旧尾西市(一宮市) 4

美濃路探訪

最終更新:2023-10-19
スタート:2021-11-30


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美濃路 ←このような表記をすると説明が表示されます。が付いている場合は,ここだけ事典に詳しく書いてあります。

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一宮市歴史民俗資料館をすぎて冨田の一里塚の手前まで美濃路を歩きます。この間には駒塚道の道標などがあります。

地図:尾西歴史民俗資料館をすぎて一里塚の手前までの美濃路
地図:尾西歴史民俗資料館をすぎて一里塚の手前までの美濃路 (はトイレ)



垂井に向かって戻る


尾西歴史民俗資料館前の美濃路を南下します。
 100メートルほど進んだところに,更地と外壁に建物の形がくっきりと残っている古民家がありました。こうして古い家屋が一つ,またひとつと消え,街道の面影も少しずつ失われます。


地図上のA点から↘ 2021-11

地図
信号がある小さい交差点でが終わって,冨田に入ります。


歩道橋をくぐります。
 見取絵図を見ると,渡船場から続いていた起宿家並がこのあたりで終わって,この先は松並木になります。


地図上のB点から↓ 2021-09

地図
 歩道橋の下から西に向かう道の先に地蔵寺があります。地蔵寺見取絵図地蔵堂と書いてある古い寺です。


地図上のC点から← 2021-11

地図
 西に向かう道は地蔵寺で行き止まりになっています。ところが見取絵図を見ると,現在は電柱が立っているE点あたりに道標があります。すぐ先で行き止まりになっている道に対して道標があるのは道理に合わないので,明治地図も合わせて調べたところ,この道は地蔵寺の前を通って木曽川の堤防上の道に出て,津島の方へ続いていたことがわかりました。
 ここにあった道標は,どこかで保管されている可能性があります。
地図

 垂井に向かって進むと,ここから道幅が狭くなります。
 道幅が狭くなった先は,街道の面影が残っている可能性が高くなります。


地図上のD点から↑ 2021-09

地図
 歩道橋をくぐった先で道が2つに分かれますが,美濃路は左です。


地図上のD点から↓ 2021-09
地図


道幅が狭くなってセンターラインがなくなります。
 見取絵図明治地図も,道幅が狭くなったあたりから家並が続きます。ただし左側(北西側)は,ところどころで松並木になっています。


地図上のA点から↘ 2021-09
地図


土壁の腰に簓子下見を張ったのあるが,美濃路に沿って造られています。長さは45mほどです。


地図上のB点から↘ 2021-09
地図
 このはかなり傷んでいて壁には落書がたくさんあるという痛ましい姿でしたが,2017年ごろ改修されました。
改修前の壁 美濃路・旧尾西市 改修前の長い塀 Google Street View 2016年7月

 歴史的遺産の管理は,所有者などのさまざまな事情も絡んでいて,とても大変です。このの場合は,所有者の理解と並大抵ではない努力があったからこそ改修できたのだと思います。



この交差点は県道145号線(冨田一宮線)の起点となっています。


地図上のA点から↘ 2021-09
地図


津島といわれていた,津島へ向かう道です。左の角にあった道標は,あとで取り上げますが,冨田の一里塚の近くに移されています。
 見取絵図には,道標津島道についての記述もありません。


地図上のB点から↙ 2021-11
地図


 屋根の横を通りすぎたところから,道幅が少し狭くなります。


地図上のC点から↓ 2021-09
地図


駒塚道を示す道標が立っています。
 美濃路の反対側には古風ながあります。このも,先ほどあった長い塀と同様,土壁の腰に簓子下見を張った造りで,長さはおよそ21mです。


地図上のE点から↑ 2021-09
地図
 駒塚道道標は,辺の長さが31cm,地面からの高さが2.3mほどもある標柱で,文字の彫りも深く,なかなか立派です。
 木曽川の対岸にあった駒塚村(現在は岐阜県羽島市竹鼻町駒塚)に尾張藩家老であった石河が住んでいたため,駒塚道が整備されたといわれています。
 見取絵図には,道標駒塚道についての記述もありません。


地図上のD点から↑ 2021-09
地図
道標の文字
慶應三年卯夏五月 改
左面
左駒塚道 船渡、五丁 
正面

 道標に彫ってある船渡、五丁から,現在地と同じ冨田村にあったといわれている木曽川渡船場までの距離が5丁(約500m)だったことがわかります。
 慶応(慶應)3年(1867年)は大政奉還がおこなわれた年ですから江戸時代最後の年に建てられたことになります。
 慶応3年の干支であるや,(旧暦の)5月に夏が添えてあるのは,当時の慣習だったのでしょうか。
 と彫ってあるのは,古い道標を置き換えたものだからでしょう。古い道標は,あとで取り上げる冨田の一里塚の近くに保管・展示されています。
 明治地図を参考にして,駒塚道と思われる道を,地図上のから,緑線で記入しておきました。
地図




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