名鉄の踏切①から長束⑧まで,美濃路を歩きます。この間はほとんどが松並木だったため,国府宮の一ノ鳥居以外には,街道の面影★がほとんど残っていません。しかし稲沢市が整備した街道の面影をいくつか見ることができます。
このページの見方など
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地図:名鉄の踏切から長束の三叉路までの美濃路 (●はトイレ)
① 名鉄の踏切を渡ります。
② 左手(北側)に国府宮の社標★/灯籠/一ノ鳥居が見えます。鳥居から続く参道を北に1kmほど行くと,本殿などがあります。正式名は尾張大國霊神社ですが国府宮という名で親しまれています。見取絵図★を見ると,やはり美濃路に面して建つ鳥居から長い参道が続き,その先に大きな神社があって國府宮と書いてあります。
地図上のA点から↖ 2021-02
地図
踏切を越えてしばらくは,高度成長期★以降に市街化されたところを通ります。
美濃路から100mほど北に位置する正明寺公園にトイレがあります。
地図上のB点から→ 2021-03
地図
思いがけなく,といった感じで古い家屋に出会います。見取絵図★にも,このあたりに何軒かの家屋が描かれています。
美濃路はこの先の信号機がある交差点③で右(南)に折れます。
地図上のA点から↗ 2021-03
地図
③ 信号機がある交差点で右(南)に折れた先は両側に歩道が,歩道の左側(東側)には遊歩道が設置されています。ここから市民病院があるあたりまで,高度成長期★以前には松並木が続いていたので,遊歩道には新しい松並木が再現されています。遊歩道が始まるところに美濃路しるべ★が立っています。
この交差点から東北東に200mあまり歩くと行きあたる小正中央公園に,トイレがあります。
地図上のB点から↓ 2024-03
地図
垂井へ向かう美濃路は,この信号機がある交差点③で左(西)に折れます。
地図上のC点から↑ 2021-03
地図
④ 遊歩道も新しい松並木もここで左(東)に折れますが,美濃路はまっすぐです。
美濃路からは外れますが,遊歩道を250mほど進んだところに長束・梅公園があります。公園内には,あとで取り上げる長束正家邸址の石碑★がありますが,このあたりからは近いので,先に訪れた方が楽です。公園内にトイレもあります。公園の東側に道をはさんで隣接する大光寺は,見取絵図★にもある古い寺です。
地図上のD点から↓ 2021-03
地図
⑤ 美濃路はここで左(東)に曲がり,県道136号線と分かれます。
地図上のA点から↓ 2024-03
地図
県道136号線と分かれて左(東)に向かった先です。
見取絵図★を見ると,このあたりの美濃路はほとんどが松並木ですが,この道の両側⑤〜⑥にだけ家が並んでいます。
地図上のB点から→ 2021-03
地図
昭和25年(1950年)撮影の航空写真(国土地理院)を見ると,県道136号線が美濃路から分かれている部分⑤〜⑧はまだありません。県道は,集落があったこの道を避けるように作られたのでしょう。
航空写真には,⑤から北にあった美濃路の松並木も写っています。
航空写真
航空写真には,⑤から北にあった美濃路の松並木も写っています。
航空写真
見取絵図★と航空写真を見ると,美濃路の⑤〜⑥だけに家があるという状態は,江戸時代から戦後期★まで続いていたようです。高度成長期★以降の変化がいかに急激だったかを知るひとつのよい例だと思います。
⑤ 美濃路はこの十字路で右(南)に折れます。写真は南に向かった先です。この遊歩道は④で美濃路から分かれましたが,ここで合流します。ただし,ここからは松並木に代わって桜並木になります。
地図上のC点から↓ 2021-03
地図
垂井へ向かう美濃路は,この十字路で左(西)に折れます。
遊歩道をこのまま北に250mほど進むと長束・梅公園に着きます。
地図上のC点から↑ 2021-03
地図
かつてあった小川に掛けた小橋の上から撮影した写真です。当時は⑥から⑨までの桜並木は美濃路と小川との間にありました。小川は,先ほど紹介した1950年撮影の航空写真にくっきり写っていますし,見取絵図★にも描かれています。やがて小川は暗渠★となり,その上に遊歩道が設けられました。
航空写真
地図上のA点から↖ 1998-04
地図
航空写真
地図上のA点から↖ 1998-04
地図
左側(東側)の視界が開けたところで,美濃路から50mほど東にある石碑群⑨が見えます。
地図上のB点から→ 2021-03
地図
⑨ 石碑群は,区画整理などで立ち退くことになった石碑★を寄せ集めたところだそうです。
2年ぶりに訪れたところ,中央にあった長束正家邸址の石碑がなくなっていることに気が付きました。立札に,その石碑の移設先が書いてありました。残った3つは,それぞれ殉国/従軍/報国という文字があることから,戦没者に関係する石碑ではないかと思われます。
地図上のC点から→ 2024-03
地図
中央に長束正家邸址の石碑があったときの石碑群です。
地図上のC点から→ 2021-03
地図
大正時代の写真*iks-36を見たら,おそらくこの場所であろうと思われるところに,長束正家邸址の石碑とその右にある石碑だけが並んでいました。
地図上のC点から→ 2021-03
地図
大正時代の写真*iks-36を見たら,おそらくこの場所であろうと思われるところに,長束正家邸址の石碑とその右にある石碑だけが並んでいました。
⑩ 長束正家邸址の石碑が移された長束・梅公園へ行ってみました。石碑は多くの人が集まる公園の中に建ち,しっかりした説明板も備えられています。
地図上のD点から↓ 2024-03
地図
石碑の文字
長束正家邸址 愛知縣
説明板の内容
『長束正家邸址 石碑』
<大名・武将>【長束正家(1562〜1600)】
豊臣政権の「五奉行」の一人として活躍した長束村の出身者。
(他の奉行は、浅野長政、石田三成、増田長盛、前田玄以の四人。)
初めは丹羽長秀に仕えていたが、その後、豊臣秀吉に召し抱
えられ持ち前の行政・財務の才を買われ信任を得ると、1586
年の九州征伐や1590年の小田原征伐などで兵糧奉行を務め
たほか、豊臣氏の蔵入り地管理や太閤検地の奉行も務めるな
ど豊臣政権の財政を一手に担った。こうした働きが評価され、
1595年近江国水口城五万石を与えられ「五奉行」の一員に
列せられるまでになった。1600年の関ヶ原の戦いでは西軍
に属して参戦、結果その戦いに破れて切腹して果てる。
<大名・武将>【長束正家(1562〜1600)】
豊臣政権の「五奉行」の一人として活躍した長束村の出身者。
(他の奉行は、浅野長政、石田三成、増田長盛、前田玄以の四人。)
初めは丹羽長秀に仕えていたが、その後、豊臣秀吉に召し抱
えられ持ち前の行政・財務の才を買われ信任を得ると、1586
年の九州征伐や1590年の小田原征伐などで兵糧奉行を務め
たほか、豊臣氏の蔵入り地管理や太閤検地の奉行も務めるな
ど豊臣政権の財政を一手に担った。こうした働きが評価され、
1595年近江国水口城五万石を与えられ「五奉行」の一員に
列せられるまでになった。1600年の関ヶ原の戦いでは西軍
に属して参戦、結果その戦いに破れて切腹して果てる。
長束・梅公園から美濃路に戻りました。
⑦ そろそろ桜並木が終わるあたりに東屋を備えた小さい休憩所があり,美濃路案内板が立っています。案内板は,すでに訪れた美濃路稲葉宿本陣跡ひろばにある案内板の内容と,ほとんど同じです。
地図上のE点から↖ 2021-03
地図
⑧ 美濃路はここで県道136号線に合流します。
遊歩道は,ここから50mほど先で終わります。遊歩道が小川の上につくられたことはすでにお話ししましたが,遊歩道が終わったところで小川は右(南)に折れて道路の下を通って南下しています。1950年撮影の航空写真を見ると,小川の様子がよくわかります。
航空写真
航空写真
地図上のF点から↘ 2021-03
地図
垂井の方を振り返って見るとこんな感じです。
地図上のF点から↖ 2021-03
地図