勤める。苗字帯刀、お目見え、宗門自分一札など。久しく鵜多須代官所に勤務した。
詩歌に長じ文人墨客との交友多く、後年 北西の地に隠居所(衆星館と称した)を構え、風雅の生活を営んだ。(月窓と号した)
当家初代(貞親)は、永禄年間三州 吉良吉田村より尾州 高御堂村に来て、兄 高信(比叡山攻めで討死)の家に食客し、のち小信中島村に移った。織田信長公に仕えた。

ひとこと

 よみがなは私が勝手につけたものです。


近代的な説明板の内容
一宮市指定文化財
 史跡 起宿披本陣跡
   一宮市小信中島字郷中3170-1
   昭和49年1月15日指定
 参勤交代で美濃路起宿を通行する大名の宿泊場所は本陣である。しかし、起宿の本陣に異変が発生した時に、その退避所として吉田家に設けられたのが、この本陣である。吉田家は、旧中島郡小信中島村の庄屋・年寄・留木裁許人を務めていた。
 御三家の一つである紀州藩が起宿に止宿する際は、吉田家が披本陣に指定されることが恒例であった。その始まりは文化8年(1811)と思われる。なかでも弘化2年(1845)には、紀州藩主徳川斉順の下向の残務処理を行っていた紀州藩主が、起宿に止宿していた時、起宿の大火に遭い、本陣も類焼した。その間、吉田家が御用宿としての役割を担った。このため、紀州藩より出精相働候由二て金千疋を賜っている。
 その他、天保7年(1836)尾張藩主徳川斉温の正室福君の下向、慶應元年(1865) 14代将軍徳川家茂の長州への御進発といった大通行において、吉田家が披本陣に指定されている。
 なお、明治24年(1891)濃尾大震災において、この地域は壊滅的被害を被ったが、吉田家の門は壊れることなく残った。
        一宮市教育委員会


字解

下向:げこう=から地方に旅すること。

実物は縦書き

 に向かって右側には,披本陣跡に立っている大木いぶき説明板と2本の標柱があります。なおいぶきは門の内側にあるため,近づいて見ることはできません。


 2021-11
説明板の内容
 天然記念物
いぶき
  樹囲 二、五メートル
  樹高 二十三メートル
 昭和四十一年一月一日指定
   尾西市

左側の標柱の内容
尾西市教育委員会
左面
史跡 起宿披本陣跡
正面
市指定 昭和四十九年一月十五日
右面

右側の標柱の内容
尾西市教育委員会
左面
天然記念物 披本陣のいぶき
正面
市文化財指定 昭和四十一年一月一日
右面




 披本陣跡の北に隣接する頓聴寺は,見取絵図にもある古い寺です。


地図上のB点から↖ 2021-11

地図


美濃路に戻って起宿高札場跡から100mほど進んだところです。道の両側に古民家があります。


地図上のA点から↘ 2021-09

地図


美濃路に面した空地に2本の標柱説明板があります。標柱は,左側が起宿本陣及び問屋場跡,右側が国学者加藤磯足邸跡です。


地図上のB点から→ 2021-09

地図


 2021-09
左側の標柱の内容
尾西市教育委員会
左面
史跡 起宿本陣及び問屋場跡
正面
市指定 昭和四十九年一月十五日
右面

右側の標柱の内容
国学者 加藤磯足邸址

説明板の内容
一宮市指定文化財
 史跡 起宿本陣及び問屋場跡
   一宮市起字下町1991-2
   昭和49年1月15日指定
 本陣とは、大名家といった高貴な人々の休泊施設である。 五街道やその付属街道の宿場に置かれ、美濃路の起宿には一軒かれていた。起宿陣職は加藤家が代々右衛門七を名乗、幕末まで世襲した。天明5年(1785)の書上げによれば、間口24間半・奥行54間・家造建坪206坪、外高塀58間・門3箇所とある。本陣は起宿の運営の中心機能としの役割を持っていた。
 江戸時代を通じて、宿泊した藩としては紀州徳川家、広島藩浅野家、徳島藩蜂須賀家、熊本藩細川家といった大藩も多い。江戸時代中期からは朝鮮通信使の昼食の場ともなった。問屋場は人馬や荷物の継立てなどを行う場所で、これも加藤家が兼務していた。その後、永田家も問屋場として増設されている。
 また、江戸時代中期の11代当主の加藤磯足は本陣職を務める傍らで、木曽川堤の自普請や村政にも力を尽くし、国学者本居宣長の高弟として学問にも熱心で、尾張を代表する文化人でもあった。
        一宮市教育委員会

ひとこと

 説明板の傷みが激しく,ところどころ読めない字がありました。緑色の字は私の推測です。
実物は縦書き



美濃路に面したところに一宮市尾西歴史民俗資料館があります。左側の建物が本館で,右側の古民家別館となっている林家住宅です。会館時間は09:00〜17:00,日曜日日の翌日の平日は休館日,入場は無料です。


地図上のC点から↖ 2021-09

地図
旧林家住宅は,かつて起宿脇本陣があったところに建っています。脇本陣として使用されていた建物は明治24年(1891年)濃尾地震で倒壊しましたが,大正2年(1913年)所有者であった林家は跡地に店舗を備えた住宅を建て,ここで生活をはじめました。時を経て昭和57年(1982年)旧尾西市が買い取って,翌年起宿記念館として公開しましたが,隣接地に尾西市歴史民俗資料館が開館した昭和61年(1986年)らはその別館という扱いになり,さらに一宮市との合併により,平成17年(2005年)7月からは一宮市尾西歴史民俗資料館別館とよばれるようになりました。
 土壁を模した塀に説明板が取り付けてあります。


 2021-11
説明板の内容
一宮市指定文化財
 史跡 起宿脇本陣跡
     一宮市起字下町211
           一宮市
    昭和49年1月15日指定

 脇本陣は、街道の宿駅に設けられた本陣の補助的な宿舎で、副本陣にあたる。江戸時代、東海道宮(熱田)宿と中山道垂井宿を結ぶ美濃路七宿のひとつである起宿には、本陣と脇本陣が各1軒、問屋場が2軒あった。
 寛永18年(1641)宿を利用する人馬が込み合ってきたので、脇本陣がこの地に新たに設置された。
 起宿脇本陣は、初め佐太郎一族(姓不明)が4代目まで継承したが、経営困難のため、享保5年(1720) 林浅右衛門が譲り受けて以来、明治3年(1870)の脇本陣の廃止まで林氏が歴代継承した。
 天保14年(1843)の美濃路宿村大概帳には、建坪が約136坪(約450平方メートル)と記録されている。また,幕末から明治に作成された間取図によると、主屋は往還に面して建てられ、中央に廊下を設けて、家族と宿泊者を分離できるようになっており、二階には天井が張られていない畳敷きの3室があった。また、主屋の北側には往還に面して門が備えられ、式台、玄関、広間、二の間、上段の間などがあった。この脇本陣の建物は明治24年(1891)の濃尾地震で倒壊し、現在は大正時代に建てられた旧林家住宅が、一宮市歴史民俗資料館別館として利用されている。
      一宮市教育委員会
実物は縦書き

 旧林家住宅は,美濃路に面したところにも玄関がありますが,見学者本館との間の通路に面したこちらの玄関から入ります。この建物の外壁も簓子下見です。
 玄関の向かって左側に,説明板文化財のプレートが上下2枚あります。


 2021-09


 2021-11
説明板の内容
美濃路起宿脇本陣跡 旧林家住宅

 明治二十四年(一八九一)の濃尾地震で、
この場所にあった美濃路脇本陣林家の建物は
倒壊しました。その後、大正二年に建て直さ
れたのがこの住宅で、江戸時代の伝統的な
町家建築の様式をよく伝えています。江戸寄
りの方に玄関入り口の潜り戸のついた大戸、
正面一階の窓に取り付けられた連子格子、
土間境に建つ大黒柱、根太天井、立ちの低い
二階など、幕末の起宿に見られた町家の造り
と洗練された意匠を偲ぶことができます。
 また、外回りをすべてガラス戸で囲むなど、
新しい建材も匠みに取り入れた当時の時代性
が伝わってきます。

    棟梁 桜木絹三郎
    施主 林 英太郎

 一宮市尾西歴史民俗資料館

文化財のプレートの内容

登録有形文化財
第23−0058号
この建造物は貴重な国民的財産です。
文化庁
上段
文化財のプレートの内容

登録記念物
旧林氏庭園
令和元年10月16日登録
この記念物は貴重な文化財です。
文化庁
下段

 建物に入ると玄関に続く次の間に,起宿記念館を紹介する衝立が置いてあります。


 2021-09
衝立の内容
 美濃路は、東海道と中山道とを
結ぶ脇往還である。
 慶長五年(一六〇〇) 関ヶ原の合戦
福島正則が清洲からこの道を通り
岐阜城を攻め、徳川家康は関ヶ原の
合戦の帰路この道を通ったことから
御𠮷例御悦び街道とも呼ばれた。
起宿は、美濃路七宿の一つで幕府道中
奉行の支配下にあり木曽川を渡す渡船
場を持つ重要な宿場であった。
 この起宿記念館は脇本陣跡である。

ひとこと

 この起宿記念館はと書いてあることや,印刷ではなく筆で書いてあることから,この衝立は昭和58年(1983年)5月に旧林家住宅が公開されたときから置いてあると考えられます。


 昭和初期に作られた旧林家の日本庭園を,裏座敷から見たところです。


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 旧林家住宅を出て本館との間の通路を少し進んだところに活動室の入口があります。活動室は風呂場や井戸などがあったところを改装した施設で,無料の休憩室として開放されています。
 入口の前に本館への案内板が立っています。


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 本館との間の通路をさらに進むと,右手に日本庭園の入口があります。


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 本館の入口付近です。


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 本館に入ると,ほぼ正面に常設展示室美濃路と起宿の入口が見えます。突き当たりにはトイレがあります。
 窓口で歴史街道 美濃路を歩く 〜街道全図、宿場地図〜(折りたたんで長形3号の封筒に入れてあり,広げると84×60cmほどになります。税込200円)などを販売しています。


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 常設展示室美濃路と起宿は,美濃路の歴史や文化などを詳しく紹介しています。


 2021-09

熱田に向かって進む