当時の姿をほとんどそのまま残している冨田の一里塚★を訪れます。
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地図:冨田の一里塚付近の美濃路 (●はトイレ)
美濃路を歩いて行くと,最初に右側の一里塚★(西塚),続いて左側一里塚(東塚)が見えてきます。美濃路にあった一里塚はほとんどがなくなってしまいましたが,ここだけは両側揃って残っています。ここが旧冨田村であったことから冨田の一里塚または冨田一里塚とよばれています。
地図上のA点から↘ 2021-09
地図
美濃路から見た西塚です。私の簡単な測量では,美濃路を基準に塚の高さが1.8m,塚に植えてある榎の高さが16.5mほどあります。手前に背の高い標柱★と,小さい標柱が立っています。
背景の鋸屋根が尾西地方の風情をかもしだしています。
地図上のB点から← 2021-09
地図
背の高い方の標柱です。
標柱の文字
左面
正面
右面
史蹟名勝天然紀念物保存法二依り
昭和十二年十二月文部大臣指定
昭和十二年十二月文部大臣指定
史蹟 冨田一里塚
昭和十五年三月建 設
小さい標柱は,史跡として管理されている土地とその他の土地との境界を示す境界標で,史蹟指定地境界と彫ってあります。
東塚とよばれている方の一里塚です。少し前までは大きい榎がありましたが,平成30年(2018年)9月4日,台風21号の強風を受けて根元付近で折れ,左の方へ倒れてしまいました。しかし根元付近に生えていた数本の幼木は無事でしたので,小さいながらも榎が残っています。
こちら側も,背後に鋸屋根があります。
地図上のC点から↗ 2021-09
地図
東塚の榎は平成5年(1993年)の台風13号によって傷んだことから,それ以来たくさんの支柱に支えられ,樹木診断を受けてきました。
ストリートビューに,倒れる前の榎が写っていました。
倒れる前の榎 Google Street View 2016年7月
ストリートビューに,倒れる前の榎が写っていました。
倒れる前の榎 Google Street View 2016年7月
東塚の前に建っている石碑★です。
2021-09
石碑の文字
文部省
説明
舊美濃路の一里塚にして道の
東西兩側にあり兩塚は各等
しく径約三十五尺髙六尺にして
塚上には夫々榎一株あり
注意
一 封土を破壊せざる事
一 樹木の栽植並に伐採を為さざる事
一 其他濫に現状変更を為さざる事
昭和十五年十二月九日
舊美濃路の一里塚にして道の
東西兩側にあり兩塚は各等
しく径約三十五尺髙六尺にして
塚上には夫々榎一株あり
注意
一 封土を破壊せざる事
一 樹木の栽植並に伐採を為さざる事
一 其他濫に現状変更を為さざる事
昭和十五年十二月九日
─ ひとこと ─
舊の下が臼ではなく旧であったり,兩の入が×であったりと,手持ちの漢和辞典に載っていない漢字がいくつかありました。それらについては,該当すると思われる本字または新字体に置き換えました。─ 字解 ─
舊(旧)/兩(両)/夫々:それぞれ/並に:ならびに/濫:みだり西塚の北側に草地の公園があります。一里塚の手前には説明板が設置され,そのすぐ右方には他の場所から運ばれてきた古い道標★が2つ並んで立っています。公園の反対側にはトイレがあります。
地図上のD点から↘ 2021-11
地図
2021-09
説明板の内容
これらの写真を見ると,当時は松並木がまだ残っていたことや,石碑ではなく木製の説明板があったことなどがわかります。
国指定史跡 冨田一里塚 (昭和12年12月21日指定)
一里塚は、道路の両脇に一里(約4km)ごとの目印として木を植えた塚をいいます。この起源は中国の魏の時代にありましたが、日本では織田信長や豊臣秀吉が一里塚を築いた記録があり、制度として確立させたのは江戸幕府でした。
徳川家康は秀忠に命じて、慶長9年(1604)江戸日本橋を起点として東海道・東山道・北陸道に榎を植えた一里塚を築かせ全国に普及させました。榎を一里塚に採用したのは、根が深く広がって塚を固め、塚が崩れにくいためですが、松や椋などの例もありました。一里塚は、旅人にとっては里程や運賃の目安となり、日差しの強い日には木かげの休憩所としても利用されました。
東海道の宮(熱田)宿と中山道の垂井宿とを結ぶ美濃路には、13か所の一里塚が設置されていました。しかし今では街道の両側に原形をとどめるのは、ここ冨田一里塚のみとなりました。
明治9年(1876)の内務省達乙第120号で、目標などの有益な場合を除いて、有害無益となっている一里塚の廃棄と民間への払い下げが、府県に通達されました。冨田一里塚は廃棄されず、昭和3年(1928)6月28日に大蔵省から冨田の村社である神明社の所有地として払い下げられました。
昭和10年(1935)5月31日、当時の起町長以下連署のもと史跡指定を申請し、調査の結果、翌11年3月愛知県史蹟名勝天然記念物調査報告 第十四に掲載され、昭和12年12月21日に管理者を起町に指定し、昭和15年12月9日、文部省と愛知県の補助で石標柱・境界石杭・注意札が設置されました。
一里塚は、一般に京に向かって左側を左塚、右側を右塚というが、地元では方角をつけて西塚・東塚と呼んでいる。
平成19年3月 一宮市教育委員会
一里塚は、道路の両脇に一里(約4km)ごとの目印として木を植えた塚をいいます。この起源は中国の魏の時代にありましたが、日本では織田信長や豊臣秀吉が一里塚を築いた記録があり、制度として確立させたのは江戸幕府でした。
徳川家康は秀忠に命じて、慶長9年(1604)江戸日本橋を起点として東海道・東山道・北陸道に榎を植えた一里塚を築かせ全国に普及させました。榎を一里塚に採用したのは、根が深く広がって塚を固め、塚が崩れにくいためですが、松や椋などの例もありました。一里塚は、旅人にとっては里程や運賃の目安となり、日差しの強い日には木かげの休憩所としても利用されました。
東海道の宮(熱田)宿と中山道の垂井宿とを結ぶ美濃路には、13か所の一里塚が設置されていました。しかし今では街道の両側に原形をとどめるのは、ここ冨田一里塚のみとなりました。
明治9年(1876)の内務省達乙第120号で、目標などの有益な場合を除いて、有害無益となっている一里塚の廃棄と民間への払い下げが、府県に通達されました。冨田一里塚は廃棄されず、昭和3年(1928)6月28日に大蔵省から冨田の村社である神明社の所有地として払い下げられました。
昭和10年(1935)5月31日、当時の起町長以下連署のもと史跡指定を申請し、調査の結果、翌11年3月愛知県史蹟名勝天然記念物調査報告 第十四に掲載され、昭和12年12月21日に管理者を起町に指定し、昭和15年12月9日、文部省と愛知県の補助で石標柱・境界石杭・注意札が設置されました。
一里塚は、一般に京に向かって左側を左塚、右側を右塚というが、地元では方角をつけて西塚・東塚と呼んでいる。
平成19年3月 一宮市教育委員会
─ ひとこと ─
最初の写真は,南の方から両方の一里塚を見たところです。これらの写真を見ると,当時は松並木がまだ残っていたことや,石碑ではなく木製の説明板があったことなどがわかります。
─ 字解 ─
魏(ぎ)=3世紀の王朝/秀忠(ひでただ)=家康の子・第2代将軍/椋(むく)=榎に似ているためムクエノキともいう。運ばれてきた2つの道標と説明板です。向かって右側の道標は高さ80cmほどです。ひとまわり小さい左側の道標は劣化がひどく,文字の判読はかなり困難です。
地図上のE点から↓ 2021-11
地図
右側の道標の文字
左側
正面
右面
右つしま道
左おこし道
弘化三年丙午五月
─ ひとこと ─
裏面は下の方にある全だけが読めます。説明板の内容
実物は縦書き
冨田の道標
右側の道標は、元は冨田字立石地内の美濃路(おこし道)から津島へ抜ける道(つしま道)の西南角(地図①)に、弘化3年(1846)5月に建てられました。昭和44年(1969)冨田保育園に移されたのち、起の尾西歴史民俗資料館を経て、平成26年(2014)3月27日、現在地に移されました。石柱の四面に文字が刻まれていますが、長年、風雨にさらされていたので読み取りにくく、現在では僅かに左 おこし道右 つしま道が読み取れます。津島江の道標(1971年刊)によれば、右面に弘化三年丙午五月、裏面に安国道中安全と刻まれています。
左側の道標は、言い伝えによると、元は立石地内にある左駒塚道の道標の場所(地図②)に建てられ、通行量が多くなり慶応3年(1867)に建て替えられたようです。その後、かつて牛池地内の駒塚道沿いにあった豊臣秀吉駒繋ぎの杉の場所(地図③)から、冨田保育園、尾西歴史民俗資料館を経て、右の道標とともに現在地に移されました。おそらく建立年が刻まれていたと思いますが、長年の風雨によって、文字は風化し、僅かに是より左 こまつか渡船道のみが読み取れます。
一宮市教育委員会
右側の道標は、元は冨田字立石地内の美濃路(おこし道)から津島へ抜ける道(つしま道)の西南角(地図①)に、弘化3年(1846)5月に建てられました。昭和44年(1969)冨田保育園に移されたのち、起の尾西歴史民俗資料館を経て、平成26年(2014)3月27日、現在地に移されました。石柱の四面に文字が刻まれていますが、長年、風雨にさらされていたので読み取りにくく、現在では僅かに左 おこし道右 つしま道が読み取れます。津島江の道標(1971年刊)によれば、右面に弘化三年丙午五月、裏面に安国道中安全と刻まれています。
左側の道標は、言い伝えによると、元は立石地内にある左駒塚道の道標の場所(地図②)に建てられ、通行量が多くなり慶応3年(1867)に建て替えられたようです。その後、かつて牛池地内の駒塚道沿いにあった豊臣秀吉駒繋ぎの杉の場所(地図③)から、冨田保育園、尾西歴史民俗資料館を経て、右の道標とともに現在地に移されました。おそらく建立年が刻まれていたと思いますが、長年の風雨によって、文字は風化し、僅かに是より左 こまつか渡船道のみが読み取れます。
一宮市教育委員会
熱田に向かって進む