一宮市歴史民俗資料館①をすぎて冨田の一里塚⑨の手前まで美濃路を歩きます。この間には駒塚道の道標⑧などがあります。
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地図:尾西歴史民俗資料館をすぎて一里塚の手前までの美濃路 (●はトイレ)
① 尾西歴史民俗資料館前の美濃路を南下します。
100メートルほど進んだところに,更地と外壁に建物の形がくっきりと残っている古民家★がありました。こうして古い家屋が一つ,またひとつと消え,街道の面影★も少しずつ失われます。
地図上のA点から↘ 2021-11
地図
② 信号がある小さい交差点で旧起村が終わって,旧冨田村に入ります。
③ 歩道橋をくぐります。
見取絵図★を見ると,渡船場★から続いていた起宿の家並がこのあたりで終わって,この先は松並木になります。
地図上のB点から↓ 2021-09
地図
歩道橋の下から西に向かう道の先に地蔵寺があります。地蔵寺は見取絵図に地蔵堂と書いてある古い寺です。
地図上のC点から← 2021-11
地図
西に向かう道は地蔵寺で行き止まりになっています。ところが見取絵図を見ると,現在は電柱が立っているE点あたりに道標★があります。すぐ先で行き止まりになっている道に対して道標があるのは道理に合わないので,明治地図★も合わせて調べたところ,この道は地蔵寺の前を通って木曽川の堤防上の道に出て,津島の方へ続いていたことがわかりました。
ここにあった道標は,どこかで保管されている可能性があります。
地図
ここにあった道標は,どこかで保管されている可能性があります。
地図
垂井に向かって進むと,ここから道幅が狭くなります。
道幅が狭くなった先は,街道の面影★が残っている可能性が高くなります。
地図上のD点から↑ 2021-09
地図
歩道橋をくぐった先で道が2つに分かれますが,美濃路は左です。
地図上のD点から↓ 2021-09
地図
④ 道幅が狭くなってセンターラインがなくなります。
見取絵図★も明治地図★も,道幅が狭くなったあたりから家並が続きます。ただし左側(北西側)は,ところどころで松並木になっています。
地図上のA点から↘ 2021-09
地図
⑤ 土壁の腰に簓子下見★を張った趣のある塀が,美濃路に沿って造られています。長さは45mほどです。
地図上のB点から↘ 2021-09
地図
この塀はかなり傷んでいて壁には落書がたくさんあるという痛ましい姿でしたが,2017年ごろ改修されました。
改修前の壁 Google Street View 2016年7月
改修前の壁 Google Street View 2016年7月
歴史的遺産の管理は,所有者などのさまざまな事情も絡んでいて,とても大変です。この塀の場合は,所有者の理解と並大抵ではない努力があったからこそ改修できたのだと思います。
⑥ この交差点は県道145号線(冨田一宮線)の起点となっています。
地図上のA点から↘ 2021-09
地図
⑦ 津島道といわれていた,津島へ向かう道です。左の角にあった道標★は,あとで取り上げますが,冨田の一里塚の近くに移されています。
見取絵図★には,道標も津島道についての記述もありません。
地図上のB点から↙ 2021-11
地図
⑦ 鋸屋根の横を通りすぎたところから,道幅が少し狭くなります。
地図上のC点から↓ 2021-09
地図
⑧ 駒塚道を示す道標★が立っています。
美濃路の反対側には古風な塀があります。この塀も,先ほどあった長い塀と同様,土壁の腰に簓子下見★を張った造りで,長さはおよそ21mです。
地図上のE点から↑ 2021-09
地図
駒塚道の道標は,辺の長さが31cm,地面からの高さが2.3mほどもある標柱★で,文字の彫りも深く,なかなか立派です。
木曽川の対岸にあった駒塚村(現在は岐阜県羽島市竹鼻町駒塚)に尾張藩の家老であった石河家が住んでいたため,駒塚道が整備されたといわれています。
見取絵図★には,道標も駒塚道についての記述もありません。
地図上のD点から↑ 2021-09
地図
道標の文字
左面
正面
慶應三年卯夏五月 改
左駒塚道 船渡、五丁
道標に彫ってある船渡、五丁から,現在地と同じ冨田村にあったといわれている木曽川の渡船場★までの距離が5丁(約500m)だったことがわかります。
慶応(慶應)3年(1867年)は大政奉還がおこなわれた年ですから江戸時代最後の年に建てられたことになります。
慶応3年の干支である卯や,(旧暦の)5月に夏が添えてあるのは,当時の慣習だったのでしょうか。
改と彫ってあるのは,古い道標を置き換えたものだからでしょう。古い道標は,あとで取り上げる冨田の一里塚の近くに保管・展示されています。
明治地図★を参考にして,駒塚道と思われる道を,地図上の⑧から,緑線で記入しておきました。
地図
慶応(慶應)3年(1867年)は大政奉還がおこなわれた年ですから江戸時代最後の年に建てられたことになります。
慶応3年の干支である卯や,(旧暦の)5月に夏が添えてあるのは,当時の慣習だったのでしょうか。
改と彫ってあるのは,古い道標を置き換えたものだからでしょう。古い道標は,あとで取り上げる冨田の一里塚の近くに保管・展示されています。
明治地図★を参考にして,駒塚道と思われる道を,地図上の⑧から,緑線で記入しておきました。
地図
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