最終更新:2012-03-23
新規作成:2007-11-07
東海道新幹線の年表
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東海道新幹線の年表
・東海道
新幹線が開業するまでを特に詳しく書いた。
・関連するものについては東海道新幹線以外についても載せた。
・特記したいところは
赤字で示した。
・「広軌」は現在では
標準軌とよばれているが,当時のまま用いた。
1909年[明治42]
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鉄道院総裁後藤新平が,東京−下関間を広軌にした場合の有意性について調査をさせた。 |
1911年4月[明治44]
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「広軌鉄道改築準備委員会」が設けられた。しかし8月に内閣が変わって委員会は消滅した。 |
1916年[大正5]
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鉄道院総裁後藤新平は,(鉄道院)横浜線の原町田(現在の町田)−橋本間に広軌用の線路を追加した3線区間(三線軌道)の実験線を建設し,広軌鉄道についての調査を開始するように命じた。
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1918年[大正7]
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鉄道院総裁が床次竹二郎に代わって,広軌改築案は廃止となった。 |
1938年[昭和13]
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鉄道省企画委員会に「鉄道幹線調査分科会」が設置された。 |
1939年7月29日(土)[昭和14]
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「鉄道幹線調査分科会」は,島安次郎を特別委員長とする鉄道大臣の諮問機関「鉄道幹線調査会」となり,第1回の会議が開かれた。 |
1939年11月6日(月)[昭和14]
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「鉄道幹線調査会」は
(1) 増設線路は現在線に平行しなくてもよい.
(2) 長距離高速列車を運転する.
(3) 軌間は1,435mmとする.
などを盛り込んだ答申案を採択した。 |
1940年1月16日(火)[昭和15]
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鉄道会議で「東京−下関間新幹線増設に関する件(広軌幹線鉄道計画)」が決まった。
(ここで初めて新幹線という名称が登場) |
1940年[昭和15]
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第75回帝国議会(〜3月25日)で「東京−下関間新幹線増設に関する件」に関する予算案が通過した。これによってルートの選定作業がおこなわれ,現在の新幹線に近いルートが決定された。ただ名古屋−京都間はかなり南の方を通ることになっていた。列車は機関車による牽引で,最高速度は150km/h。東京−大阪間が3時間半〜4時間,大阪−下関間が4時間で,工期は昭和15年(1940年)から15ヶ年とされた。
この計画は一般には「弾丸列車計画」といわれていた。下関から海底トンネルで大陸へ渡るという構想もあった。 |
1941年8月[昭和16]
1942年9月[昭和17]
1943年1月[昭和18]
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戦争のために資材や労働力が不足したため新丹那トンネルの工事が中止された。 |
1944年[昭和19]
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9月に日本坂トンネル(2,174m)が完成した。 |
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新東山トンネルが完成した。 |
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広軌幹線鉄道計画は資材や工事要員が不足したために中止された。
この時点で100km近くの用地を買収していた。 |
1950年3月1日(水)[昭和25]
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80系電車「湘南電車」が東京−沼津に登場した。
湘南電車はその後東京−浜松間で運転され,長編成電車(最大16両編成)を長距離区間運転できるという実績が得られた。 |
1956年5月10日(木)[昭和31]
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「東海道線増強調査会」が設置された。(資料によっては5月20日) |
1957年5月25日(土)[昭和32]
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「鉄道技術研究所」は広軌別線を設けることによって東京−大阪間を3時間で結ぶ超特急も可能であるとの結論を得たので,5月30日に開かれる「鉄道技術研究所創立50周年記念講演会」で発表することにした。車体の軽量化,車上信号(車内信号機),速度自動制御装置についても述べられている。
この内容は新聞などで報道された。 |
1957年5月30日(木)[昭和32]
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東京の山葉ホールで開かれた「鉄道技術研究所創立50周年記念講演会」で,広軌別線を設けることによって東京−大阪間を3時間で結ぶ超特急列車構想が正式に発表された。 |
1957年8月30日(金)[昭和32]
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飽和状態にある東海道線の輸送を検討するため,十河信二国鉄総裁の申し出によって運輸大臣の諮問機関「日本国有鉄道幹線調査会(国鉄幹線調査会)」が設立された。 |
1957年9月5日(木)[昭和32]
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仙山線仙台−作並間で日本最初の交流電化による運転が開始された。 |
1957年9月27日(金)[昭和32]
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小田急電鉄の3000型SE車を使った高速運転試験が東海道線でおこなわれ,三島−沼津間で145km/hが達成された。この試験は島秀雄(島安次郎の長男)技師長が主張する電車列車の優位性を立証するため国鉄内に設置された「電車化調査委員会」が中心となって実施された。 |
1958年3月[昭和33]
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「日本国有鉄道幹線調査会」において検討された「狭軌複々線化案」,「狭軌別線案」,「広軌別線案」のうち,「広軌別線案」が妥当との結論が出された。 |
1958年4月8日(火)[昭和33]
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国鉄本社内に島秀雄技師長を委員長とする「新幹線建設基準調査委員会」が設置された。 |
1958年7月7日(月)[昭和33]
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「日本国有鉄道幹線調査会」は「東海道新線を早急に着工する必要がある」との答申を永野運輸大臣に提出した。東海道新線は,広軌,交流電化(正確には交流饋電),全線立体交差による別線で,国鉄が運営する。超特急は最高速度250km/hで東京−大阪間を3時間,貨物列車は5時間半で走る。
このころの新聞には「東海道新線」と書いてあった。 |
1958年11月1日(土)[昭和33]
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東京−大阪/神戸間に,151系電車による特急「こだま」の運転が開始された。東京−大阪間は6時間50分。 |
1958年12月19日(金)[昭和33]
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「日本国有鉄道幹線調査会」が出した答申が閣議で了承され,工事がおこなわれることになった。工事は「東海道本線の線路増設(複々線化)」として認可を受けた。1964年10月に東京オリンピックが開催されるのに合わせて,完成目標は1964年の春とした。 |
1959年4月20日(月)[昭和34]
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東海道新幹線の起工式が新丹那トンネルの熱海側入口でおこなわれた。式には永野運輸大臣や十河信二国鉄総裁などが参列した。
このころの新聞には「東海道新幹線」という名称が登場していた。 |
1959年7月31日(金)[昭和34]
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151系「こだま型」電車を使って,東海道本線藤枝−島田間でおこなわれた高速試験で,163km/hが達成された。 |
1959年10月8日(木)[昭和34]
1959年11月14日(土)[昭和34]
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駅名と停車駅がほぼ決定した。
特急:東京・名古屋・大阪
急行:東京・横浜・小田原・熱海・静岡・浜松・豊橋・名古屋・米原・京都・大阪
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1959年11月16日(月)[昭和34]
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名古屋と米原の間,岐阜県羽島市にも駅ができることになった。 |
1960年4月11日(月)[昭和35]
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幹線調査室長を経歴した大石重成を総局長とする「新幹線総局」が設置された。 |
1960年7月6日(水)[昭和35]
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東海道新幹線の貨物輸送構想が発表された。最高速度は130km/hで,東京−大阪間の所用時間は5時間半。ピギーパック方式(荷物を積んだトラックごと,鉄道車両に積載する方式)を採用して深夜に運転する。 |
1960年11月21日(月)[昭和35]
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架線試験車クモヤ93形を使って東海道本線藤枝−島田間でおこなわれた高速試験で,175km/hが達成された。 |
1960年12月[昭和35]
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このころから新聞などで「夢の超特急」という名称が使われるようになった。 |
1961年4月22日(土)[昭和36]
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全駅の構想が発表された。横浜,羽島,大阪は現在の駅から離れた場所に設けられる。長さ25mで16両編成の客車(400m)と,長さ15mで30両編成の貨車(450m)に対応させるため,ホームの長さは400m以上とする。駅舎は簡素なものとして高架下などに作る。超特急が通過する駅では上下線のホームの間に通過線を設ける。 |
1961年5月2日(火)[昭和36]
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新幹線建設費用を調達するため世界銀行から8000万ドル(288億円)を借款することになり,十河信二国鉄総裁がワシントンの世界銀行本部で調印した。 |
1961年5月[昭和36]
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新幹線のテストコース「モデル線区」(神奈川県の綾瀬−小田原間約37km)が,このころの新聞に登場していた。 |
1961年7月30日(日)[昭和36]
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新幹線の車両が発表された。長さ25m,幅3.38m,高さ3.95m。車両は2両単位で構成され,各車軸ごとに175kWの電動機を設ける。営業最高速度200km/h,試験最高速度250km/hとし,ATC(自動列車制御装置)を取り付ける。先頭車両の先頭部には20Wの蛍光灯を15本使用した円形の光前頭を設ける。近く6両の試作車両を製作する。 |
1961年10月19日(木)[昭和36]
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岩田−浜松間,名古屋−関ヶ原間の路線と,浜松,羽島の駅の位置が決まり,運輸大臣から認可された。これによって東京−大阪間の全コースが決定された。 |
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モデル線区の中で最も長い弁天山トンネル(1,317m)が貫通した。(資料によってはトンネルの長さ1,316m) |
1962年1月26日(金)〜27日(土)[昭和37]
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高速で走行中の列車がブレーキをかけたときの車輪とレールの状態を調べるため,国鉄成田線佐原−滑河間で「タイヤ・フラット試験」がおこなわれた。 |
1962年3月15日(木)[昭和37]
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モデル線区がある鴨宮基地において,十河信二国鉄総裁出席が出席して「新幹線軌道電気工事起工式」がおこなわれた。 |
1962年4月20日(金)[昭和37]
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綾瀬−鴨宮間32kmに「鴨宮モデル線区」が開設された。
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1962年4月25日(水)[昭和37]
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試作車両A編成(2両編成)が完成し,川口市にある日本車輌蕨[わらび]工場内で十河信二国鉄総裁や報道関係者を乗せて公開試運転がおこなわれた。車体の色はアイボリーホワイトにブルーの帯。 |
1962年5月26日(土)[昭和37]
1962年6月16日(土)[昭和37]
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モデル線区の鴨宮−弁天山トンネル間4kmで試作車両の受け取り試験がおこなわれ,試作車両B編成が初めて新幹線の軌道上を自力で走行した。
翌日にはA編成の自力走行テストがおこなわれた。 |
1962年6月26日(火)[昭和37]
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モデル線区の鴨宮−大磯間で試作車両B編成を用いて公開試運転がおこなわれた。試運転車両には十河信二国鉄総裁も乗車した。 |
1962年7月4日(水)[昭和37]
1962年7月15日(日)[昭和37]
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試験車両が弁天山トンネル内で110km/hを記録した。 |
1962年9月8日(土)[昭和37]
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試験車両A編成がモデル線区で160km/hを記録した。 |
1962年9月20日(木)[昭和37]
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新丹那トンネルが貫通し,島秀雄技師長や大石重成新幹線総局長などが出席して貫通式がおこなわれた。 |
1962年10月27日(土)[昭和37]
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試験車両B編成がモデル線区で190km/hを記録した。 |
1962年10月31日(水)[昭和37]
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試験車両B編成がモデル線区で200km/hを記録した。 |
1962年12月19日(水)[昭和37]
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モデル線区において試験車両が営業時に予定されている最高速度210km/hを達成した。
このころから「トンネル走行時に耳が痛くなる現象」が問題になり始めた。 |
1963年1月[昭和38]
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吾孫子国鉄副総裁を委員長とする「新幹線開業準備委員会」が設置された。
開業時には12両編成の超特急と特急を運行させる計画だったが,資金難のために6両編成の特急だけを1時間に2本運行し,超特急は1965年から運行させることになった。開業予定も1964年10月1日になった。 |
1963年3月11日(月)[昭和38]
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モデル線区で試作車両A編成とB編成を用いて200km/hどうしでのすれ違い試験がおこなわれた。 |
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このころの新聞に「新大阪駅」という駅名が見られる。 |
1963年3月19日(火)[昭和38]
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試験車両B編成ががモデル線区で243km/hを記録した。 |
1963年3月30日(土)[昭和38]
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試験車両B編成がモデル線区で256km/hを達成した。目標だった250km/hを越えることができたので,高速試験はこれで終了した。 |
1963年4月24日(水)[昭和38]
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新幹線のレールを使用して阪急電車が営業運転を開始した。高槻付近の約4kmは新幹線と阪急京都線が平行しているところがあるが,新幹線とともに阪急も高架線にすることになったので,阪急の高架工事が終了するまで,線路を借用することになったもの。
今日は下り線だけを使用し,5月10日からは上り線も使用した。 |
1963年5月20日(月)[昭和38]
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5月19日をもって辞任した十河信二総裁の後任として石田禮助[れいすけ]が国鉄総裁として就任した。 |
1963年7月1日(月)[昭和38]
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「新幹線開業準備委員会」から営業時の車両(量産車)の内容が発表された。7,8号車が一等車,それ以外が二等車で計12両,5号車と9号車は半分がビュッフェ(軽食堂)。二等車の座席は山側が2列,海側が3列。車体のデザインは試験車両B編成に近く,窓の部分を青にする。車両先頭部のスカートは50〜80mmの厚さに強化する。 |
1963年10月11日(金)[昭和38]
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中野種一郎京都商工会議所会頭ら15人が国鉄本社を訪れて「超特急の京都停車」を求める陳情をおこなった。 |
1964年1月[昭和39]
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新聞には羽島市に設ける駅が「岐阜羽島」,横浜に設ける駅が「新横浜」と書いてあった。 |
1964年2月[昭和39]
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新聞に「石田禮助国鉄総裁が安全保証を理由に東京−大阪間3時間の超特急に待ったをかけた。超特急の運転は1965年になるだろう」と書いてあった。 |
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新聞に「新幹線の貨物開業は当初の計画より1年遅れて1965年10月に予定されている。当初は東京(品川)−大阪(鳥飼)だけで,将来は静岡(柚ノ木)と名古屋(日比津)にも貨物駅を設ける構想」と書いてあった。 |
1964年3月2日(月)[昭和39]
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営業用の先行製作車(6両編成のC編成)が完成して鴨宮に搬送された。 |
1964年3月20日(金)[昭和39]
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営業用の車両(6両編成のC編成)による試運転がモデル線区で開始された。 |
1964年3月24日(火)[昭和39]
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新幹線の正式名称が「東海道本線(新幹線)」と決まった。 |
1964年4月20日(月)[昭和39]
1963年4月28日(日)[昭和39]
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量産車(6両編成)を使っての試運転が,鳥飼−米原間約100kmで始まった。出発式は加藤一郎新幹線局長などが出席しておこなわれた。 |
1964年6月26日(金)[昭和39]
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国鉄は新幹線を含めた10月1日におこなわれるダイヤ改正の構想を発表した。新幹線については名古屋だけに停車する超特急が東京−新大阪間4時間,各駅停車の特急は5時間で,それぞれ12両編成で13往復。始発は6時で終着は24時。東京−名古屋間などの区間特急も運転する。 |
1964年7月1日(水)[昭和39]
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川崎市内で,最後に残された線路をつなぐ結合式が行われた。これで全線515kmの線路がつながった。 |
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東京駅の新幹線ホームで起点標をはめ込む式がおこなわれた。 |
1964年7月7日(火)[昭和39]
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超特急の愛称が「ひかり」,特急の愛称が「こだま」と決まった。 |
1964年7月15日(水)[昭和39]
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6両編成の試運転電車が初めて東京駅と大阪駅に乗り入れた。 |
1964年7月17日(金)[昭和39]
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170km/hで走行中の試運転車両が京都の桂川鉄橋上を歩いていた少年をはね,少年は即死するという事故が発生した。 |
1964年7月25日(土)[昭和39]
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12両編成の営業車両を運用して東京−新大阪間の直通試運転が始まった。 |
1964年7月30日(木)〜8月1日(土)[昭和39]
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東京駅の新幹線ホーム(19番線)で新幹線車両(12両編成の営業車両)の一般公開がおこなわれた。 |
1964年8月18日(火)[昭和39]
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国鉄の理事会で超特急「ひかり」の京都停車を決めた。京都駅は最初から名古屋駅と同様にホーム両側に停車できる構造になっていた。 |
1964年8月24日(月)[昭和39]
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東京−新大阪間を5時間で走行する「こだま」ダイヤでの試運転がおこなわた。試運転列車には石田禮助総裁や十河信二前総裁などが試乗した。 |
1964年8月25日(火)[昭和39]
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東京−新大阪間を4時間で走行する「ひかり」ダイヤでの公開試運転がおこなわれ,NHKテレビで実況した。 |
1964年8月31日(月)[昭和39]
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国鉄浜松工場で製作した救援用のディーゼル機関車911型が完成して鳥飼基地に到着した。911型は自重90トン,最高160km/hで走行できる日本では最大の機関車。 |
1964年9月5日(土)[昭和39]
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開業時における最終的なダイヤが発表された。「ひかり」が14往復,「こだま」が12往復のほか,区間「こだま」が4往復運転される。 |
1964年9月10日(木)[昭和39]
1964年9月21日(月)[昭和39]
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パンタグラフが走行中に破損する事故が相次いだため,すべての試運転を中止して車両,架線,軌道の総点検がおこなわれた。(同様の総点検は25日と26日にもおこなわれた) |
1964年9月22日(火)[昭和39]
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新幹線の工事で殉職した210人の慰霊祭が,浜名湖畔に建てられた慰霊碑の前でおこなわれた。 |
1964年9月24日(木)[昭和39]
1964年9月30日(水)[昭和39]
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開業を前にして東京,静岡,名古屋,大阪で招待者の試乗会が開かれた。 |
1964年10月1日(木)[昭和39]
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新幹線東京−新大阪間515.4kmが開業した。
所要時間は超特急「ひかり」が4時間0分,特急「こだま」が5時間0分,最高速度はどちらも210km/h。車両は12両編成で全車指定席。「ひかり」には超特急料金,「こだま」には特急料金が適用された。 |
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東京駅のホームでは出発式典が開かれ,石田禮助総裁によるテープ・カットに続いて「ひかり1号」が出発した。 |
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東京丸ノ内の国鉄本社において天皇皇后両陛下御出席のもとて開業式がおこなわれた。 |
1964年10月17日(土)[昭和39]
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新幹線の貨物輸送が延期されることになった。資金難,経済効果が期待できない,夜間の線路保守作業に支障をきたすなどが延期の理由。 |
1965年[昭和40]
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車体に付着した雪が走行中に落下してバラストを跳ね飛ばし,飛ばされたバラストが車体に損傷を与えることが問題になりはじめた。
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1965年6月1日(火)[昭和40]
1965年11月1日(月)[昭和40]
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東京−新大阪間の所要時間は「ひかり」が3時間10分,「こだま」が4時間0分となった。 |
1966年[昭和41]
1967年3月10日(金)[昭和42]
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東京駅の16番線ホームが完成し,「ひかり」と「こだま」のホームが分けられた。 |
1967年3月16日(木)[昭和42]
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山陽新幹線新大阪−岡山間の起工式がおこなわれた。 |
1967年11月25日(土)[昭和42]
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岐阜羽島−米原間に融雪用のスプリンクラーが設置された。 |
1968年6月6日(木)[昭和43]
1968年12月1日(日)[昭和43]
1969年4月25日(金)[昭和44]
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三島駅が開業した。これにともなって「こだま」の東京−新大阪間の所要時間は4時間10分となった。 |
1969年5月10日(土)[昭和44]
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一等車,二等車という等級制が廃止され,二等車は普通車,一等車はグリーン車とよばれるようになった。 |
1969年12月8日(月)[昭和44]
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16両編成による「ひかり」の運転が開始された。 |
1970年2月10日(火)[昭和45]
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山陽新幹線岡山−博多間の起工式がおこなわれた。 |
1970年2月25日(水)[昭和45]
1970年5月13日(水)[昭和45]
1971年8月31日(火)[昭和46]
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新大阪駅構内で,山陽新幹線のレールと結合する締結式がおこなわれた。 |
1971年12月3日(金)[昭和46]
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東京駅の新幹線ホームにエスカレータが設置され,使用が開始された。 |
1972年1月27日(木)[昭和47]
1972年2月24日(木)[昭和47]
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2両編成の951形試験電車が山陽新幹線新神戸−相生間で電車の世界最高速度286km/hを達成した。 |
1972年3月15日(水)[昭和47]
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山陽新幹線の新大阪−岡山間161kmが開業した。東京−岡山間の最速列車は4時間10分。 |
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「ひかり」の1〜4号車が自由席となった。 |
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超特急というよび方を廃止して,「ひかり」も「こだま」も特急とよばれるようになった。 |
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隣接する駅間の割引自由席特急券400円が発売された。 |
1972年6月29日(木)[昭和47]
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16両編成による「こだま」の運転が開始された。 |
1972年10月2日(月)[昭和47]
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北陸本線の特急と接続させるために「ひかり」3往復が米原に停車することになった。「ひかり」の停車駅変更はこれが初めて。 |
1973年4月20日(金)[昭和48]
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東京駅18・19番線ホームに「新幹線建設記念碑」が建てられ,除幕式がおこなわれた。 |
1973年7月9日(月)[昭和48]
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6両編成の961形試験電車が納入され,試験走行がおこなわれた。961形は東北新幹線でも走行できるように50・60Hz両対応となっている。 |
1973年7月29日(日)[昭和48]
1973年9月1日(土)[昭和48]
1974年9月5日(木)[昭和49]
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新幹線では初めてとなる食堂車が「ひかり」で営業を始めた。 |
1974年10月1日(火)[昭和49]
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新幹線開業10周年を記念して,旧鴨宮基地(現在は新幹線鉄道事業本部鴨宮保守基地)内に「新幹線発祥之地」記念碑が建てられた。(10月1日に除幕式がおこなわれた?)
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1974年10月31日(木)[昭和49]
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7両編成の電気軌道総合試験車922形(T2編成)が完成した。この試験車は「ドクター・イエロー」とよばれるようになった。 |
1974年12月11日(水)[昭和49]
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午前中新幹線の全列車を運休させて点検作業をおこなう「新幹線臨時総点検」の第1回目が実施された。(以後3回実施された) |
1975年1月20日(月)[昭和50]
1975年3月10日(月)[昭和50]
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山陽新幹線の岡山−博多間393kmが開業し,山陽新幹線の全区間553.7kmが営業路線となった。東京−博多間の最速列車は6時間56分。 |
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「ひかり」と「こだま」の料金差別が廃止された。 |
1976年2月25日(水)[昭和51]
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午前中新幹線の全列車を運休させて老朽した施設の更新作業をおこなう「長大工事間合設定更新工事(通称は新幹線若返り工事)」の第1回目が実施された。 |
1976年8月20日(金)[昭和51]
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「こだま」の16号車が自由席・禁煙車となった。 |
1977年3月24日(木)[昭和52]
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ガラス窓をやや小さくした1000番台の車両が登場した。 |
1980年10月1日(水)[昭和55]
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「ひかり」の停車駅が多様化し,これまでの新横浜,静岡,米原に加えて小田原,浜松,豊橋,岐阜羽島に停車する「ひかり」も登場した。 |
1980年10月1日(水)[昭和55]
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「ひかり」の1号車が自由席・禁煙車となった。「こだま」の自由席・禁煙車は16号車から1号車に変更された。 |
1981年5月15日(金)[昭和56]
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世界銀行からの借款8000万ドル(288億円)の返済が完了した。
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1981年8月1日(土)[昭和56]
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乗務員室を使用した小荷物輸送「レールゴーサービス」が東京−新大阪間で開始された。 |
1981年11月14日(土)[昭和56]
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普通車をリクライニングシートにしてシートピッチを広げた2000番台の車両が登場した。 |
1982年1月27日(水)[昭和57]
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最終回となる44回目の「長大工事間合設定更新工事(通称は新幹線若返り工事)」がおこなわれた。 |
1982年6月23日(水)[昭和57]
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東北新幹線の大宮−盛岡間465.2kmが開業した。 |
1982年11月15日(月)[昭和57]
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上越新幹線の大宮−新潟間269.5kmが開業した。 |
1983年1月31日(月)[昭和58]
1984年7月1日(日)[昭和59]
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走行中の車両へ電気を供給するための設備を,BT饋電[きでん]方式からAT饋電方式に改良する工事が開始された。 |
1984年12月7日(金)〜12月18日(火)[昭和59]
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営業最高速度を210km/hから220km/hに上げるための試験走行が,米原−岩国間でおこなわれた。
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1985年3月9日(土)[昭和60]
1985年3月14日(木)[昭和60]
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ダイヤ改正がおこなわれて「こだま」が減少し,新横浜停車の「ひかり」が大幅に増加した。最速列車の東京−新大阪間は従来よりも2分短縮の3時間8分,東京−博多間は16分短縮の6時間24分になった。 |
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すべての「こだま」が12両編成になった。 |
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東北新幹線の上野−大宮間27.7kmが開業し,最高速度が240km/hに引き上げられた。 |
1985年3月27日(水)[昭和60]
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100系試作車(16両編成)の試運転が開始された。100系は,0系のアイボリーホワイトがパールホワイトに変更され,白さが増した。 |
1985年10月1日(火)[昭和60]
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100系試作車を営業用に投入して,「ひかり」での運用が始まった。 |
1986年3月26日(水)[昭和61]
1986年6月13日(金)[昭和61]
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仮の12両編成による100系量産車が,「こだま」として運用を始めた。 |
1986年11月1日(土)[昭和61]
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100系が「ひかり」として本格的に運用され,東京−新大阪間の最速は2時間52分になった。 |
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開業時から変わらなかった最高速度が,220km/hに引き上げられた。 |
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山陽新幹線区間に,0系による6両編成の「こだま」が登場した。
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1987年4月1日(水)[昭和62]
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国鉄は分割民営化され,東海道新幹線は東海旅客鉄道(JR東海)が,山陽新幹線は西日本旅客鉄道(JR西日本)が運営することになった。 |
1987年10月16日(金)[昭和62]
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東海道新幹線に,通路両側の座席を2列ずつ配置した2&2シートの「こだま」が登場した。
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1988年3月13日(日)[昭和63]
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東海道新幹線の新富士,掛川,三河安城駅,山陽新幹線の新尾道,東広島駅が開業した。 |
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東京−新大阪間の最速が2時間49分になった。 |
1989年2月9日(木)[平成1]
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地震動早期検知システム(ユレダス)が沿線14箇所に設置された。 |
1989年3月9日(木)[平成1]
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100系の電光表示システムを使って,ニュースの提供が開始された。 |
1989年3月11日[平成1]
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二階建車両4両を組み込んだ,JR西日本仕様の100系による「グランドひかり」が登場した。
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山陽新幹線区間では,100系の最高速度が230km/hに引き上げられた。
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1989年4月29日(土)[平成1]
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16両から12両に短縮されていた「こだま」の,再16両編成化が始まった。 |
1990年3月8日(木)[平成2]
1990年3月10日(土)[平成2]
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山陽新幹線博多駅から車両基地がある博多南駅をむすぶ回送線を,旅客線として使用する博多南線8.5kmが開業した。新幹線の施設を使用するが,扱いは在来線である。
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1991年2月28日(木)[平成3]
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300系試作車が,京都−米原間で325.7km/hを記録した。 |
1991年3月3日(日)[平成3]
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BT饋電[きでん]方式からAT饋電方式に改良する工事が完了した。 |
1991年3月16日(土)[平成3]
1991年3月26日(火)[平成3]
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上越新幹線湯沢トンネル内で,400系が,336km/hを記録した。 |
1991年6月20日(木)[平成3]
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東北新幹線の東京−上野間3.6kmが開業した。
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1991年12月6日(金)[平成3]
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1992年春に予定されている東京−新大阪間を2時間半でむすぶ高速列車の愛称が「のぞみ」に決まった。 |
1992年2月26日(水)[平成4]
1992年3月5日(木)[平成4]
1992年3月14日(土)[平成4]
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300系車両を使って東京−新大阪間を2時間30分でむすぶ「のぞみ」が,早朝と深夜の2往復運転された。最高速度は270km/h。全車指定席。そのうち「のぞみ301号」は新横浜だけに停車し,名古屋と京都を通過した。 |
1992年7月1日(水)[平成4]
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山形新幹線の福島−山形間87.1kmが開業した。山形新幹線は奥羽本線福島−山形間を標準軌に改軌した,最初の「ミニ新幹線」である。
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1992年8月1日(土)[平成4]
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品川車両基地を廃止して,大井車両基地に一本化した。 |
1992年8月8日(土)[平成4]
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JR西日本の高速試験電車WIN350が,山陽新幹線区間の小郡(現在は新山口)−新下関間で,350.4km/hを記録した。
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1993年3月18日(木)[平成5]
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「のぞみ」が毎時1本の運転となり,区間も博多まで延長された。東京−博多間の所要時間は5時間4分。 |
1993年12月21日(火)[平成5]
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JR東日本の高速試験電車STAR21が,上越新幹線の燕三条−新潟間で425km/hを記録した。
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1995年1月17日(火)[平成7]
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兵庫県南部地震(阪神大震災)によって京都−岡山間が不通になった。 |
1995年1月20日(金)[平成7]
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地震災害で不通になっていた京都−新大阪間と姫路−岡山間が復旧し,運転を再開した。 |
1995年4月8日(土)[平成7]
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地震災害で不通になっていた新大阪−姫路間が復旧し,一部徐行で運転を再開した。 |
1995年5月2日(火)[平成7]
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新大阪−姫路間の徐行区間がなくなり,正常ダイヤによる運転を再開した。 |
1995年9月17日(日)[平成7]
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東京を発着する「ひかり」において,0系の運用がなくなった。
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1996年7月26日(金)[平成8]
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JR東海の高速試験電車300Xが,米原−京都間の上り線で,国内最高の443km/hを記録した。 |
1996年12月2日(月)[平成8]
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JR西日本が開発した500系電車の試運転が米原−京都間で開始された。 |
1997年3月22日(土)[平成9]
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新大阪−博多間を最高速度300km/hで走行する500系「のぞみ」が登場した。 |
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秋田新幹線の盛岡−秋田間127.3kmが,山形新幹線に次いで2番目の「ミニ新幹線」として開業した。 |
1997年10月1日(水)[平成9]
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北陸新幹線の高崎−長野間,通称「長野新幹線」117.4kmが開業した。 |
1997年10月27日(月)[平成9]
1997年11月29日(土)[平成9]
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東京−博多間直通の,500系による「のぞみ」3往復の運転が始まった。所用時間は4時間49分。最高速度は300km/hであるが,東海道新幹線区間では270km/hとしている。 |
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名古屋と京都に,すべての「のぞみ」が停車するようになった。 |
1998年10月30日(金)[平成10]
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東海道新幹線の「ひかり」において,0系の運用がなくなった。
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1999年3月13日(土)[平成11]
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東京−博多間直通の,700系による「のぞみ」3往復の運転が開始された。最高速度は東海道新幹線区間では270km/h,山陽新幹線区間では285km/h,所用時間は5時間1分。 |
1999年9月18日(土)[平成11]
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東海道新幹線区間における0系車両の運用が本日の東京−名古屋間の「こだま473号」で終了し,東京駅と名古屋駅で「引退式」がおこなわれた。 |
1999年12月4日(土)[平成11]
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山形新幹線の山形−新庄間61.5kmが開業した。 |
2000年3月10日(金)[平成12]
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東海道・山陽新幹線にあった食堂車は,本日をもって営業を終えた。
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2000年7月1日(土)[平成12]
2002年12月1日(日)[平成14]
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東北新幹線の盛岡−八戸間96.6kmが開業した。 |
2003年9月16日(火)[平成15]
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東海道新幹線区間における100系車両の運用が本日の東京−新大阪間の「ひかり309号」で終了した。 |
2003年10月1日(水)[平成15]
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東海道新幹線品川駅が開業した。 |
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東海道・山陽新幹線は,「のぞみ」主体のダイヤになった。 |
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山陽新幹線小郡駅の名称を新山口駅に改称した。 |
2003年12月2日(火)[平成15]
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山梨リニア実験線で,有人の超電導磁気浮上リニアモーターカーが581km/hを記録した。
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2004年3月13日(土)[平成16]
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九州新幹線の新八代−鹿児島中央間126.8kmが開業した。 |
2004年10月23日(土)[平成16]
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新潟中越地震のため,高速で走行中の上越新幹線「とき325号」が脱線した。幸いに転覆などの大事には至らず,死傷者はいなかった。
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2007年7月1日(日)[平成19]
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JR東海とJR西日本が共同開発したN700系による「のぞみ」の運転が東京−博多間で開始された。最高速度は東海道新幹線区間で270km/h,山陽新幹線区間で300km/h,所用時間は最速で東京−新大阪間が2時間25分,東京−博多間が4時間50分。 |
2007年10月14日(日)[平成19]
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埼玉県大宮市に「鉄道博物館」がオープンし,新幹線関係では200系の先頭車や,0系のカットモデルなどが展示されていた。
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2008年3月15日(土)[平成20]
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東海道・山陽新幹線の「のぞみ」がさらに増加し,「のぞみ」:「ひかり」:「こだま」の運転比が9:2:1になった。
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2008年7月28日(月)[平成20]
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東海道・山陽新幹線の車両に,AED(自動体外式除細動器)の搭載が開始された。
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2008年10月23日(木)[平成20]
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試運転を終えてJR東海浜松工場に向かっていたN700系試作車Z0編成の最後尾前部の2軸と次の車両の後部2軸が,工場に入る手前のポイントで脱線した。
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2008年11月30日(日)[平成20]
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山陽新幹線区間で「こだま」に使用されていた0系が,本日をもって運用から外された。これをもって0系の定期運用がなくなった。
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2008年12月16日(火)[平成20]
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山陽新幹線区間で0系による「ひかり」を臨時運転た。これをもって0系の運用が終了した。
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2009年2月26日(木)[平成21]
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JR九州と西日本は,2011年春に新大阪−鹿児島中央間を直通運転する列車の愛称を「さくら」とすると発表した。
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2009年3月14日(土)[平成21]
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JR東海は,車内の無線LAN接続サービスを開始した。
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名古屋始発6時36分の東京行「のぞみ」が登場した。
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2009年4月19日(日)[平成21]
2009年6月26日(金)[平成21]
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700系の加速度が2.0km/h/sに向上した。
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2009年11月17日(火)[平成21]
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JR東海は,新幹線を海外へ売り込むために,各国の大使などをN700系による高速運転試乗会に招待した。このとき米原−京都間で,最高330km/hで走行した。
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2010年1月29日(金)[平成22]
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新横浜−小田原間を走行中の300系「こだま659号」が架線を切断したために停電するという事故が発生し,3時間半ほど上下線で運転できなくなった。
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2010年12月4日(土)[平成22]
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東北新幹線の八戸−新青森間81.8kmが開業し,東京−新青森間全線674.9kmでの営業が始まった。
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2011年3月5日(土)[平成23]
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東北新幹線において,E5系10両編成による「はやぶさ」の運転が開始された。最高時速は300km/h,東京−青森間を最短3時間10分で運転する。
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2011年3月11日(金)[平成23]
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東日本大震災により,東北,山形,秋田の各新幹線全線で運転できなくなった。
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2011年3月12日(土)[平成23]
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九州新幹線の新八代−鹿児島中央間が開業し,博多−鹿児島中央間全線256.8kmでの営業が始まった。これにともない,山陽新幹線の新大阪と鹿児島中央間で,相互直通運転も始まった。
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2011年3月14日(月)[平成23]
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名古屋港金城埠頭に,JR東海「リニア・鉄道館」がオープンした。新幹線関係では,0系,100系,300系,高速試験電車300X,超電導磁気浮上リニアモーターカーなどが展示されている。
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2011年4月29日(金)[平成23]
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震災のために最後まで不通になっていた東北新幹線の仙台−一ノ関間が復旧し,全線での運転が再開された。これにともない,本来は3月12日に実現するはずであった鹿児島中央から新青森まで2000.8kmの新幹線による旅が,ようやくできるようになった。
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2011年5月30日(月)[平成23]
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JR東海は,N700系に改良を加えたN700Aを,2012年度以降に投入すると発表した。
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2011年9月11日(日)[平成23]
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JR東海は「新大阪駅大規模線路切替工事」を実施した。
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2012年3月16日(金)[平成24]
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100系と300系車両の運用が本日で終了した。300系の引退を記念して,東海道新幹線区間では東京発新大阪行の臨時列車「のぞみ329号」が,山陽新幹線区間では新大阪発博多行の臨時列車「のぞみ609号」が運転された。100系は東海道新幹線区間での運用が終了した後も山陽新幹線区間で運用されていたが,本日をもって終了となったため引退を記念して,岡山発博多行の臨時列車「ひかり445号」が運転された。 |
2012年3月17日(土)[平成24]
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JRグループのダイヤ改正がおこなわれ,東海道新幹線区間の定期「のぞみ」はすべてN700系で統一された。
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参考文献
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世界の鉄道 別冊「日本の鉄道100年」
朝日新聞社/発行1971
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▽ |
毎日グラフ 増刊「日本の鉄道 新幹線」
毎日新聞社/発行1974-12-05
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▽ |
鉄道総合年表 1972-93
池田光雅/中央書院/発行1993-08-30
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▽ |
戦後国鉄五十年の歩み
久木田末夫著/交通新聞社/発行1995-11-20
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▽ |
時刻表でたどる鉄道史
宮脇俊三編著/JTB/発行1998-01-01
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▽ |
国鉄の戦後がわかる本(上巻)
所澤秀樹著/山海堂/発行2000-03-10
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▽ |
新幹線をつくった男 島秀雄物語
高橋団吉著/小学館/発行2000-05-01
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▽ |
写真・時刻表で見る新幹線の昨日・今日・明日「東海道新幹線」
須田寛著/JTB/発行2000-08-01
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▽ |
東海道線130年の歩み
吉川文夫著/グランプリ出版/発行2002-06-05
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▽ |
新聞や雑誌の記事
毎日新聞,朝日新聞,鉄道ピクトリアル
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▽ |
Webサイト
JR東海,JR西日本,鉄道コム
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