稲沢市 7

美濃路探訪

最終更新:2024-03-14
スタート:2021-06-17


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美濃路 ←このような表記をすると説明が表示されます。が付いている場合は,ここだけ事典に詳しく書いてあります。

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 東海道線の踏切から北市場美濃路公園まで,美濃路を歩きます。この間には一里塚岐阜街道追分立場から始まって,家並がほとんど絶え間なく続いていました。都市化の影響をあまり受けなかったので,街道の面影が残っています。

地図:東海道線の踏切から北市場美濃路公園までの美濃路
地図:東海道線の踏切から北市場美濃路公園までの美濃路 (はトイレ)



垂井に向かって戻る


東海道線踏切を越えた先の空地に,美濃路 井之口一里塚跡と書いてあった木の札が立っています。しかし,すでに訪れた小沢の一里塚跡木の札と同様,字が消えてしまって読めません。写真右端に,あとで訪れる四ッ家追分の石碑が写っています。
 見取絵図を見ると,このあたりに北側の一里塚があります。北側の一里塚井之口(現在は稲沢市井之口町池向)に,南側の一里塚旧六角堂村(現在は稲沢市六角堂西町)にあったようです。


地図上のA点から↗ 2021-03

地図
 垂井へ向かう美濃路は,この先の踏切を渡ります。


地図上のB点から← 2020-12

地図
踏切→一里塚の跡→古風な→空地と続き,空地の右(東)には北に向かう岐阜街道があります。ここは美濃路から岐阜街道が分かれる四ッ家追分といわれていたところです。空地になっているに面したところには,かつて立派な道標が立っていましたが,自動車にぶつけられて破損したため,あとで訪れる長光寺に移されました。


地図上のB点から↖ 2021-03

地図
 空地には,半世紀ほど前には食料品店がありました。店の前に大きな道標があっては邪魔だったからかどうかはわかりませんが,道標は土地に余裕がある右(東)の方の角に移された可能性があります。すでに訪れた稲葉宿道標もそうででいたが,邪魔だということで移されてしまった道標は,けっこう多いのではないかと思います。
 自動車にぶつけられたとき,はたして道標はどこにあったのでしょうか。そこでいくつかの資料を見ましたが四ッ家追分にあった道標はダンプカーの接触で破損したため,長光寺に移したというようなことは書いてあっても,道標があった位置や破損した年代については書いてありませんでした。道標の位置について,手持の資料からもネットからも手掛りが得られなかったので,古い航空写真で調べたところ,昭和36年(1961年)撮影の航空写真(国土地理院)にそれらしいものがありました。やはり東の角です(赤円内)。西の角は道路ぎりぎりまで建物があるようです。日本でダンプカーが登場したのが昭和37年(1960年)ごろ(一般社団法人 日本建設機械施工協会のサイトより)ですから,東の角に移された後にぶつけられた可能性が高いと思われます。
航空写真 1961年撮影の航空写真
 見取絵図を見ると,西の角に道標があって,そのすぐ西には一里塚が美濃路の両側にあります。さらによく見ると,道標の北には岐阜街道一里塚が,道の両側にあります。ということは,四ッ家の追分から,4つの一里塚が見えた可能性があります。そうだったとしたら,なかなか壮観だったに違いありません。もしかしたら,そんな光景は日本中を探しても,ここでしか見られなかったかもしれません。ちなみに岐阜街道の次の一里塚は,赤池(稲沢市)にありました。現在,そこには赤池一里塚址石碑が建っています。
4つの一里塚の想像絵 美濃路 四ッ家 4つの一里塚
赤池の一里塚跡 赤池の一里塚跡 左の道が岐阜街道 2020-12-24

 四ッ家追分東角には,四ッ家追分石碑が建っています。見取絵図を見ると,岐阜街道について脇道 中山道加納宿道法五里半/岐阜道法六里半/笠松道法四里半/一ノ宮道法二里半と書いてあります。現在このあたりの岐阜街道は,県道155号線(井之口江南線)となり,ここが県道の始点です。
 見取絵図を見ると,古民家が建っているところから始まって,東に数軒の立場が並んでいます。その立場で,名物のうどんを味わうことができたと伝えられています。


地図上のB点から↗ 2021-03

地図
石碑の内容
四ッ家追分
下津 一宮 黒田を経て
岐阜へ向かう鎌倉街道 後 
の岐阜街道と 稲葉 萩原
起を過ぎて 垂井へ向かう
美濃街道との分岐点である
 昭和四十四年五月
 稲沢市




美濃路が右(南)に曲がるところにある集合住宅の敷地内に,盤桓子誕生地石碑が建っています。丹羽盤桓子徳川幕府尾張藩名筆家非常に優れた書家として有名な人として知られていました。四ッ家追分にあった道標盤桓子の書といわれています。
 写真には写っていませんが,写真の左端から10mほど左(西)に美濃路しるべがあります。


地図上のC点から↖ 2021-03

地図
石碑の内容
盤桓子誕生地
丹羽氏 諱は勖 字は子勉 通称嘉一
盤桓子と號す 安永二年西暦一七七三ここに
生れ 鈴木朗に學んで尾張藩の右筆
となる 天保十二年西暦一八四一に没す
長光寺に葬る
 昭和四十四年五月
   稲沢ロータリークラブ




 美濃路県道136号線(一宮清須線)から分かれて右(南)に曲がり,写真後方へ向かいます。美濃路は,ここから普通の道になります。2kmほどは比較的幅が狭い道が続き,ところどころに古民家神社があります。見取絵図を見ても家並が続いています。ちなみに写真左方に向かっている県道136号線は,高度成長期に開通しました。先ほどと同じ航空写真を見ると,このすぐ先で行き止まりになっています。(赤円)
航空写真 1961年撮影の航空写真 1961年


地図上のC点から↘ 2021-03

地図


 美濃路が細い道となってすぐ,道の左側(東側)に同じようなかたちのが2つ続きます。これは1つ目です。見取絵図を見ると,このあたりに鳥居があって,天王と書いてあります。


地図上のD点から↑ 2020-12

地図
 これは2つ目のです。


地図上のE点から→ 2020-12

地図


先ほど訪れた四ッ家追分にあって破損した道標が,鉄枠で補強された姿で長光寺の門前に置かれています。


地図上のA点から← 2020-12

地図


 2020-12
 道標は元の場所にあったときより深く埋められているようで,下の方にある文字が見えません。文献*mj-119で調べた文字を( )内に加えておきました。
道標の文字
左京都道(并大垣道)
左面
右ぎふ道(并浅井道)
正面
文政二年己卯十二月立
右面


 道標が本来の場所②にあったとき,正面は岐阜街道に面し,左面は美濃路に面していたはずです。そうすれば刻まれている文字が正しい方向を示します。
地図

 いくつかの資料には文政2年,西暦1819年というように書いてありますが,文政2年12月は西暦1820年1月になる可能性が高いと思います。己卯は文政2年の干支です。



 山門を入って最初に目に留まるのが,六角形であることから六角堂とよばれている国の重要文化財地蔵堂です。平安時代に建てられたといわれる長光寺には,見どころがたくさんあります。


 2020-12


長光寺の門前をすぎて右(西)に折れた先に,浅野長勝宅趾石碑があります。


地図上のB点から↖ 2024-03

地図


2024-03
石碑の内容
浅野長勝宅趾
浅野長勝は廣島藩主浅野家
の祖 長政の養父であつて
こゝが居屋敷の趾である
又 豊臣秀吉の室 お祢の
養父でもあつたという
 昭和四十四年五月
 稲沢ロータリークラブ建之




美濃路に戻り,この先の目立たないT字路で立ち止まって左(東)を見ると,小さな橋が見えます。そして橋の手前の左側(北側)に,役所橋跡説明板があります。


地図上のC点から↘ 2020-12

地図


地図上のD点から↗ 2024-03

地図
説明板の内容
  役所橋跡
 江戸時代中期、この橋の北東、
現在の清須市分地に尾張藩の清須
代官所(陣屋)が構えられていた。
美濃街道六角堂村集落と代官所と
を結ぶ役所道がここを通り、この
下を流れる古川用悪水路に役所橋
が架けられていた。
 稲沢市教育委員会


 役所橋は今では味気ない橋ですが,少し前までは古いコンクリートの橋でした。たしか役所橋って書いてありました。ということを聞いたのでGoogle Street Viewで調べたところ,2012年3月に撮影した役所橋がありました。説明板はなかったようです。
以前の役所橋 役所橋 Google Street View 2012年3月撮影

役所橋を渡って(役所橋を渡った先は清須市です。)まっすぐ50mあまり進んだ左手に,清須市名所案内板清須代官所跡が設置されています。見取絵図を見ると,木々に囲まれた屋敷の中に建物がいくつか描かれていて,尾張殿地方役所と書いてあります。


地図上のE点から↗ 2020-12

地図


 2020-12


都市公園北市場美濃路公園の正面入口付近です。この公園は,石碑した看板石「○○公園」などと彫ってある石板。を用いるなど,美濃路のイメージに合わせた古風なデザインでまとめられています。公園内にはトイレや屋根付ベンチなどがあります。


地図上のF点から↙ 2021-03

地図


 2021-03
説明板の説明文
  美濃路の由来
 美濃路は、天正年間(今から約四百年前)織田信雄が幅五間(九
m)の道路に改修させたのが始まりで、東海道と中山道を結ぶ重要
な脇街道であった。
 宮の宿(熱田)で東海道と分かれて、名古屋・清須(清須市)を
経て北市場地内を通り、稲葉・起・墨俣・大垣の各宿を経由して垂
井宿で中山道に合流する。その里程は十四里二十四町十五間(五十
七・六km)といわれた。
 この道は慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原の役にも重要な役割を
果たした。即ち東軍の先鋒として福島正則がこの道を西に進み、さ
らに勝利をおさめた徳川家康がこの道を通って凱旋した。家康凱旋
路、天下統一に因み、江戸時代にはこの道を吉例街道と呼び、江戸
・京都間の往来に盛んに利用された。
 稲葉・萩原・起・墨俣・大垣宿のうち,なぜか萩原宿が抜けています。


説明板の図
説明板の図

 この公園に沿って松並木がある道が美濃路であるかのように描かれていますが,本来の美濃路は公園に沿った道ではありません。肝心な場所に設置されている説明板ですから,美濃路を散策する人がまちがえないように,しっかり描いてほといと思います。この問題については,次の写真で説明します。


 この公園の入口をすぎたところで道が2つに分かれますが,左の細い方の道(幅は約3.5m)が美濃路です。右の方の道は,幅が広く(約6m),公園側に松並木があるので,そのまま進んでしまいそうになりますが,昭和10年(1935年)ごろにつくられた新しい道です。一部のガイドブックGoogleマップ(2024年3月現在)は,この新しい道を美濃路として示しているので,要注意です。


地図上のF点から↘ 2020-12

地図


熱田に向かって進む